アセルスとレッド
微風が白薔薇を織り出した華麗なレースのカーテンを揺らした。
開け放たれた戸口からは、面した庭越しに、天空で揺らめくオーロラの揺らめきが白い床に影を落としている。
その部屋は広く、整えられていた。
白と銀色とクリアカラー、そして所々使われた淡い青が「白」という色の存在感を強調していた。
繊細に飾られた鏡台も、水晶細工の天板のテーブルセットも、いつでも使えるように磨きあげられている。
そんな部屋の真ん中に、人影があった。
細身のすらりと整った人形めいた外見を見るまでもなく、誰もがこの城の主だと判別できる強大な妖気。
17歳のまま時を止めたその少女は、淡い青が基調の絨毯の上に置かれた硝子の棺に、椅子に座った状態で寄りかかっていた。
まるで絶望にうちひしがれた人のように、絡み合う蔓薔薇を浮き彫りにした棺の蓋に突っ伏している。
傍に置かれたサイドテーブルの上には、葡萄酒の瓶とそれが注がれたグラスが二つ。
よくよく注意して耳をそばだてれば、彼女が微かな声で何事かを呟いているのが分かるだろう。
「……でね、烈人君は覚えてるだろ? あの時会った、私の幼馴染みだよ。彼、パトロールになっていてね。指名手配犯を追って来たんだ。それはいいけど、ゾズマの奴が……」
アセルスは泣いている。
実際には涙が流れている訳でも声が震えている訳でもないが、まとう妖気が濡れている。
彼女は白い頬を硝子の蓋に押し付けるようにしながら、ただ言葉を紡ぐ。
棺の中に眠るその人に向かって。
「……聞こえているかい? 白薔薇……」
その呟きは、棺の表面を滑り落ち、静まり返った部屋の中に溶けほぐれて行った。
アセルスが、こんな風に夜の一時を棺で眠ったままの白薔薇姫と過ごすことを知る者は少ない。
闇の迷宮に囚われた後遺症で、白薔薇姫は極端に妖気を削られ、深い眠りに落ちている。
どれほど続くか分からない眠りを、アセルスはただ見守っている。
彼女の妖力をもってしても、白薔薇姫を無理矢理起こすことは不可能だ。
いや、万が一にもそんなことをすれば、白薔薇姫の妖気を歪めてしまうかも知れない。
彼女のことを真に考えるなら、ただ時の流れるまま、好きなだけ眠らせてやるのが一番なのだ。
そのことを知るアセルスは、ただ待つことを選んだ。
彼女を我が手に取り戻してから、今日まで幾夜も幾夜も、アセルスはこんな風に過ごした。
棺に眠る白薔薇姫の姿を見たくて、だが彼女の体を考えればそうもいかなくて、ただ棺に寄り添い、彼女の眠りを妨げないようにそっと語りかける。
話すことは何気ないことだ。
その日にあった何でもないあれこれ。
かつてアセルスが彼女と旅した時のように、二人で他愛もない話をして過ごす。
違うのは、白薔薇姫が相槌を打ってくれないこと。
「明日は、星読みの山脈に行くことになったよ。イルドゥンには随分渋られたけど。ディアディムを知ってる? 彼女を鍛えてあげようと思って。そうそう、時の君に会って、時術を買ってあげたんだ。ディアディムは強くなるよ、白薔薇がいたらきっと……」
不意に、空気が揺らいだ。
アセルスが白薔薇姫と二人分のグラスを置いてあるサイドテーブルの脇に、奇抜な衣装の人影が現れた。
「また君はここにいたの? 全くこういうことでウジウジしてるのは変わらないんだな」
ゾズマは無遠慮に、アセルスの傍に歩み寄った。
アセルスは動かない。
ただ、鬱陶しがる気配が、妖気に乗せて放出された。
「いくら話しかけても、白薔薇姫の目覚めは早くならないよ。分かってるだろ? そんなこと」
オルロワージュを倒し、その際に彼の力ばかりか知識までをも吸収したアセルスは、普通の妖魔の知らない深い秘密までも我が物としている。
ゾズマが口にしたようなことなど、分かりきっている……はずなのだが。
「……あっちに行けよ、ゾズマ。折角、白薔薇と二人きりだったのに」
アセルスは白薔薇姫との間を隔てる冷たい硝子に頬を押し付けたまま、面倒臭そうに呟いた。
無論、本気でそうさせようとするなら、話は簡単だ。
以前の弱々しい娘はもういない。
ゾズマを気まぐれで消滅させたところで、彼女を咎めることが出来る者などそういない。
だが、アセルスにはそんな気もないようだった。
そしてそれを見越して、ゾズマはアセルスにちょっかいを出す。
「いつまでもそんなことをしてたって、仕方ないだろう? 君の幼馴染みに、人間風に言えば『お迎え』が来るくらいまでの時間、白薔薇姫は目覚めることがないんだ」
傷口に荒塩をすりこむようにズケズケと、ゾズマは指摘してやった。
