Eine Kleine Ⅱ

 大学入学を翌週に控えた晩夏の午後。
クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウは、聖域の呼び出しに応じていた。
 白大理石の回廊を進む足音が、冷ややかに響く。
辿り着いた先にある荘厳な扉の執務室で、文官筆頭教皇補佐官、双子座の黄金聖闘士サガが待っていた。
「クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウ。参上いたしました」
 深く一礼するクロエに、サガは低い声で告げた。
「君に任務を命ずる」
「はい」
「今度、君が入学する大学に、メリッサ・ドラコペトラという女子学生が復学する。彼女の行動を密かに監視してもらいたい。――メリッサ・ドラコペトラの情報だ」
 差し出された薄い封筒を受け取る。
「目的と理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「彼女の身辺に不穏な動きがないか、目を光らせておいてほしい」
 一拍置いて、サガは続けた。
「……理由は、彼女が冥闘士だからだ」
「冥闘士……」
 その言葉が、空気をわずかに震わせた。
 サガは、彼女の反応を予期していたように静かに言葉を重ねた。
「誤解しないでくれ。冥王軍とは既に袂を分かっている。今の彼女は敵ではない」
「では、何故、監視を?」
「……彼女は、教皇の想い人なのだ」
「え…教皇猊下の……?」
 思わず問い返すクロエに、サガは小さく苦笑した。
「驚くのも無理はない。教皇は二百年以上を生きたお方だ。だが、聖戦の後に我々と共にアテナのご加護をいただき、若き肉体で蘇っておられる。今のお姿は君たちと同じ年頃だ」
 クロエは息を詰めた。想像もしなかった事実だった。
「更に言えば、メリッサ・ドラコペトラ嬢も教皇を慕っている」
「では……お二人は、恋人同士ということでしょうか?」
「いや。どちらも恋愛に不器用でな。心のうちをまだ言葉にしていないようだ」
 クロエの唇がわずかに動く。
「――両片想い、ということですね?」
「ほう、今どきはそう言うのか」
 サガの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「その想いが彼らの力となるか、脆さとなるか――それは、まだわからん。しかし、メリッサ・ドラコペトラ嬢を教皇妃の第一候補に我々は考えている。だからこそ、君に託す。そして、冥王軍を離脱したとはいえ、向こうが奪還を試みないとは限らん。彼女を見守れ。異変を感じたら、ただちに報告を」
「御意」
 クロエは胸に手を当て、深く頭を下げた。
 任務とはいえ、恋に生きる者を見張るというのは苦い務めだった。だが、忠誠を誓った者として、その躊躇いを胸の奥に封じる。
 白い回廊をあとにしたとき、外の空には秋の風が吹き始めていた。
 金色の光が、彼女の肩に静かに降り注いでいた。

 数日後。
 まだ夏の名残をとどめた風が、プラタナスの葉をやわらかく揺らしていた。新入生の笑い声が響くキャンパスの中を、メリッサ・ドラコペトラは一人歩いていた。
 一年の休学を経ての復学。見知ったはずの大学が、どこか違って見える。
 肩まで伸びた栗色の髪が、風にほどける。蜂蜜色の瞳はまっすぐ前を見ていたが、時折、周囲の視線に気づいてわずかに泳いだ。
 見られている。
 それを肌で感じていた。
 理由は一つ。
「すごい美人の留年生がいる」
 その噂が、早くも新入生の間で広がっていたのだ。
 なるべく目立たぬように選んだ控えめな服も、彼女の清楚な美貌を隠しきれなかった。
 指定された教室に入ると、まだ午前の日差しが斜めに差し込んでいた。
 白い壁に光がやわらかく反射し、机の木目を淡く照らしている。
 すでに数名の学生が着席し、静かに配布資料をめくったり、スマートフォンを覗き込んだりしていた。
 初日の教室特有の緊張と期待が、空気の中に溶け込んでいる。
 メリッサは入口から最も遠い前列の端に、そっと腰を下ろした。
 筆記具をきちんと並べ、深く息を整える。
 そのとき、明るくも落ち着いた声が耳に届いた。
「おはよう。隣、空いてるかしら?」
 顔を上げると、柔らかな茶髪を肩で結んだ女性が立っていた。
 淡いオリーブ色の瞳が、春の陽光のように穏やかに微笑む。
「あ……はい。どうぞ」
「ありがとう。私、クロエ・ヴァシリウ。よろしくね」
 その隣から、もう一人の女性が人懐こい笑顔を見せた。黒髪をきちんとまとめ、瞳の奥に東洋の血を思わせる静かな光を宿している。
「わたしはアリサ・フジサキ。よろしく」
「メリッサ・ドラコペトラです……よろしくお願いします」
 小さく頭を下げたメリッサの所作に、二人の視線が柔らかく交わる。
 クロエは微笑みながらも、胸の奥でそっと思った。
 (この人が、教皇猊下の……)
 一瞬だけ、その瞳に緊張の色が走る。
 けれどすぐに、いつもの穏やかな笑みを取り戻した。
「今日から同じクラスね。心強いわ」
「ええ……こちらこそ」
 窓の外では、若葉を揺らすプラタナスの影が、三人の机の上をかすめていた。
 春の光に包まれたその瞬間が、まだ誰も知らぬ運命の始まりを、静かに告げている。

