Eine Kleine

 その日、ドラコペトラ家の郵便受けに届いたのは、美しくも無機質に整った一通の封書だった。
 赤い封蝋には聖域の印章が刻印されている。刻まれた紋章を見ただけで、家の空気が少し重くなった。
 食卓に戻ったニコラオス・ドラコペトロスは、封を切り、数行を黙読する。やがて、紙の上で視線が止まり、息を吐いた。
 それは深い溜息だった。諦めと、微かな怒りが滲んでいる。
 キッチンから様子を窺っていた妻エレニが、手を拭きながら近付く。
「どうしたの?」
「……メリッサを同行させろとさ」
 短く告げ、文書を妻へ差し出した。
 エレニの目が、細い字面を追う。次の瞬間、声が震えた。
「そんな……あの子、まだ5歳になったばかりなのに?デメトリウスは7歳の時だったじゃない」
「全くだ。あの子は女の子なんだぞ。いずれこの家を出ていくだろうに」
 二人の間に、重たい沈黙が降りた。
 台所の窓から吹き込む風が、テーブルの上の紙片をかすかに揺らす。
「それでも、見逃さないということなんだろうな。――聖域は」
 ニコラオスの声は、低く、硬い。
 その響きは、まだ幼い娘の運命をひたすらに案じていた。

 夕食を終えたあとのリビングには、家族団欒の穏やかさが漂っていた。
 食器を片づけた母のエレニが台所に立ち、灯りをひとつ落とすと、部屋の空気が少しだけ静まる。
 ニコラオスはソファに腰を下ろし、メリッサを膝の上に抱き上げた。
 娘はぬいぐるみを抱えたまま、栗色の髪を揺らして父を見上げている。
「メリィ、今度パパと二人で聖域へ行くぞ」
 穏やかな声だったが、その奥にかすかな張りつめたものがあった。
 メリッサは蜂蜜色の瞳をぱちくりと瞬きさせ、首を傾げる。
「さんくちゅあり?」
 幼い舌で言い慣れぬ音を転がす。
 ニコラオスは微笑み、頷いた。
「知ってるか?」
「うん!ほいくえんでせんせいがおはなししてくれた!アテナさまがいらっしゃるとこだって」
 その言葉に、エレニがふと手を止める。
 シンクに当たる水音がやわらかく響き、遠くで時計の針がひとつ進んだ。
「そうだ。アテナ様がいらっしゃるところだ」
 ニコラオスは、娘の髪を指で梳きながら言った。
「そこでね、パパは少しお話をしなきゃならない。だから、メリィにも一緒に来てほしいんだ」
「うん!」
 迷いもなく答える声。
 その無垢な返事に、ニコラオスの胸の奥が、かすかに痛んだ。
 幼い瞳の中に映る“聖域”は、きっと光と神話に満ちている。
 けれど大人たちにとって、それは――静かに人の運命を測る場所だった。

 夜と朝のあわいに、家はまだ夢の名残を引きずっていた。東の空が僅かに白み始め、窓辺のレースが微かに揺れる。鳥の声さえ、今日は遠慮深く聴こえた。
 メリッサは、母の前に静かに立っていた。
 白いワンピースの裾が、膝のあたりでふわりと揺れる。
 肩のラインで切り揃えられた栗色の髪は、エレニの手で丁寧に梳かれ、薄く光を含むように整えられている。ハーフアップに結われた髪を指先で確かめながら、母は一瞬、息を呑んだ。
「可愛いわ、メリィ」
 それだけ言って、微笑もうとしたが、唇の端が震えた。
 幼い娘は、母の表情の奥にあるものをまだ読み取れない。ただ素直に頷き、白いスニーカーのつま先を見つめていた。
 リビングの奥では、ニコラオスが白いシャツの袖口を整えている。
 装飾の一つもない、質素な白。
 それはまるで、何かを誓う者の装束のようでもあった。
 リビングの時計が6時を告げる。
 音が響くたびに、家の中の空気が少しずつ硬くなっていく。
「さあ、行こうか」
 ニコラオスの声は低く、抑えられていた。
 メリッサは母の方を振り返る。
 エレニはしゃがみこみ、娘の両手をそっと包んだ。
 その手の温もりを、メリッサは小さな胸の奥で覚えようとした。
「すぐに帰ってくるのよ」
 その言葉に、娘は明るく頷いた。

 ――まだ、この朝の沈黙の意味を知らない。

 扉が開く。
 冷たい風が流れ込み、白い裾を揺らした。
 ニコラオスが娘の手を取る。
 その瞬間、家の空気が、静かに凍りつく。
 白は、祈りの色であり誓いの色であり、別れの色でもあった。

