アセルスとレッド
「アセルス様!」
少し前までレッドたちがいたアセルスの私室は、静まり返っていた。
ラスタバンは、華麗な飾り付けをしたその部屋に、転移して姿を現した。
先代のオルロワージュならば、こんなことは考えられなかった。
例え側近と言えども、オルロワージュの私室には立ち入ることができなかったのだ。
例外は寵姫たちと、オルロワージュ付きの侍女たちくらいだった。
側近がオルロワージュに用がある時は、オルロワージュ付きの侍女に伝言してもらう。
大抵はオルロワージュが謁見の間に側近たちを呼び出し、意思を伝える。
それが常であり、不思議に思うことも不便に思うことも当時はなかったが、今こうやっていると、何であれで過ごしていられたのか、不思議に思うことがある。
「アセルス様!」
妖気をさぐり、庭園と見て取って、ラスタバンは部屋から続くその場所へと向かった。
水盤の城の全ての水盤に水を供給する大元の水盤。
それがアセルスの部屋に繋がる水盤だ。
それ即ち、アセルスこそがこの城を支える主だということを示している。
妖気のみなぎる澄みきった水は、城全体に不思議な力の場を生み出している。
水盤と部屋との間に広がるのが、様々な美しい植物を植えられた庭園だ。
依然の王の時は城にある植物と言えば大部分薔薇だったが、アセルスは多様な植物を好んだ。
人間言うところの月下美人に似た花が白い燐光を放ち、隣では木蓮が灯火に似た花模様を見せる。
小手鞠、あやめ、ファシナトゥール特有の、真珠ほどの実が光を放つ垂れ下がった蔓草に庭に設置された小型の水盤の水が伝う。
庭園に隣接した巨大な水盤には、青く光る睡蓮の花がゆらゆらと揺れている。
アセルスは、そこにいた。
水盤の上に張り出した、白い石の細長い見晴台。
汀の町が一望できるその場所に、ぽつんと一人、立っていた。
ほっそりとした少女、背も取り立てて高いという程ではない。
どこか未完成な印象、それがアセルスをますます人形めいて見せる。
だが……
近付いた者を押し潰さんばかりのその力はどうしたことだ……
「アセルス様!」
青みに寄った青緑の艶麗な髪を見ながら、ラスタバンは三度、呼び掛けた。
「ラスタバンか……」
アセルスは華奢な肩越しに、ちらりと振り返った。
「ご命令通り、汀の町の住人に、アケルナルに対する警戒を呼び掛けました。他の地域へも使い魔を飛ばしましてございます」
「そうか、ご苦労。町での探索はどうなってる?」
「イルドゥンの元に上がっております報告によりますと、今のところそれらしい者の目撃情報はないようにございます。尚、継続して探索を続けるとのことです」
ラスタバンは丁寧な口調で宰相としての報告を果たした。
アセルスがうなずくのが、見晴台に設置された燐光石の光の中に見て取れた。
すぐに視線を眼下に、眩い汀の町と、その先に続くまどろみの湖に戻す。
「気になるのですか……あのレッドという幼なじみの方が」
さりげなく尋ねる。
これも先代の時代には考えられなかった振舞いだ。
臣下が、主たる妖魔の君の内心を直接尋ねるなど。
「ああ……烈人君ばかりじゃない。島にいるアルナイルも気になるよ。アケルナルが花咲く島に潜伏しているなら、真っ先に危険に曝されるのは彼女だからね。私も行った方が良かったかな……」
アセルスは僅かに迷いの感じられる口調で呟いた。
この辺りはまだ昔のアセルスだと、ラスタバンは内心微笑ましく思った。
「いえ、ゾズマもいます。万が一、アケルナルが島に潜伏していたとしても、そう遅れを取ることはないでしょう」
単なる楽観論ではない。
アケルナルは他の同格以上の妖魔を襲い、その力を奪って消滅させている。
そうした妖魔に手助けする仲間がいるとも思えない。
単独の可能性が高いのだ。
例え以前より強くなっていたとしても、ゾズマが数を頼んで当たれば、十分余裕を持って討ち取れるだろう。
「そうだな、お前の言う通りだ、ラスタバン。私も心配のし過ぎだな……」
その言葉に違う含みを感じて、ラスタバンはかすかに首をかしげた。
「何を……お考えなのですか、アセルス様。アケルナル絡みのことだけではありませんね?」
ラスタバンは思いきって踏み込んだ。
アセルスのどんな些細なゆらぎも、把握しておく必要がある。
宰相としての務めである以前に、アセルスがラスタバンにとっての理想でいつづけてくれるかどうか確かめるために。
「お前はそういうのに敏感だな、ラスタバン」
アセルスは苦笑し、振り向いた。
