アセルスとレッド
「……俺、結婚してるんだ」
しきりに照れながら、レッドはアセルスに告げた。
「子供も産まれてさ。覚えてるかな、ほら、あのハイジャックの時に、俺が探してたユリアって奴なんだけど……」
アセルスの顔がぱっと輝いた。
「覚えてるとも! おめでとう、烈人君、そうか、もうお父さんなんだ……ああ、あんなに小さかった烈人君がねえ」
懐かしさに目を細めるアセルスを見て、レッドは変わらないなと内心呟いた。
レッドの知るアセルスという少女は、他人の幸福を心から喜ぶ人間性を持っていた。
「そういう幸せな時に、厄介な事件をファシナトゥールの者が起こして済まないね、レッド君。私たちも、出来る限り早期解決に努めるから……」
「いや、これが俺の選んだ仕事だから。……それより気になるんだが、姉ちゃんは何があって妖魔に? 先代の妖魔の君に馬車で轢かれて殺されて、でもそいつに血を与えられて甦ったっていうのは本当なのか?」
ずっと引っ掛かっていたことを、レッドは尋ねる。
妖魔になったのはまだいいとして、妖魔の君になるまでには何があったのだろう。
先代を倒したのは、アセルス自身だと聞いているが。
アセルスが無言で立ち上がった。
「アセルス姉ちゃん……? おい!」
レッドはぎょっとした。
アセルスが腰に下げた真紅に輝く妖しく美麗な剣を抜き払い、それを水平に掲げるや、華奢な左手で刀身を掴んだのだ。
そのままつうっと、10cmばかり滑らせる。
息を呑むレッドの前で、アセルスは自ら切りつけた左手を開いた。
「紫……血が紫色……」
そこに見えたのは、鮮やかな紫色の血に染まった白い掌だった。
酔わせるような紫色が、無惨さを一瞬忘れさせる。
アセルスは血まで美しかった。
「こういうことだ、烈人君。私はもう純粋な人間じゃない……オルロワージュに青い血を注がれて、紫色の血を持つようになった。半妖半人、それが私の正体だ」
素早く近付いて来た侍女が、どこからともなく取り出した布で、アセルスの掌の血を拭った。
悪戯っぽく笑ったアセルスが、もう一度レッドに向かって掌を開いた。出血量からして、かなり深く切れていたはずの掌には、既に少しの傷もない。
「血をね、真っ青にすることもできる……でも、真っ赤に戻すことだけが、どうしても出来ない」
アセルスは再び椅子に座った。
「私は最早、人間には戻れないんだ。でも、それでいい、それがいい。私は決めたんだ、この血と運命と共に生きて行くと。そう決断するために、周りを巻き込んで随分な回り道もしたけれど」
「オルロワージュ様を倒した直後になら、或いは妖魔の血を浄化し、人間に戻るチャンスもあったのかも知れないね。でも、アセルスはそうしなかった。紫色の血を持つ、世界でたった一人の存在として生きることを決めたのさ」
ゾズマが、どこか満足気に口にした。
「同時にそれは、自分がオルロワージュ様の『娘』であることを認めることでもあったんだ。僕としてはちょっとつまらなくなったよ、そのことでからかっても、以前みたいに反応しなくなった」
アセルスが苦笑する。
「それは本音だな、ゾズマ。……だけどゾズマの言う通りだ。私は針の城でオルロワージュを倒した、と同時にあの人が紛れもなく妖魔としての自分の『父親』だと受け入れることができた。私が受け入れた瞬間、まさにあの人は消滅して行くところだったけど。私はその瞬間悟った。私は自由なんだってね。最も受け入れがたいと思っていたことを受け入れて、私は初めて自由を手に入れたんだ」
レッドはアセルスが通って来たであろう曲がりくねった道を思った。
彼自身、かつては命の危機をヒーローになることで救われた経緯がある。
アセルスと似ているようで、それは根本的に違う。
レッドはあくまで力を附与されたのであって、人間をやめた訳ではない。
しかし、アセルスはその生き物としての性質、存在意義そのものを変えられた。
その衝撃はいかばかりか、レッドは僅かに似通った部分から想像する他にない。