 電車の窓から見える朝の景色は、どこまでも淡かった。山の稜線が遠く霞み、光が少しずつ色を取り戻していく。
 メリッサは座席に背を預け、指でガラスをなぞっていた。指先の向こうには、見知らぬ町と、ひたすら続く線路。
 ニコラオスは黙って隣に座っている。
 胸元には、聖域から届いた通知書が封筒のまましまわれていた。それはまるで、手放せない運命の証のようだった。
 電車を降りると、空気が一変した。
 山あいの町はまだ朝霧の中に沈み、空の色さえ曖昧だった。そこからバスに乗り換え、さらに人里を離れていく。舗装された道は次第に細く、緑の奥へと吸い込まれていく。
 バスの車窓に映るメリッサの頬は少し赤い。眠気と不安と、ほんの少しの期待がまざりあっていた。
 時折、父が小さな水筒を手渡し、髪を撫でる。
 それだけで、少女の世界は一瞬、温かくなる。

 やがて終点に着くと、バスの扉が鈍い音を立てて閉まった。そこから先は、もう道らしい道はなかった。
 砂利と土が入り混じる細い坂道を、二人は歩く。鳥の声が遠くで途切れ、風が木の葉を渡っていく。
 メリッサの小さな足が、白いスニーカーの中で痛み始めた。それでも、彼女は泣かなかった。父の背中が、いつも少し前に見えていたから。
 やがて、空が開けた。
 石造りの門が霧の中に浮かび上がり、白い光を反射していた。その奥に続く道は、まるで別の世界へと繋がっているようだった。
 ニコラオスが立ち止まり、娘の手を握る。
 その手は温かいのに、指先だけがかすかに震えていた。
「……着いたよ、メリィ。ここが聖域だ」
 少女は顔を上げる。その瞳の奥に映るのは、まだ何も知らぬ神々の門。
 そして、その先に待つ、彼女の運命の人の影だった。

 門前には、槍を携えた二人の衛兵が立っていた。
 彼らは一歩進み出ると、白いマントの裾を揺らしながら、低い声で告げた。
「立入証を」
 ニコラオスは黙って封筒を差し出した。
 封蝋を外した衛兵が、文面を確認し、もう一枚、立入許可証を受け取る。紙が擦れる音が、妙に大きく響いた。
 短い沈黙ののち、衛兵の一人が頷く。
「確認した。入れ」
 その瞬間、門がゆっくりと開いた。
 鉄と石の軋む音が、朝の空気を震わせる。
 ニコラオスは娘の手を取った。
 白い石畳に一歩、足を踏み入れた途端、メリッサは、胸の奥で何かが変わるのを感じた。
 空気が違う。
 たった今まで歩いてきた山道の匂いとはまるで違う。風が肌を撫でるたび、やわらかい光が粒となって降り注ぐようだった。
 それは、ただ清らかというだけではない。
 胸の奥がじんわりと温かくなり、涙のようなものが滲みそうになる。

 ――歓迎されている。

 まだ言葉にならない感覚を、幼い肌が覚えていた。
 目を細めて空を見上げると、雲一つない淡い青の中を、白い鳩がゆっくりと舞っていた。
 隣でニコラオスは無言のまま立ち尽くしている。
 その横顔には、安堵と緊張と、言葉にならぬ複雑な影が差していた。
 メリッサは父の手を見つめる。
 その手はいつもより強く、自分を包み込んでいた。
「パパ……ここ、きれい」
 小さくこぼれた言葉に、ニコラオスはかすかに笑う。
「そうだな。――ここは特別な場所なんだ」
 風が彼らの間を通り抜け、白い裾を揺らした。
 聖域の光が、幼い少女の髪を照らし出す。
 その瞬間、まるで見えない誰かが、彼女の訪れを静かに喜んでいるようだった。