 昼に近い時間、オリエンテーションが終わり、学生たちがざわめきながら席を立ち始めた。
 メリッサが机の上を片づけていたとき、背後から澄んだ声がした。
「……あの、メリッサ・ドラコペトラさん?」
 振り返った瞬間、息が止まった。
 金糸のように光をはらむ髪、透き通る菫色の瞳。
 立ち姿までもが――あまりにも見覚えのあるものだった。
「初めまして。僕はレオン・カヴァリエといいます」
 穏やかな笑みを浮かべながら、彼は手を差し出した。
「よかったら、一緒に学食でランチしませんか?日替わりランチが美味しいと評判なので」
 その瞬間、思考が真っ白になる。
 言葉の意味を追うより先に、心がざわめいた。
 また、身分を偽って近づいてきたの?
 そう疑いたくなるほどに、髪の長さを除けば、レオン・カヴァリエはシオンと瓜二つだった。
 「あ……ごめんなさい。お弁当、持ってきているの」
 咄嗟にそう答えるのが精一杯だった。
「そうですか。では、今度ご一緒できたら嬉しいです」
 レオンはにこやかに頷き、軽く会釈して去っていく。彼が去っていったあとも、メリッサの心は乱れていた。
(びっくりした!なになになに!?あの人、シオン様にそっくりなんだけど!?)
 まさか――あんなに似ている人が存在するなんて。
 姿形だけじゃない。声の調子、言葉の選び方、まとう空気までもが、あの人にそっくりだった。
 混乱する思考をなんとか整えようと、メリッサは深呼吸を一つした。
 そんな彼女の横で、クロエは手元のペンをくるりと回しながら、静かにその様子を観察していた。
「……知り合い?」
 穏やかに問うその声の裏に、わずかな警戒が滲む。
「えっ?あ、ううん。知らない人。いきなりランチに誘われたからびっくりしただけ」
 メリッサは慌てて首を振るが、言葉の端に動揺が混じる。
 クロエは小さく頷いた。
「そう……初日から随分、積極的な人ね」
「う、うん……」
 メリッサが視線を伏せると、クロエは表情を緩める。だがその微笑みは、友好的でありながら、どこか探るようでもあった。
(――接触者一名。名はレオン・カヴァリエ。初日からメリッサに接近。目的は不明。外見・態度ともに温厚。……だが、油断は禁物)
 クロエはノートの片隅にそっとメモを取り、何事もなかったかのようにページをめくった。
 そのクロエの向こうの席で、アリサが弾むように声を上げる。
「ねぇねぇ、今の男子、すっごいイケメンだったね!もぉ、メリッサってば、何で断っちゃったの?もったいない」 
「だって……お弁当持ってきてるから……」
 メリッサは戸惑いながら答え、鞄に入っている包みを取り出した。
「え!本当にお弁当持ってきてるの?断る口実じゃなくて?」
「うん…昨日の夕食の残りを詰めただけなんだけどね」
 メリッサは、はにかみながら包みを見つめる。
「そっかぁ……お母さんが用意してくれたなら、お弁当一択だよねぇ……」
「ううん、自分で用意してるの。あたし、一人暮らしだから」
「へぇ、そうなんだ。偉いねぇ」
 アリサは感心したように頷く。
 隣に座るクロエは、二人の会話を静かに耳に入れながら、表情を変えずにノートに控える。
 メリッサの仕草や言葉から、自立心の強さや普段の様子を少しずつ把握していく。
 だが、レオンの接触があったばかりのため、警戒心は緩めない。
 (今日の接触は偶然か、意図的か。見極める必要があるわね)
「ねぇ、メリッサ、一緒にカフェテリアでランチしようよ。カフェでお弁当食べても大丈夫みたいだよ」
 アリサが明るく声をかける。クロエも笑みを浮かべて頷く。
「ううん……いいの。一人で食べる」
 メリッサは柔らかく微笑むが、その瞳はどこか遠くを見ている。
「え?どうして?」
 アリサが首を傾げる。
「席を使いたい人の迷惑になるかもしれないから」
 軽く答えた言葉の端に、彼女の慎重さと距離感が滲む。
「メリッサ、慎ましやかだねぇ」
「慎ましやかって…人生で初めて言われたよ」
「そうなの?遠慮深い感じするけどな。じゃあ、いつかメリッサの良い時に一緒に食べよ?」
「うん、分かった」
「約束ね!じゃ、わたしとクロエは食堂行くね!」
 学食の賑わいの中で、クロエとアリサはメニューを選び、笑い声を交えながら食事を楽しむ。メリッサへ余計な干渉はせず、ただ静かに、彼女の行動を頭の片隅で記録していた。
 一方メリッサは、少し離れた中庭のベンチに腰を下ろす。
 鞄から取り出した弁当は、昨日の夕食の残りを詰めたものだ。日差しが柔らかく揺れる木陰で、一人静かにフォークを動かす。
 周囲の賑わいから距離を置き、自分のペースで食事をする時間――これが、今の彼女にはちょうどよかった。
 ふと、足音が近づく。
 軽く、柔らかい響き。
 思わず顔を上げると、木陰を抜けてくる人物の影が目に入った。
「……あの」
 声の主は、さっき教室で声をかけてきた男子学生、レオン・カヴァリエだった。
 彼は柔らかく微笑み、小さく手を挙げる。
 金髪に菫色の瞳。髪の長さを除けば、あまりにも似通った佇まい。
 胸の奥がざわつき、同時に警戒心が走った。
(……断ったのに近づいてくるなんて……どういうつもり?)
 目の前のレオンは悪意を持っている様子はない。
 でも、初対面でここまで距離を詰めてくるのは、やはり油断できない。
「ここ、座ってもいいですか?」
 レオンは、ベンチの端で軽く一礼しながら尋ねた。その声色は柔らかく、攻撃的な印象はまったくない。
 メリッサは一瞬迷ったが、静かに首を振る。
「……ごめんなさい、一人で食べたいので」
 レオンは少し残念そうに微笑むが、無理強いはしない。
「そうですか……わかりました」
 その柔らかい態度に、メリッサの胸のざわつきは、さらに複雑に絡み合った。
 警戒すべき相手か。でも、悪意は感じられない。あまりにも穏やかで、品のある笑み。それが、かえって不気味なくらいに、彼女の心を揺さぶった。
 フォークを握り直すメリッサ。
 視線を感じながらも、弁当を口に運ぶ。
 木漏れ日の中、葉擦れの音が微かに響く。
 少し離れた食堂から、クロエは二人を静かに観察していた。
 向こうで繰り広げられるのは、ほんの短いやり取り。だが、聖域で見習い女官として培った直感が告げる。
 あの男子学生は、注意を払うべき存在だ。
(接触者、レオン・カヴァリエ……初日からメリッサに近付く。表情や仕草からは悪意なし)
 クロエは心の中で冷静に記録する。
 彼女自身が持つ小宇宙感知の力では、特徴的な小宇宙を発していないため、邪悪さや攻撃性は全く感じられない。
 それでも警戒は必要だ。初対面で接近してくること自体、注意を要する兆候である。
(距離を保とうとする……自衛意識が高い。弁当を一人で食べるのも、その表れね)
 クロエはノートにメモを取りながら、柔らかい微笑みを浮かべる。
 レオンは礼儀正しく、穏やかで、今のところ危険性は見当たらない。だが、初日から接近してきたという事実だけで、クロエは彼を警戒対象として認識していた。
(今日のところは、観察を続けるだけにしましょう)
 クロエは心の中でそう決め、静かに二人の様子を見守った。