「リージョン界をあの人の追っ手から逃げ回って、白薔薇を失って、結局、あの人と戦う決意を固めて。あの人を倒した後は、あの人のいなくなった空白を私が埋めなければならない現実が待っていた。白薔薇を閉じ込められていた闇の迷宮から助け出したはいいものの、彼女は妖力を削られて深い眠りに落ちていて、回復して目覚めるまで安全に眠れる場所を何が何でも確保する必要があった。それに……ファシナトゥールは私を新たな『主』と認めて、その姿を私の内面を反映させたものに変容させたけれど、針の城は……元々の主と運命を共にした。オルロワージュが倒れて間もなく、針の城は少しずつ崩壊を始めた」
アセルスは、ちらりと開け放たれた庭への扉から外の景色を見た。
「その時、ラスタバンに言われたんだ。もしオルロワージュ様を倒した責任を取るおつもりがあるのでしたら、新たな妖魔の君におなり下さいってね。あなた様にはその資格と責任がありますって。それにイルドゥンも賛成して」
レッドはアセルスと一緒に、ラスタバンを見た。
彼は穏やかに笑っていた。
「それが最善の道だったのだ。一人の妖魔の君の消えた空白は、何としても埋めねばならなかった。さもなくば、ファシナトゥールは崩壊するだろう。……主上に妖魔の君になっていただくことこそが、その崩壊を食い止める最善にして唯一の方法だった」
イルドゥンは容赦なく真摯な顔で、そう断言した。
「あの人を倒した直後が、一番大変だったなあ」
アセルスが天を仰ぐ。
「針の城は放っておけば連鎖的に崩壊するから、食い止めるために私が妖力を注ぎ続ける必要があってね。それに、オルロワージュには100人近い寵姫がいて、全員針の城の中で眠りについていたから、彼女たちの今後の身の振り方も考慮する必要があった」
「私みたいに城に残ってアセルス様にお仕えする道を選んだ者も結構いるのよ。勿論、今度は寵姫としてではないけれど。反対に自らの故郷に帰る者や、城下で暮らすことを選んだ者も大勢いるわ」
メローペが説明した。
「一通り元寵姫たちの身の振り方を彼女たち自身に決めてもらった後、今宮廷職人長になっているゴサルスに新しい城について何とか出来ないか相談したんだ。彼は凄い職人でね、今見せた、オルロワージュを倒した剣、幻魔も彼の作品なんだ。彼は妖力に反応して巨大化して城になる水盤を作ってくれた。私は城の中の者たちを外に出し、針の城を維持していた妖力を切った。城の地上部分は一瞬で灰になって崩れ去った。ただし、大地に張り巡らされた根がそうなると大地が崩壊するから、私の妖力で燐光石に変えた。そうして初めて、私は水盤を針の城があったところに置き、妖力を注いで新たな城にしたのさ。私の予想以上の出来だった、流石ゴサルスだよ」
アセルスは、満足気に自室と外の庭を眺めた。
「それだけではございません。アセルス様は、その後様々な法整備を行われ、ファシナトゥールの制度を改革なさいました。それは主に私どものような下級妖魔や、限定的な役目しか与えられてこなかった女性妖魔を救済するものでした」
メサルティムが熱っぽく語る。
「外の世界と交流するようになったのも、アセルス様の行った改革の一つよ。前の王の時代までは、リージョンシップ……機械で堂々とファシナトゥールに乗り付けるなんて考えられもしなかったわ」
メサルティムの後をメローペが継いだ。
「私は政治なんてしたことがなかったからねえ。ラスタバンやイルドゥンに大分助けられてるよ。特にイルドゥンは、場合によっては私のやり方に抵抗がある場合もあるみたいなんだけど、結局は私の意思実現のため動いてくれる」
アセルスが、頼もしそうに自らの宰相たちを見た。
「主上のご意志が正しいものであるのは、今現在のファシナトゥールの繁栄を見ても明らかです。私も大分長い間生きておりますが、これ程栄えたファシナトゥールを見たことがございません。主上のご威徳を慕って、他のリージョンからも流入する妖魔たちが後を絶たない有り様です。汀の町は、これからも膨張を続けるでありましょう」
ラスタバンがにこやかに言った。
「流入してくるのは、中級以下の妖魔が多いのさ」
ゾズマがにやりとした。