 聖域の門をくぐると、道は再び細くなった。
 岩山に囲まれた未舗装の小径が、遠くの光へと続いている。
 陽はすでに高く昇りはじめていたが、谷間の影はまだ深い。風が岩肌を撫でるたび、乾いた砂がかすかに舞い上がる。
 ニコラオスは前を歩きながら、時折後ろを振り返った。
 白いワンピースの裾を押さえながら、一生懸命に足を運ぶ娘の姿が見える。けれどその小さな目は、常に周囲の世界をきらめくように見つめていた。
 道の脇には、ところどころに古びたエンタシスの柱が転がっていた。
 苔むし、蔦が絡まり、ひとつひとつがまるで古い記憶のかたまりのようだった。かつて栄えた神殿の断片が、今はただ、風と陽に晒されている。
「おっきい!」
 メリッサの声が、岩間に澄んで響いた。彼女は駆け出し、柱の一つにしがみつく。白いスニーカーが土を蹴り、両腕で必死に抱きつくようにしてよじ登ろうとする。蔦の葉がはらはらと落ち、光を受けて舞った。
「メリィ!」
 ニコラオスの声に、娘が振り向く。
 柱の上から覗き込むその顔は、満足そうに輝いていた。
「メリィ、教皇様にお目通りする前に服を汚すな」
「きょおこおさま?」
 首を傾げたまま、彼女は父の顔を見つめた。
 その目には、まだ“聖域”という言葉の重さが映っていない。
 ただ、遠足の途中で知らない大人に会うような、幼い好奇心があるだけだった。
 ニコラオスはため息をつき、しかしその口元がわずかに緩む。娘の髪に陽が透け、柔らかな金色の輪郭を描いている。
 ほんの一瞬、その光景が彼の心を和らげた。
「偉い方だよ。……アテナ様のすぐ近くにお仕えしている方だ」
 そう言いながら、手を差し出す。
「さあ、降りておいで。道はまだ長い」
 メリッサは小さく頷き、慎重に足を下ろした。父の掌に触れた瞬間、彼女はふと空を見上げた。岩山の隙間から、真っ白な光が流れ込んでくる。
 それは彼女にとって、初めて感じる“神の気配”だったかもしれない。
 そして二人は、再び歩き出した。石の欠片を踏む音が、静寂の中に小さく響く。聖域の奥へと続くその道の先に、彼らを待つ者の影が、ゆっくりと形を取り始めていた。

 岩山の間を縫うように続く細い道を、二人は手を取り合って歩いた。
 陽はすでに高く、白い光が岩肌に跳ね返っている。
 けれどその光の眩しさとは裏腹に、空気には張りつめた静けさがあった。

 やがて道が開け、古びた祭祀場が現れる。崩れかけた石柱がいくつも並び、地面には時を経た祈りの跡が刻まれていた。
 風が吹くたび、欠けた大理石の欠片がかすかに鳴る。
 そこには、すでに数人の神官たちが立っていた。
 白衣をまとい、顔の半分を薄布で覆っている。
 彼らの姿は、まるで時間の中から抜け出してきた影のようだった。
 ニコラオスはその前で立ち止まり、娘の手を軽く握り直す。
 そして、低く、はっきりと名乗った。
「ニコラオス・ドラコペトロス、娘メリッサと共にただいま到着いたしました」
 神官のひとりが頷き、平坦な声で告げる。
「間もなく教皇猊下がお見えになる。その場に控えていよ」
「は」
 父の声が、わずかに硬くなる。
 その音を聞いたメリッサは、小さな眉をひそめた。

 ――どうして、こんなひとたちに“めえれえ”されてるの?パパはせかいでいちばんつよいのに。だれよりやさしくて、ちからもちで、こわいものなんてひとつもないのに。

 胸の奥にじわりと浮かんだ不満が、顔に出てしまう。小さな口がむっと結ばれ、視線が地面を睨んでいた。白いスニーカーの先で砂を蹴ると、細かな粒が陽の光の中に舞った。
「メリィ」
 ニコラオスが静かに呼びかけた。
 その声には、叱責よりもずっと柔らかな響きがあった。彼はしゃがみこみ、娘と目の高さを合わせる。
「ここではね、みんなが同じように敬う人がいる。
 パパだって、あの方の前では一人の人間なんだ」
「でも……パパがいちばんつよいよ」
 小さな声。
 彼はその言葉に、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
 そして、娘の頬にかかる髪をそっと撫でる。
「ありがとう、メリィ。……でもね、強いっていうのは、従うことを知っていることでもあるんだ」
 その言葉の意味を、少女はまだ理解できなかった。ただ、父の手の温かさだけを感じながら、小さく頷く。
 そのとき、祭祀場の奥で風がひときわ強く吹き抜けた。
 光が揺れ、神官たちが一斉に頭を垂れる。
 メリッサの胸の奥で、何かがふるりと震えた。
 朝の光は既に高みにあり、祭祀場を取り囲む岩肌の上を淡く照らしている。白い石畳の上に差した光が、教皇の足元を静かに縁取った。
 その姿を、幼い少女は見上げる。
 長い裾を引く白金の法衣。縁には古代文字のような金糸の刺繍。肩を覆うマントは、風を孕みながらゆるやかに揺れた。
 顔の大半は黄金の皇冠に覆われ、わずかに見える口元は穏やかで、厳かで、どこか悲しげでもあった。