傷付いたかな。
残酷な興味と共に、ゾズマはアセルスを観察した。――アセルスが憎い訳でも、虐めたい訳でもない。
むしろ、彼はアセルスを慈しんでいると言えた。
手の中に包み込むように親愛の情を向ける、だが、加減を知らない子供がペットをいじり回して衰弱させてしまうように、ゾズマの愛撫は無慈悲だ。
だが。
相手は小動物ではなく、アセルスだ。
「分かってるさ、そんなこと。何回言えば気がすむんだ、ゾズマは? 放っておけよ、私は白薔薇とこうしていたいだけなんだ」
今のアセルスは明らかにゾズマに関心がなかった。
虚ろな響きの言葉が、ゾズマにぽんと投げ掛けられる。
妖気を読むまでもなく、アセルスの注意は棺の中の白薔薇姫に向けられている。
自分の放った言葉さえも、彼女は注意していなかっただろう。
「いい加減にしたらどうだい? 明日は早く出るんだろ? 主力の君が寝ぼけ眼じゃ、僕らが困るんだよ」
妖魔の体は人間と違う。
妖気を削られれば深く長い眠りに落ちる代わりに、普段は人間ほど長時間の睡眠を取る必要はない。
だがアセルスは、人間だった頃と同じように、毎日数時間、律儀に眠ることを好んだ。
他の妖魔のようにも振る舞えるはずなのだが、要は気分の問題なのだろう。
「黙れよ……ゾズマが黙れば、部屋に帰るさ、もう少し白薔薇と話したらね」
アセルスの口調に僅かな不機嫌さが混じった。眠っていたのを無理矢理起こされた人に似ている。
アセルスは僅かに苛立ち、その苛立ちがゾズマが自分たちの間に割り込み、自分が白薔薇姫との時間をないがしろにして彼にかまけているかのように思えるのが原因だと割り出した。
罪悪感がアセルスを襲う。
それはまるで不貞を犯している時に似ていた。
不貞?
不意に浮かんだ考えに、アセルスは笑いの衝動が込み上げるのを感じた。
その衝動に従い、アセルスの華奢な肩が笑いに震える。
ゾズマなんかじゃ、不貞の相手にもなりゃしない。
せめてメサルティムとかメローペとか、零姫様とか。
ディアディムもなかなかなんだけど。
「何だよ、何が可笑しいんだい、アセルス? 僕を笑ってるのか?」
ゾズマが不機嫌に問い、手を伸ばして白薔薇姫の分のグラスをひっ掴むと、まるでアセルスを挑発するように一息に飲んだ。
「そうさ、ゾズマ。君と私自身を笑ったのさ」
まだ笑いに肩を震わせながら、アセルスはそんな風に受け答えた。
ふと目をやった先には、開け放たれた扉から、水盤に続く庭園が見えた。
部屋の内装同様、白を基調とした花々で飾られている。
一番目立つのは、大輪の白薔薇の茂みだ。
それは淡い光を放って、周囲を圧する美しさを見せている。
ここは、白薔薇姫の部屋。
アセルスが、白薔薇姫のために、彼女のイメージを元に造り出した彼女のための私室。
庭園に咲き誇る白薔薇と、それを取り囲む一群の花々を見て、アセルスは微笑んだ。
白薔薇が目覚めたら、ここを気に入ってくれるだろうか。
優しい彼女のことだから、少しくらいの不満があってもそれを表に出さないだろう。
だが、アセルスは少しの不満も彼女に感じさせないように、細心の注意を払ってこの部屋を造り上げた。
そう……
彼女がいつまでも、自分の傍にいてくれるように。
「少しは強くなったかも知れないけど、感じも悪くなったな、君は」
以前の人に馴れない山猫のようだったアセルスが、何となくゾズマは懐かしく感じた。
反応は読みやすかった。
大概のことに怒っていた。
つまらないという言葉を何度か投げ掛けたが、心底からそう思っていた訳ではない。
だが、今のアセルスは違う。
自らを肯定した者の強さがある。
怒りを杖にしてようやく立っていた者の危うさから脱皮して、複雑怪奇な自分自身を楽しんでいる風がある。
張りつめた危うさが消えた訳ではなく、上位のものに昇華し美と強さに変えた。
彼女が本当には何を考えているのか、最早ゾズマには分からない。
彼女は謎を孕んだ。
丁度オルロワージュがそうだったように、見る角度によってどんな風にも見える宝石のような謎。
「……ゾズマも休めよ……もう遅い。少しは眠った方がいいのは、妖魔も同じさ」
不意に優しい声で、アセルスは言った。
ゾズマの機嫌を取ろうなどというのではない。
敢えて言うなら、聞き分けのない子供をその場から追い払うために、半分だけの事実を口にする大人に似ている。
彼女は面白くなったな。
ゾズマはにやりとした。
このアセルスを目にしたら、白薔薇姫はどう思うだろうか。
やはり、あの方に似ているとでも表現するだろうか?