「他の妖魔の君――ヴァジュイールなんかだと、そういう階層の妖魔に関心を払わないけど、アセルスは違う。法律で上級妖魔がそれより下の妖魔を虐げるのを明確に禁じているし、中級以下の妖魔が社会的地位を築く道を用意しているからね。何より後天的な努力による成果を公に認めているのが大きい。下級妖魔が努力で上級妖魔に肩を並べられる世界を作った訳だ。あの、自分の傷をいじくり回すことで精一杯だったお嬢ちゃんが、やるようになったものだよ」
褒め言葉の後に付いたゾズマの毒舌に、アセルスは苦笑した。
「私だって努力で力を引き出し、あの人を倒すまでになったんだ。努力を認めないのでは、自分自身を否定することになる。ああ、烈人君、人間には分かりにくいと思うけど、妖魔ってやつは一般的に、後天的な努力で得たものや能力は認めないんだ。生まれつき優れていることが重要なんだそうだよ。だけど、そんなことは私の知ったことではないんでね。先天的だろうが後天的だろうが、優れたものは優れたものだ」
レッドはふーんと鼻を鳴らした。
「努力を認めないなんて寂しいな。妖魔って基本的に成長しないって聞いてるから、それでいいのかも知れないけど」
「厳密に言うと、全く成長しない訳じゃないんだ。例えば、自分と同等かそれ以上の妖魔を倒して力を吸収するとかすれば、能力と格を上げられる。ただ、それは困難だしリスクも伴うから滅多に行われないだけでね。……その点、アケルナルは大胆だな」
アセルスは噛んで含めるように、レッドに説明した。
「馬鹿な奴さ、君のやり方に反発してファシナトゥールを去ったはずなのに、自分だって君がしたような後天的努力ってやつをしてるんだからね」
ゾズマが嘲る。
「本当のところ、奴は主上が羨ましくてたまらぬのやも知れません。先代と同等の格を先天的に持たれ、更に努力を重ねることにより実際に先代を超えられた。無礼ながら、あの半妖にできるなら自分にも、と……身の丈に合わぬ夢を見たのやも知れません」
イルドゥンが静かに言葉を紡ぐ。
「ともかく、アケルナルは何とかしなければいけない。奴を邪妖に認定する」
アセルスがにわかに厳しい顔になった。
「なるべくレッド君たちとイルドゥンに任せるが、手に負えない場合は私が出る」
厳然と言い放つアセルスに、レッドは疑問の視線を向けた。
「姉ちゃん、ジャヨウって何だ?」
「邪妖っていうのは、読んで字の如く、邪悪な妖魔って意味。あくまで妖魔の基準で、だけどね」
アセルスは先程と打って変わって、軽い調子で肩をすくめた。
「妖魔には上級、中級、下級の格の区分があるんだけど、邪妖はその下。妖魔の格が衰えて、一見すると妖魔とは思えないような存在。人間には失礼な話だけど、良くも悪くも人間に近いんだってさ。弱いだけなら別に放っておいてもいいんだけど、問題なのは安易に犯罪的な行為に走る奴が多いってことでね……」
「人間に溶け込み易い故、人間の犯罪者と結託する場合もある。その昔には、邪妖が徒党を組んで人間の国を襲い、滅ぼそうとしたこともあった」
アセルスの言葉を、イルドゥンが補足した。
「妖魔の君ってやつは、邪妖の認定と邪妖狩りが義務なんだ。私は今、アケルナルを邪妖と認定しただろう? 従って奴を狩る義務も生じた訳さ。妖魔の掟をあの人みたいに一から十まで遵守する必要は感じないし、それが私だけど、アケルナルみたいな奴は放っておけない」
アセルスがぴしりと断言する。
「妖魔の掟なんてのがあるんだな。人間の法律とは違うのか?」
講習で習ったような記憶がうっすらあるが、よく思い出せずレッドはアセルスに尋ねた。
「根本的に、と言っていいくらいに違う。単なる法律や協定じゃなくて、妖魔の存在そのものに関わる理念でね」
アセルスはさりげなくイルドゥンに顔を向けた。
促され、イルドゥンが語り出す。
「全てを魅了する美貌、全てを威圧する恐怖、何者にも屈しない誇り。この三つをどの程度実行しているかで、妖魔の格の上下が決まる。加えて、この掟に従わず、邪妖と化した者を狩ることも、妖魔の君には課せられる。お前たち人間のように、善悪というのは妖魔にとってあまり重要ではないのだ」
レッドは人間と妖魔の差異に唖然とした。