「……あのひとが、きょおこおさま?」
 囁くように問う娘に、ニコラオスは小さく頷いた。
「そうだ。聖域を治める方だ。――無礼のないように。さ、頭を下げて」
 父の声も、いつになく緊張を帯びていた。
 メリッサは父の真似をして頭を下げた。小さな手をぎゅっと握る。土の上に膝をついたまま、彼女の心臓は早鐘を打つように跳ねていた。
 仮面の下の眼差しが、自分に向けられた気がした。見えないのに、確かに感じた。まるで光そのものに包まれるような、温かい気配。
「その子が……メリッサか」
 教皇の声が、柔らかく空気を震わせた。
 その瞬間、彼女は不思議な感覚に襲われた。胸の奥の奥――まだ言葉も知らぬ記憶の泉が、そっと揺らいだのだ。
 理由もなく涙が出そうになり、慌てて唇を噛む。けれど教皇は、そんな幼い仕草さえも見透かすように、わずかに口元を緩めた。
「顔を上げなさい」
 その声は、命令というよりも祝福のようだった。
 メリッサは、父の横でゆっくりと顔を上げた。
皇冠の奥――その向こうにある目と視線が、確かに自分を見つめていると信じられた。
 老いた教皇と、まだ幼い少女。
 二人の間に、言葉よりも深く静かなものが、確かに流れていた。

 ――この出会いが、やがて彼女の運命を大きく変えることを、まだ誰も知らなかった。

 祭祀場に、再び静かな緊張が広がった。
「二人とも立ちなさい」
 教皇の声は、低く穏やかだが、空気の芯まで届くような重みがあった。石畳に落ちた声が、岩肌に反響し、二人の背筋をひりつかせる。
 そのまま脇で控える神官たちに視線を向けた。
「今日は幼子が来るので椅子を用意せよと言ったはずだが?」
 穏やかな口調の奥に、有無を言わせぬ力が潜む。
 神官たちはあわてて駆け出し、ざわめきと足音だけが祭祀場に残った。
 教皇は腰を落とし、メリッサの目の高さに自らを合わせる。
 黄金の皇冠の下、口元だけがわずかに緩み、威厳の中に柔らかな温もりを覗かせた。
「済まぬが、しばらく待ってくれ」
 声は優しい。けれど、幼い心を震わせるに十分な確かさがある。
 メリッサは父の手にぎゅっとしがみついた。胸の奥で小さな鼓動が早まる。
 父の背中が頼もしく、安心をくれるけれど、それでも初めての相手に緊張が走る。
「メリッサ、初めまして。そなたに会えて嬉しく思う」
 声の重みに、メリッサは一瞬口ごもった。
 そして、かすかに震える声で答える。
「……はじめまして…こんにちは…」
 教皇は頷き、ゆっくりと彼女の目を見つめた。
 その瞳は淡い紫色――夜明けの空のような色をしていた。
 幼いメリッサは息を呑み、無意識のうちにその光を見つめ続けていた。
 気づけば、瞬きを忘れていた。
 その瞬間、父の手が彼女の肩をぐっと引き寄せる。
「メリッサ、無礼だ!」
 叱責に小さく身をすくめた彼女の耳に、教皇の笑い声が柔らかく届いた。
「そう叱らずとも良い。子供は好奇心のままに見るものだ」
 その言葉に、父ニコラオスは戸惑いを隠せずに頭を下げた。
 皇冠越しの視線なのに、幼い少女はその奥に温かな慈しみを感じた。それはまるで、世界の果てまで届く光に包まれたような感覚だった。
 メリッサは父の手を握り直す。
 幼子の胸の奥に、教皇の声の重みと優しさが染み込む。そして彼女は、まだ知らない未来の運命が、ここから始まることを、心のどこかで予感していた。

「――ところでメリッサ。ここへ来る途中、道端に倒れていた柱にでも登ったか?せっかくの服が汚れてしまったな」
 その言葉に、幼い少女の胸が小さく跳ねた。
 まるで、自分の行動を見透かしていたかのような響き。驚きと羞恥で声が出ず、メリッサはただ、無言で小さく頷いた。
「申し訳ございません。私の教育が行き届いておらず――」
 父ニコラオスが頭を深く垂れる。その姿に、メリッサも慌てて小さく頭を下げる。
「ごめんなさい。もうしません」
 けれど、黄金の皇冠の向こうで、教皇はただ微笑んでいた。叱責の色は微塵もなく、柔らかな光を灯すかのような笑みだった。
「構わぬ。幼子が元気なのは良い事だ」
 その言葉に、メリッサの肩の力がすっと抜けた。
 小さく安堵の吐息を漏らし、瞳の奥にふっと光が宿る。次の瞬間、教皇の指がゆっくりと動き、髪に絡んだ蔦の葉の欠片をそっと取った。
「――だが、これは髪飾りにはならぬな」
 指先の柔らかさ、丁寧さ、そして確かな存在感。
 幼いメリッサの心は、ほんの少しだけ、知らぬ安心と尊敬に満たされた。
 彼女はまだ言葉を知らないけれど、その瞬間、世界の広さと、温かさを、初めて肌で感じたのだった。