同時に、人間の親子がそうであるように、繋がりはあってもまるで別個体だと考えるだろうか。
自分が、今まさにそう思っているように。
「いじけるのもいい加減にしないと、イルドゥンを呼んでくるよ?」
効果などまるでないと分かっていながらも、ゾズマはそんな言葉を投げ掛けた。
「……」
アセルスは返事をするのも面倒臭そうだ。
「星読みの山脈って、前はそんな名前じゃなかったよね? 何て名前だったっけ? ……白薔薇が起きたら、二人で行きたいな。星が綺麗なんだって」
ゾズマを無視し、アセルスは白薔薇姫との会話に戻った。
ひんやりした硝子は、白薔薇姫との距離を感じさせるが、同時に確かにこの向こうに彼女がいるのだという証でもある。
「……もういいさ。飽きた。好きなだけやってろよ」
ゾズマは肩をすくめると、空になったグラスに勝手に葡萄酒を注ぎ、くいっと飲んだ。
飽きた、と言うより、満足した、と言うのがより正確だ。
「ああ……そうだ、陽術の資質も取りに行こうか? 白薔薇に付けてあげられなかったよね、ちょうどルミナスであんなことに……」
そんな声を後に、ゾズマはその場から去った。
からかう時間なら、明日たんまりある。
「白薔薇、貴女は本当は何が望みだったの?」
アセルスの声は、硝子に染み込むかのようだった。
開け放たれた戸口からは、面した庭越しに、天空で揺らめくオーロラの揺らめきが白い床に影を落としている。
その部屋は広く、整えられていた。
白と銀色とクリアカラー、そして所々使われた淡い青が「白」という色の存在感を強調していた。
繊細に飾られた鏡台も、水晶細工の天板のテーブルセットも、いつでも使えるように磨きあげられている。
そんな部屋の真ん中に、人影があった。
細身のすらりと整った人形めいた外見を見るまでもなく、誰もがこの城の主だと判別できる強大な妖気。
17歳のまま時を止めたその少女は、淡い青が基調の絨毯の上に置かれた硝子の棺に、椅子に座った状態で寄りかかっていた。
まるで絶望にうちひしがれた人のように、絡み合う蔓薔薇を浮き彫りにした棺の蓋に突っ伏している。
傍に置かれたサイドテーブルの上には、葡萄酒の瓶とそれが注がれたグラスが二つ。
よくよく注意して耳をそばだてれば、彼女が微かな声で何事かを呟いているのが分かるだろう。
「……でね、烈人君は覚えてるだろ? あの時会った、私の幼馴染みだよ。彼、パトロールになっていてね。指名手配犯を追って来たんだ。それはいいけど、ゾズマの奴が……」
アセルスは泣いている。
実際には涙が流れている訳でも声が震えている訳でもないが、まとう妖気が濡れている。
彼女は白い頬を硝子の蓋に押し付けるようにしながら、ただ言葉を紡ぐ。
棺の中に眠るその人に向かって。
「……聞こえているかい? 白薔薇……」
その呟きは、棺の表面を滑り落ち、静まり返った部屋の中に溶けほぐれて行った。
アセルスが、こんな風に夜の一時を棺で眠ったままの白薔薇姫と過ごすことを知る者は少ない。
闇の迷宮に囚われた後遺症で、白薔薇姫は極端に妖気を削られ、深い眠りに落ちている。
どれほど続くか分からない眠りを、アセルスはただ見守っている。
彼女の妖力をもってしても、白薔薇姫を無理矢理起こすことは不可能だ。
いや、万が一にもそんなことをすれば、白薔薇姫の妖気を歪めてしまうかも知れない。
彼女のことを真に考えるなら、ただ時の流れるまま、好きなだけ眠らせてやるのが一番なのだ。
そのことを知るアセルスは、ただ待つことを選んだ。
彼女を我が手に取り戻してから、今日まで幾夜も幾夜も、アセルスはこんな風に過ごした。
棺に眠る白薔薇姫の姿を見たくて、だが彼女の体を考えればそうもいかなくて、ただ棺に寄り添い、彼女の眠りを妨げないようにそっと語りかける。