これだけが絶対基準なら、妖魔と人間の意思疎通はかなり難しかろう。
「ただ、私は妖魔の掟だけが絶対の世界を作りたくはなかった。オルロワージュは、妖魔の掟だけが絶対の世界を築き上げていたご立派な妖魔の君だったけど、私はそのやり方を踏襲する気は更々ない。生まれつきの格の上下は仕方ないが、自らを磨くことによってその差異は埋められて然るべきだ」
この私だって自分を磨いてオルロワージュを倒したんだ。
磨いている間は、ただ降りかかる火の粉を払う意識しかなかったけど。
生まれつきけが全てじゃつまらないだろう? とアセルスは笑う。
レッドは内心ほっとした。
変わったところも確かにある。
だがアセルスは彼の理解を絶する程変わってはいない。
人間の心を、彼女は確かに残しているのだ。
「さて、思い出話はこのくらいでいいんじゃない? レッドは昔を懐かしみに来たんじゃない、捜査に来たんだから、そろそろ仕事に戻してあげないと」
ゾズマがアセルスに切り出した。
「ああ、そう言えばそうだね。ごめんね烈人君、つい懐かしくて」
アセルスがにっこり笑って手を差し伸べた。レッドはその手を握り返す。
まだまだ話は尽きないが、今は今やるべきことを優先させねばならない。
「イルドゥン、烈人君と連れの人に軍資金を渡して。それと、宝物庫に案内を。烈人君、使えそうなものを、適当に宝物庫の中から漁っていっていいよ。そうだ、ファシナトゥールのあちこちを捜索するなら、誰か案内が欲しいんだけど、黒騎士の誰かに……」
「ああ、それなら僕がやるよ」
ゾズマがあっさりと申し出る。
「アケルナルは、多分格の高い強い妖魔を吸いたいんだ。僕なら、囮にもなるはずさ」
「そうだな、ゾズマ、よろしく頼む」
アセルスがうなずくと、ゾズマは立ち上がった。
「さて、行こうか、レッド君とやら」
レッドは名残惜しげに立ち上がり、アセルスを見据えた。
帰って来れるだろうか、という不吉な思いを、努めて振り払う。
「軍資金は、お前たちの部屋に届けさせておいた。宝物庫は、ゾズマに案内してもらえ」
イルドゥンが言い渡し、レッドはうなずいた。
しきりに照れながら、レッドはアセルスに告げた。
「子供も産まれてさ。覚えてるかな、ほら、あのハイジャックの時に、俺が探してたユリアって奴なんだけど……」
アセルスの顔がぱっと輝いた。
「覚えてるとも! おめでとう、烈人君、そうか、もうお父さんなんだ……ああ、あんなに小さかった烈人君がねえ」
懐かしさに目を細めるアセルスを見て、レッドは変わらないなと内心呟いた。
レッドの知るアセルスという少女は、他人の幸福を心から喜ぶ人間性を持っていた。
「そういう幸せな時に、厄介な事件をファシナトゥールの者が起こして済まないね、レッド君。私たちも、出来る限り早期解決に努めるから……」
「いや、これが俺の選んだ仕事だから。……それより気になるんだが、姉ちゃんは何があって妖魔に? 先代の妖魔の君に馬車で轢かれて殺されて、でもそいつに血を与えられて甦ったっていうのは本当なのか?」
ずっと引っ掛かっていたことを、レッドは尋ねる。
妖魔になったのはまだいいとして、妖魔の君になるまでには何があったのだろう。
先代を倒したのは、アセルス自身だと聞いているが。
アセルスが無言で立ち上がった。
「アセルス姉ちゃん……? おい!」
レッドはぎょっとした。
アセルスが腰に下げた真紅に輝く妖しく美麗な剣を抜き払い、それを水平に掲げるや、華奢な左手で刀身を掴んだのだ。
そのままつうっと、10cmばかり滑らせる。
息を呑むレッドの前で、アセルスは自ら切りつけた左手を開いた。
「紫……血が紫色……」
そこに見えたのは、鮮やかな紫色の血に染まった白い掌だった。
酔わせるような紫色が、無惨さを一瞬忘れさせる。
アセルスは血まで美しかった。
「こういうことだ、烈人君。私はもう純粋な人間じゃない……オルロワージュに青い血を注がれて、紫色の血を持つようになった。半妖半人、それが私の正体だ」
素早く近付いて来た侍女が、どこからともなく取り出した布で、アセルスの掌の血を拭った。