 教皇の口元には深い皺が刻まれていた。枯れ枝のように細く見える指先。しかしそのどれもが、老いの弱さを示すものではなく、静かに、しかし凛とした威厳を宿していた。
 張りのある声はどこまでも澄み、光の粒のように空気を震わせる。幼いメリッサは、地元の港町で見かける老人たちとはまったく異なる存在感に、蜂蜜色の大きな瞳を瞬かせた。
「きょおこおさまは、おじいちゃんなんですか?」
 その無邪気な問いに、祭祀場の空気は一瞬止まった。椅子を持って慌てて戻ってきた神官たち、そして父ニコラオスまでもが、一斉に顔色を変える。
「メリッサ!!」
「娘!!」
 大人たちの声の強さに、幼い体は思わずビクッと震えた。小さな手が父の袖にすがり、足先が砂利を踏みしめる。
 教皇は静かに、皇冠越しに少女を見下ろしたまま、ただ微かに笑んだ。
 怒りも咎めもなく、ただその場に存在する威厳と優しさ。
 メリッサの胸の奥で、小さな緊張と好奇心が混ざり合い、初めての“教皇”という存在の重さを、幼い体でじんわりと受け止めるのだった。
 大人たちは、慌てふためき、口々に少女を叱りつけようとした。
 しかし、教皇はその声を遮るように、静かに手を上げた。
「やめよ」
 その一言で、祭祀場のざわめきは瞬時に沈静した。
 神官たちの叱責の口が、半ばで止まる。ニコラオスも、普段の強さを失ったように肩を落とした。
 教皇はゆっくりと少女に視線を戻す。皇冠越しの顔は微笑みを宿し、深い皺の奥から、慈しみの光がにじみ出ていた。
「メリッサ……この教皇はな、そなたのおじいちゃんのおじいちゃんより、もっとおじいちゃんなのだ」
 幼い耳には、言葉の意味が少しだけ遠く感じられた。
「おじいちゃんのおじいちゃんより…?」
「そうだ」
 教皇の声は、低く落ち着き、まるで時の流れをそのまま含むかのようだった。
 メリッサは目を大きく見開き、蜂蜜色の瞳を瞬かせた。その無垢な表情に、教皇の心はそっと温かく満たされる。
「時にメリッサ、足を見せてもらってもよいか?」
「足?」
「靴擦れでもしているのではないか?」
 神官が持ってきた椅子にメリッサを座らせると、教皇は靴と靴下を脱ぐように言った。
 小さな手が面テープを剥がすビリビリという音が辺りに響く。白い靴下には赤が滲んでいた。
 そして、靴下を脱いだ素足を見てニコラオスが息を詰めた。
 足裏、踵、趾のつけ根。何か所も靴擦れを起こしていた。
「メリッサ…こんな足で歩いていたのか…?ごめんな、気付いてやれなかった…」
 娘の怪我に気付かなかった自分を責める。それと同時に、僅かな時間で娘の怪我を見抜いた教皇の慧眼に畏怖の念を抱いた。
「…ふむ、この足でよくぞここまで歩いてきたな。幼いながらも中々の精神力だ」
 教皇は目の前に膝をつくと、メリッサの小さな足に手を翳した。
 神官たちは戸惑いを隠せなかったが、誰一人声を上げられなかった。
 教皇の手が淡い金色に光る。
 見る間にメリッサの足の傷が薄くなっていく。
「すごい……」
「どうだ?まだ痛む所はあるか?」
 メリッサは靴を履き直して、小さく飛び跳ねたり歩いてみて確認する。
「だいじょうぶです!ありがとうございます!」
 花が咲いたような鮮やかな笑顔で教皇を見上げた。菫色の瞳が細められたのを、メリッサは確かに見た。
 そして少女は、世界でいちばん強く、優しく、遠く大きな存在が、今、自分を見つめていることを、まだ言葉にならぬまま理解し始めていた。
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