話すことは何気ないことだ。
その日にあった何でもないあれこれ。
かつてアセルスが彼女と旅した時のように、二人で他愛もない話をして過ごす。
違うのは、白薔薇姫が相槌を打ってくれないこと。
「明日は、星読みの山脈に行くことになったよ。イルドゥンには随分渋られたけど。ディアディムを知ってる? 彼女を鍛えてあげようと思って。そうそう、時の君に会って、時術を買ってあげたんだ。ディアディムは強くなるよ、白薔薇がいたらきっと……」
不意に、空気が揺らいだ。
アセルスが白薔薇姫と二人分のグラスを置いてあるサイドテーブルの脇に、奇抜な衣装の人影が現れた。
「また君はここにいたの? 全くこういうことでウジウジしてるのは変わらないんだな」
ゾズマは無遠慮に、アセルスの傍に歩み寄った。
アセルスは動かない。
ただ、鬱陶しがる気配が、妖気に乗せて放出された。
「いくら話しかけても、白薔薇姫の目覚めは早くならないよ。分かってるだろ? そんなこと」
オルロワージュを倒し、その際に彼の力ばかりか知識までをも吸収したアセルスは、普通の妖魔の知らない深い秘密までも我が物としている。
ゾズマが口にしたようなことなど、分かりきっている……はずなのだが。
「……あっちに行けよ、ゾズマ。折角、白薔薇と二人きりだったのに」
アセルスは白薔薇姫との間を隔てる冷たい硝子に頬を押し付けたまま、面倒臭そうに呟いた。
無論、本気でそうさせようとするなら、話は簡単だ。
以前の弱々しい娘はもういない。
ゾズマを気まぐれで消滅させたところで、彼女を咎めることが出来る者などそういない。
だが、アセルスにはそんな気もないようだった。
そしてそれを見越して、ゾズマはアセルスにちょっかいを出す。
「いつまでもそんなことをしてたって、仕方ないだろう? 君の幼馴染みに、人間風に言えば『お迎え』が来るくらいまでの時間、白薔薇姫は目覚めることがないんだ」
傷口に荒塩をすりこむようにズケズケと、ゾズマは指摘してやった。
傷付いたかな。
残酷な興味と共に、ゾズマはアセルスを観察した。――アセルスが憎い訳でも、虐めたい訳でもない。
むしろ、彼はアセルスを慈しんでいると言えた。
手の中に包み込むように親愛の情を向ける、だが、加減を知らない子供がペットをいじり回して衰弱させてしまうように、ゾズマの愛撫は無慈悲だ。
だが。
相手は小動物ではなく、アセルスだ。
「分かってるさ、そんなこと。何回言えば気がすむんだ、ゾズマは? 放っておけよ、私は白薔薇とこうしていたいだけなんだ」
今のアセルスは明らかにゾズマに関心がなかった。
虚ろな響きの言葉が、ゾズマにぽんと投げ掛けられる。
妖気を読むまでもなく、アセルスの注意は棺の中の白薔薇姫に向けられている。
自分の放った言葉さえも、彼女は注意していなかっただろう。
「いい加減にしたらどうだい? 明日は早く出るんだろ? 主力の君が寝ぼけ眼じゃ、僕らが困るんだよ」
妖魔の体は人間と違う。
妖気を削られれば深く長い眠りに落ちる代わりに、普段は人間ほど長時間の睡眠を取る必要はない。
だがアセルスは、人間だった頃と同じように、毎日数時間、律儀に眠ることを好んだ。
他の妖魔のようにも振る舞えるはずなのだが、要は気分の問題なのだろう。
「黙れよ……ゾズマが黙れば、部屋に帰るさ、もう少し白薔薇と話したらね」
アセルスの口調に僅かな不機嫌さが混じった。眠っていたのを無理矢理起こされた人に似ている。
アセルスは僅かに苛立ち、その苛立ちがゾズマが自分たちの間に割り込み、自分が白薔薇姫との時間をないがしろにして彼にかまけているかのように思えるのが原因だと割り出した。
罪悪感がアセルスを襲う。
それはまるで不貞を犯している時に似ていた。
不貞?