悪戯っぽく笑ったアセルスが、もう一度レッドに向かって掌を開いた。出血量からして、かなり深く切れていたはずの掌には、既に少しの傷もない。
「血をね、真っ青にすることもできる……でも、真っ赤に戻すことだけが、どうしても出来ない」
アセルスは再び椅子に座った。
「私は最早、人間には戻れないんだ。でも、それでいい、それがいい。私は決めたんだ、この血と運命と共に生きて行くと。そう決断するために、周りを巻き込んで随分な回り道もしたけれど」
「オルロワージュ様を倒した直後になら、或いは妖魔の血を浄化し、人間に戻るチャンスもあったのかも知れないね。でも、アセルスはそうしなかった。紫色の血を持つ、世界でたった一人の存在として生きることを決めたのさ」
ゾズマが、どこか満足気に口にした。
「同時にそれは、自分がオルロワージュ様の『娘』であることを認めることでもあったんだ。僕としてはちょっとつまらなくなったよ、そのことでからかっても、以前みたいに反応しなくなった」
アセルスが苦笑する。
「それは本音だな、ゾズマ。……だけどゾズマの言う通りだ。私は針の城でオルロワージュを倒した、と同時にあの人が紛れもなく妖魔としての自分の『父親』だと受け入れることができた。私が受け入れた瞬間、まさにあの人は消滅して行くところだったけど。私はその瞬間悟った。私は自由なんだってね。最も受け入れがたいと思っていたことを受け入れて、私は初めて自由を手に入れたんだ」
レッドはアセルスが通って来たであろう曲がりくねった道を思った。
彼自身、かつては命の危機をヒーローになることで救われた経緯がある。
アセルスと似ているようで、それは根本的に違う。
レッドはあくまで力を附与されたのであって、人間をやめた訳ではない。
しかし、アセルスはその生き物としての性質、存在意義そのものを変えられた。
その衝撃はいかばかりか、レッドは僅かに似通った部分から想像する他にない。
「リージョン界をあの人の追っ手から逃げ回って、白薔薇を失って、結局、あの人と戦う決意を固めて。あの人を倒した後は、あの人のいなくなった空白を私が埋めなければならない現実が待っていた。白薔薇を閉じ込められていた闇の迷宮から助け出したはいいものの、彼女は妖力を削られて深い眠りに落ちていて、回復して目覚めるまで安全に眠れる場所を何が何でも確保する必要があった。それに……ファシナトゥールは私を新たな『主』と認めて、その姿を私の内面を反映させたものに変容させたけれど、針の城は……元々の主と運命を共にした。オルロワージュが倒れて間もなく、針の城は少しずつ崩壊を始めた」
アセルスは、ちらりと開け放たれた庭への扉から外の景色を見た。
「その時、ラスタバンに言われたんだ。もしオルロワージュ様を倒した責任を取るおつもりがあるのでしたら、新たな妖魔の君におなり下さいってね。あなた様にはその資格と責任がありますって。それにイルドゥンも賛成して」
レッドはアセルスと一緒に、ラスタバンを見た。
彼は穏やかに笑っていた。
「それが最善の道だったのだ。一人の妖魔の君の消えた空白は、何としても埋めねばならなかった。さもなくば、ファシナトゥールは崩壊するだろう。……主上に妖魔の君になっていただくことこそが、その崩壊を食い止める最善にして唯一の方法だった」
イルドゥンは容赦なく真摯な顔で、そう断言した。
「あの人を倒した直後が、一番大変だったなあ」
アセルスが天を仰ぐ。
「針の城は放っておけば連鎖的に崩壊するから、食い止めるために私が妖力を注ぎ続ける必要があってね。それに、オルロワージュには100人近い寵姫がいて、全員針の城の中で眠りについていたから、彼女たちの今後の身の振り方も考慮する必要があった」
「私みたいに城に残ってアセルス様にお仕えする道を選んだ者も結構いるのよ。勿論、今度は寵姫としてではないけれど。反対に自らの故郷に帰る者や、城下で暮らすことを選んだ者も大勢いるわ」
メローペが説明した。