 昼休みの鐘が鳴ると同時に、教室がざわめきに満ちた。
 友人同士が笑いながら連れ立って学食へ向かう中、メリッサはいつものように机の中から小さなランチバッグを取り出した。前日の夕食を少しアレンジしただけの軽食が詰められた弁当。彩りは控えめだが、オリーブオイルとハーブの香りがほのかに漂う。
「ねえ、メリッサ。一緒に食堂行きましょう?」
 クロエが声をかける。隣の席で、彼女は軽く髪を耳にかけながら微笑んでいた。その向かいでアリサも頷く。
「そうそう、外で食べるのもいいけど、寒くなってきたしね?今日のランチメニュー、スープ付きなんだって」
 メリッサは小さく微笑んだ。
「ありがとう。でも、食堂、混んでるでしょう?あたしが場所取っちゃうと悪いから。大丈夫。外のベンチ、陽当たり良いから」
 そう言ってバッグを手に持つと、軽やかに立ち上がった。
「……相変わらず、遠慮がちだね」
 アリサが小声で呟く。
「そういうところが、彼女らしいのよ」
 クロエは柔らかく笑ったが、その瞳の奥には微かな探るような光があった。
 見習い女官時代の訓練で培った感覚で、もし、彼女の小宇宙に異変があれば気づくはずだった。だが、今のメリッサからは何も感じ取れない。まるで、彼女が自分の存在の痕跡すら隠しているように。
 遠慮がち、慎ましやか、控えめ。
 確かにメリッサの振る舞いは人目につくことを好まない人間のそれだった。
 クロエは無言のまま、彼女の細い背を目で追った。
 そしてもう一人――教室の後方から視線を送る青年に気づく。
 レオン・カヴァリエ。
 穏やかな眼差し、整った金髪、そしてどこか品のある立ち居振る舞い。