不意に浮かんだ考えに、アセルスは笑いの衝動が込み上げるのを感じた。
その衝動に従い、アセルスの華奢な肩が笑いに震える。
ゾズマなんかじゃ、不貞の相手にもなりゃしない。
せめてメサルティムとかメローペとか、零姫様とか。
ディアディムもなかなかなんだけど。
「何だよ、何が可笑しいんだい、アセルス? 僕を笑ってるのか?」
ゾズマが不機嫌に問い、手を伸ばして白薔薇姫の分のグラスをひっ掴むと、まるでアセルスを挑発するように一息に飲んだ。
「そうさ、ゾズマ。君と私自身を笑ったのさ」
まだ笑いに肩を震わせながら、アセルスはそんな風に受け答えた。
ふと目をやった先には、開け放たれた扉から、水盤に続く庭園が見えた。
部屋の内装同様、白を基調とした花々で飾られている。
一番目立つのは、大輪の白薔薇の茂みだ。
それは淡い光を放って、周囲を圧する美しさを見せている。
ここは、白薔薇姫の部屋。
アセルスが、白薔薇姫のために、彼女のイメージを元に造り出した彼女のための私室。
庭園に咲き誇る白薔薇と、それを取り囲む一群の花々を見て、アセルスは微笑んだ。
白薔薇が目覚めたら、ここを気に入ってくれるだろうか。
優しい彼女のことだから、少しくらいの不満があってもそれを表に出さないだろう。
だが、アセルスは少しの不満も彼女に感じさせないように、細心の注意を払ってこの部屋を造り上げた。
そう……
彼女がいつまでも、自分の傍にいてくれるように。
「少しは強くなったかも知れないけど、感じも悪くなったな、君は」
以前の人に馴れない山猫のようだったアセルスが、何となくゾズマは懐かしく感じた。
反応は読みやすかった。
大概のことに怒っていた。
つまらないという言葉を何度か投げ掛けたが、心底からそう思っていた訳ではない。
だが、今のアセルスは違う。
自らを肯定した者の強さがある。
怒りを杖にしてようやく立っていた者の危うさから脱皮して、複雑怪奇な自分自身を楽しんでいる風がある。
張りつめた危うさが消えた訳ではなく、上位のものに昇華し美と強さに変えた。
彼女が本当には何を考えているのか、最早ゾズマには分からない。
彼女は謎を孕んだ。
丁度オルロワージュがそうだったように、見る角度によってどんな風にも見える宝石のような謎。
「……ゾズマも休めよ……もう遅い。少しは眠った方がいいのは、妖魔も同じさ」
不意に優しい声で、アセルスは言った。
ゾズマの機嫌を取ろうなどというのではない。
敢えて言うなら、聞き分けのない子供をその場から追い払うために、半分だけの事実を口にする大人に似ている。
彼女は面白くなったな。
ゾズマはにやりとした。
このアセルスを目にしたら、白薔薇姫はどう思うだろうか。
やはり、あの方に似ているとでも表現するだろうか?
同時に、人間の親子がそうであるように、繋がりはあってもまるで別個体だと考えるだろうか。
自分が、今まさにそう思っているように。
「いじけるのもいい加減にしないと、イルドゥンを呼んでくるよ?」
効果などまるでないと分かっていながらも、ゾズマはそんな言葉を投げ掛けた。
「……」
アセルスは返事をするのも面倒臭そうだ。
「星読みの山脈って、前はそんな名前じゃなかったよね? 何て名前だったっけ? ……白薔薇が起きたら、二人で行きたいな。星が綺麗なんだって」
ゾズマを無視し、アセルスは白薔薇姫との会話に戻った。
ひんやりした硝子は、白薔薇姫との距離を感じさせるが、同時に確かにこの向こうに彼女がいるのだという証でもある。
「……もういいさ。飽きた。好きなだけやってろよ」
ゾズマは肩をすくめると、空になったグラスに勝手に葡萄酒を注ぎ、くいっと飲んだ。
飽きた、と言うより、満足した、と言うのがより正確だ。
「ああ……そうだ、陽術の資質も取りに行こうか? 白薔薇に付けてあげられなかったよね、ちょうどルミナスであんなことに……」
そんな声を後に、ゾズマはその場から去った。
からかう時間なら、明日たんまりある。
「白薔薇、貴女は本当は何が望みだったの?」
アセルスの声は、硝子に染み込むかのようだった。
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