「一通り元寵姫たちの身の振り方を彼女たち自身に決めてもらった後、今宮廷職人長になっているゴサルスに新しい城について何とか出来ないか相談したんだ。彼は凄い職人でね、今見せた、オルロワージュを倒した剣、幻魔も彼の作品なんだ。彼は妖力に反応して巨大化して城になる水盤を作ってくれた。私は城の中の者たちを外に出し、針の城を維持していた妖力を切った。城の地上部分は一瞬で灰になって崩れ去った。ただし、大地に張り巡らされた根がそうなると大地が崩壊するから、私の妖力で燐光石に変えた。そうして初めて、私は水盤を針の城があったところに置き、妖力を注いで新たな城にしたのさ。私の予想以上の出来だった、流石ゴサルスだよ」
アセルスは、満足気に自室と外の庭を眺めた。
「それだけではございません。アセルス様は、その後様々な法整備を行われ、ファシナトゥールの制度を改革なさいました。それは主に私どものような下級妖魔や、限定的な役目しか与えられてこなかった女性妖魔を救済するものでした」
メサルティムが熱っぽく語る。
「外の世界と交流するようになったのも、アセルス様の行った改革の一つよ。前の王の時代までは、リージョンシップ……機械で堂々とファシナトゥールに乗り付けるなんて考えられもしなかったわ」
メサルティムの後をメローペが継いだ。
「私は政治なんてしたことがなかったからねえ。ラスタバンやイルドゥンに大分助けられてるよ。特にイルドゥンは、場合によっては私のやり方に抵抗がある場合もあるみたいなんだけど、結局は私の意思実現のため動いてくれる」
アセルスが、頼もしそうに自らの宰相たちを見た。
「主上のご意志が正しいものであるのは、今現在のファシナトゥールの繁栄を見ても明らかです。私も大分長い間生きておりますが、これ程栄えたファシナトゥールを見たことがございません。主上のご威徳を慕って、他のリージョンからも流入する妖魔たちが後を絶たない有り様です。汀の町は、これからも膨張を続けるでありましょう」
ラスタバンがにこやかに言った。
「流入してくるのは、中級以下の妖魔が多いのさ」
ゾズマがにやりとした。
「他の妖魔の君――ヴァジュイールなんかだと、そういう階層の妖魔に関心を払わないけど、アセルスは違う。法律で上級妖魔がそれより下の妖魔を虐げるのを明確に禁じているし、中級以下の妖魔が社会的地位を築く道を用意しているからね。何より後天的な努力による成果を公に認めているのが大きい。下級妖魔が努力で上級妖魔に肩を並べられる世界を作った訳だ。あの、自分の傷をいじくり回すことで精一杯だったお嬢ちゃんが、やるようになったものだよ」
褒め言葉の後に付いたゾズマの毒舌に、アセルスは苦笑した。
「私だって努力で力を引き出し、あの人を倒すまでになったんだ。努力を認めないのでは、自分自身を否定することになる。ああ、烈人君、人間には分かりにくいと思うけど、妖魔ってやつは一般的に、後天的な努力で得たものや能力は認めないんだ。生まれつき優れていることが重要なんだそうだよ。だけど、そんなことは私の知ったことではないんでね。先天的だろうが後天的だろうが、優れたものは優れたものだ」
レッドはふーんと鼻を鳴らした。
「努力を認めないなんて寂しいな。妖魔って基本的に成長しないって聞いてるから、それでいいのかも知れないけど」
「厳密に言うと、全く成長しない訳じゃないんだ。例えば、自分と同等かそれ以上の妖魔を倒して力を吸収するとかすれば、能力と格を上げられる。ただ、それは困難だしリスクも伴うから滅多に行われないだけでね。……その点、アケルナルは大胆だな」
アセルスは噛んで含めるように、レッドに説明した。
「馬鹿な奴さ、君のやり方に反発してファシナトゥールを去ったはずなのに、自分だって君がしたような後天的努力ってやつをしてるんだからね」
ゾズマが嘲る。
「本当のところ、奴は主上が羨ましくてたまらぬのやも知れません。先代と同等の格を先天的に持たれ、更に努力を重ねることにより実際に先代を超えられた。無礼ながら、あの半妖にできるなら自分にも、と……身の丈に合わぬ夢を見たのやも知れません」
イルドゥンが静かに言葉を紡ぐ。
「ともかく、アケルナルは何とかしなければいけない。奴を邪妖に認定する」
アセルスがにわかに厳しい顔になった。