 彼は毎日のように、昼になると決まって同じ言葉を口にする。
「ドラコペトラさん。ランチ、一緒に食べませんか?」
 今日もまた、その声が廊下に響いた。
 振り向いたメリッサは、少し申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんね、カヴァリエくん。あたし、外で食べるのが好きなの」
「そっか。じゃあ、今度は僕もお弁当持って外に行こうかな」
 冗談めかした口調。だが、どこか本気の響きがある。
 その様子を見ていたアリサが小声で呟いた。
「懲りないね、あの人。何回断られてるんだろ」
「入学初日から毎日だから、もう10回目よ」
 クロエが冷静に答えると、アリサが目を丸くする。
「よく数えてるね!」
「だって、毎日よ?」
 軽く笑いながらも、その声はどこか硬い。
 レオンの小宇宙にも、不穏な気配はない。
 それでもどこか引っかかる。彼の存在が、あまりに“聖域”を思わせるのだ。
「彼、レオン…カヴァリエと言ったかしら?諦めないわね…」
 クロエがふっと小声で呟く。視線の先、友人たちと談笑しながら食堂へ向かうだろうレオンを見送った。
「そうだね。彼、あたしの何をそんなに気に入ってるんだろうね」
「そんなの決まってるじゃない。ああ言うのを、一目惚れって言うのよ」
 クロエの言葉に、メリッサは少し眉を寄せて、それからゆっくり瞬きをした。
「そっか…あたし、好意を向けられていたんだ」
「え?気付かなかったの?」
 アリサが身を乗り出すようにして言うと、メリッサは静かに首を横に振る。
「…気付かなかったっていうより、気付きたくなかったって感じかな?」
 ぽつりと言ったその声に、クロエのまつ毛が微かに揺れた。メリッサの心の中に棲んでいる誰かの事を思う。
 笑い声の絶えないキャンパスの中で、彼女はどこか、世界と少しだけ距離を置いていた。