「なるべくレッド君たちとイルドゥンに任せるが、手に負えない場合は私が出る」
厳然と言い放つアセルスに、レッドは疑問の視線を向けた。
「姉ちゃん、ジャヨウって何だ?」
「邪妖っていうのは、読んで字の如く、邪悪な妖魔って意味。あくまで妖魔の基準で、だけどね」
アセルスは先程と打って変わって、軽い調子で肩をすくめた。
「妖魔には上級、中級、下級の格の区分があるんだけど、邪妖はその下。妖魔の格が衰えて、一見すると妖魔とは思えないような存在。人間には失礼な話だけど、良くも悪くも人間に近いんだってさ。弱いだけなら別に放っておいてもいいんだけど、問題なのは安易に犯罪的な行為に走る奴が多いってことでね……」
「人間に溶け込み易い故、人間の犯罪者と結託する場合もある。その昔には、邪妖が徒党を組んで人間の国を襲い、滅ぼそうとしたこともあった」
アセルスの言葉を、イルドゥンが補足した。
「妖魔の君ってやつは、邪妖の認定と邪妖狩りが義務なんだ。私は今、アケルナルを邪妖と認定しただろう? 従って奴を狩る義務も生じた訳さ。妖魔の掟をあの人みたいに一から十まで遵守する必要は感じないし、それが私だけど、アケルナルみたいな奴は放っておけない」
アセルスがぴしりと断言する。
「妖魔の掟なんてのがあるんだな。人間の法律とは違うのか?」
講習で習ったような記憶がうっすらあるが、よく思い出せずレッドはアセルスに尋ねた。
「根本的に、と言っていいくらいに違う。単なる法律や協定じゃなくて、妖魔の存在そのものに関わる理念でね」
アセルスはさりげなくイルドゥンに顔を向けた。
促され、イルドゥンが語り出す。
「全てを魅了する美貌、全てを威圧する恐怖、何者にも屈しない誇り。この三つをどの程度実行しているかで、妖魔の格の上下が決まる。加えて、この掟に従わず、邪妖と化した者を狩ることも、妖魔の君には課せられる。お前たち人間のように、善悪というのは妖魔にとってあまり重要ではないのだ」
レッドは人間と妖魔の差異に唖然とした。
これだけが絶対基準なら、妖魔と人間の意思疎通はかなり難しかろう。
「ただ、私は妖魔の掟だけが絶対の世界を作りたくはなかった。オルロワージュは、妖魔の掟だけが絶対の世界を築き上げていたご立派な妖魔の君だったけど、私はそのやり方を踏襲する気は更々ない。生まれつきの格の上下は仕方ないが、自らを磨くことによってその差異は埋められて然るべきだ」
この私だって自分を磨いてオルロワージュを倒したんだ。
磨いている間は、ただ降りかかる火の粉を払う意識しかなかったけど。
生まれつきけが全てじゃつまらないだろう? とアセルスは笑う。
レッドは内心ほっとした。
変わったところも確かにある。
だがアセルスは彼の理解を絶する程変わってはいない。
人間の心を、彼女は確かに残しているのだ。
「さて、思い出話はこのくらいでいいんじゃない? レッドは昔を懐かしみに来たんじゃない、捜査に来たんだから、そろそろ仕事に戻してあげないと」
ゾズマがアセルスに切り出した。
「ああ、そう言えばそうだね。ごめんね烈人君、つい懐かしくて」
アセルスがにっこり笑って手を差し伸べた。レッドはその手を握り返す。
まだまだ話は尽きないが、今は今やるべきことを優先させねばならない。
「イルドゥン、烈人君と連れの人に軍資金を渡して。それと、宝物庫に案内を。烈人君、使えそうなものを、適当に宝物庫の中から漁っていっていいよ。そうだ、ファシナトゥールのあちこちを捜索するなら、誰か案内が欲しいんだけど、黒騎士の誰かに……」
「ああ、それなら僕がやるよ」
ゾズマがあっさりと申し出る。
「アケルナルは、多分格の高い強い妖魔を吸いたいんだ。僕なら、囮にもなるはずさ」
「そうだな、ゾズマ、よろしく頼む」
アセルスがうなずくと、ゾズマは立ち上がった。
「さて、行こうか、レッド君とやら」
レッドは名残惜しげに立ち上がり、アセルスを見据えた。
帰って来れるだろうか、という不吉な思いを、努めて振り払う。
「軍資金は、お前たちの部屋に届けさせておいた。宝物庫は、ゾズマに案内してもらえ」
イルドゥンが言い渡し、レッドはうなずいた。