 その日も、昼休みの鐘が鳴ると同時に、教室の前方から軽やかな声が飛んだ。
「ドラコペトラさん、今日こそ一緒にどう?」
 見なくてもわかる。声の主はレオン・カヴァリエだ。
 背すじをすっと伸ばし、柔らかく笑う青年。どんなに断られても、その口調に焦りも諦めも滲んでいない。
「ごめんなさい、今日も……外で食べるから」
「外って、また中庭?」
「うん。空気が気持ちいいし。…ごめんなさい」
 そう言って、メリッサは小さく頭を下げ、弁当箱の入った袋を手に立ち上がる。
 そのやりとりを、隣の席でクロエが静かに見守っていた。
 彼女の瞳には、探るような光が宿っている。

 ──レオン・カヴァリエ。表面的には誠実で穏やか。小宇宙に邪な揺らぎはない。

 それでも、彼女は任務として注意を怠らない。挨拶代わりのランチの誘いだと片付けて良いものなのだろうか。彼のその存在はあまりに異質だ。何しろ、レオン・カヴァリエは毎日ランチに誘ってくるのに、休憩時間や放課後には近付いてこない。まるで、何事もないように男友達と談笑したり、数人と連れ立って一緒に帰ったりしているのだ。
「また断っちゃったんだね、メリッサ」
 アリサが笑いながら机を片付ける。「せっかくだし、学食で食べればいいのに」
「うん……でも、混んでるし。食堂の席、使いたい人がいるでしょ」
「そういうとこ、ほんと真面目だよね」
「そう?」
「真面目というか……人の邪魔にならないようにって、すごく気を使ってる」
 アリサは鞄を肩に掛けながらクロエと視線を交わす。
 クロエは小さく微笑んで頷いた。
「でも、彼……カヴァリエさん。毎日誘ってくるのね」
「うん、断ってもめげないの。まるで日課みたい」
「優しい人なのかもね」
「それは……そうかも」
 メリッサは曖昧に笑い、視線を逸らした。
 彼の真っ直ぐな眼差しに、どこか胸の奥がざわめく。それが何なのか、メリッサは知っている。けれど、近づけば壊れてしまう何かがあるような気がして、自然と距離を取ってしまうのだ。


 中庭に出ると、秋の風が頬を撫でた。
 木漏れ日の下、ベンチに腰を下ろして弁当を広げる。
 今日も、静かな時間が訪れる。鳥の声と、遠くから聞こえる学生たちの笑い声。
 そこに、少し離れた場所から聞こえる足音。
「……やあ、またここにいたんだね」
 レオンの声だった。
 彼はメリッサと距離を保つようにベンチの端に腰を下ろし、手に持ったサンドイッチを開く。
 近づきすぎず、遠すぎず。いつも絶妙な距離を保つ。
「嫌なら、すぐどくから」
「ううん、いい…今日は学食行かないの?」
「うん。少し気分を変えたくてね」
「でも、それだけじゃ足りないんじゃない?」
 レオンの手元のサンドイッチをちらりと見る。
「大丈夫。間食用にも買ってあるから」
 それにしたって、男子のお腹を満たすには足りないだろうに。
「……これ、 食べて。朝作ったものだし、まだ手、付けてないから。」
 メリッサはベンチの上を滑らせるように、弁当箱をレオンの方へ押しやった。
「え!?いいよ。ドラコペトラさんのお昼でしょ?」
「ピタパンと果物もあるから。あたしはそれで十分。今朝は作り過ぎちゃって、全部は食べると午後の講義、眠くなるから」
 ふと風が吹いて、メリッサの髪を揺らす。
「本当に良いの?」
「もちろん」
 レオンは目を瞠り、少しだけ表情を和らげたメリッサを見つめた。

 クロエとアリサが学食で談笑している頃、
 中庭では、言葉の少ない二人が、静かに同じ空気を吸っていた。
 そこには恋の予感もまだ色を帯びていない。
 けれど──
 少しずつ、季節のように、何かが変わり始めていた。
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