許す気配を感じて、ラスタバンは石造りの橋を歩いて、アセルスの背後に歩み寄った。
彼女の体温を感じる程近くまで来た時、アセルスがふとこぼした。
「……時の流れというものについて考えていた。私は半分人間のままだが、私を知る人間はみんな歳を取り大人に、誰かの親になっていく。烈人君も……ジーナも」
最後に呟かれた名前を聞いて、ラスタバンの肩がぴくりと震えた。
「ああ、安心していい、ラスタバン。何も今更お前を責めようというんじゃない」
アセルスのふるいつきたくなるような苦笑が間近にある。
その映像にか、その言葉にか分からぬまま、ラスタバンは安堵の息を洩らした。
「ジーナは結婚して親になった。烈人君もだ。人間にはそういうことがある。……私も、人間だったら、今頃そうだったのかと思ってな」
永遠に17歳で凍結された少女が、ふとこぼした。
「お気持ちが分かると申し上げたら、嘘になってしまいますが……確実に言えることは一つ。アセルス様が負っておられる責務は、確実に人の親になるより重いのです。やろうと思えば粗方の人間が親になれますが、妖魔の君に――アセルス様のような妖魔の君になれるのは、アセルス様、あなた様しか存在しないのです。他に妖魔の君はおります。歴史上何人も。しかし、あなた様はそれらとは確実に違うのです。メサルティムも申しておりました通り、あなた様は唯一無二の存在であらせられるのです」
熱を込めて、ラスタバンは言い募った。
彼女に人間側への里心をつける訳にはいかない。
ファシナトゥールは、彼女なくしては瓦解する。
この先永く、アセルスは妖魔の君に在位してもらわなくてはならないのだ。
それがラスタバンの願いだった。
――私は、アセルス様を利用しているだろうか。
内心の声が囁く。
そうとも言えるかも知れない。
確かにそのように言われても仕方ない弱みがラスタバンにはある。
アセルスとオルロワージュの対決を促すため、ジーナをさらったのは事実。
オルロワージュが倒された後、イルドゥンにはそのことを散々責められたものだ。
人間のような倫理的な意味ではなく、お前らしくない、何を考えているのだという意味であったけれど。
「役目の重さの大小なんて、その妖魔なり人間なりの主観によるだろう?私だって、オルロワージュの力を、何でもできる力を受け継いでいると知った時には、そんなものいらない、人間に戻って平凡な人生を送りたいと思ったものだ。結局は、何を求めているかだよ」
アセルスがくすくす笑う。
無垢で子供のようだが、妙に妖しくも思える笑み。
アセルスは変わった。
いや、変わった自分を受け入れたと言うべきか。
妖魔としての自分を受け入れ、元の自分と一体化させた。
人間の部分も、妖魔の部分も否定しない。
まるで比重の違う液体を混ぜ合わせたかのように、その境は常にゆらめく。
相容れぬ二つのものが融合した危うい美しさが、彼女にはあった。
「アセルス様は――何を望んでおいでなのですか?」
ラスタバンは努めて自分を抑えつつ尋ねた。
ぐらぐらする魅惑の力を、アセルスから感じる。
オルロワージュと似ていると言えば似ているが、質が大きく異なる。
力の人形、不完全なのに完全なもの。
「白薔薇に――会いたい」
急にうちひしがれたようにかすかな声で、アセルスが言う。
「白薔薇と同じ時を生きたい。同じものを見たい。彼女を満足させたい。彼女を――幸せにしたい。それがないなら、妖魔の君なんて、何の魅力も私にとってない」
「それだけですか?」
ラスタバンは囁いた。
「私には、あなた様が妖魔の君であることを楽しんでいるように感じられます。あなた様のご意志が実現する度、ファシナトゥールは良くなって行く。あなた様はファシナトゥールをすでに愛しておいでなのではないですか? 白薔薇姫様だけではなく」
ある意味決定的なことを言った。
ラスタバンは、反応を待った。
「お前はそんなに私のことを観察しているのか? 油断も隙もない奴たな」
苦笑混じりのその言葉を聞いた時、ラスタバンは賭けに勝ったことを知った。
「私は既にファシナトゥールを愛している。確かにそうだ。以前は考えられない感情だった――逃げ出したいとしか思っていなかったのに、いつからこうなったのかな」
「既にファシナトゥールは、アセルス様の一部です。それが証拠に、天空の有り様が変わったではありませんか。あれはアセルス様のお心を映しているのです」
ラスタバンは天空に目をやった。
満天の星空と、それを覆う輝かしい光の幕。
いつだったか、人間の占いでは、星は希望の意味と知った。
半分人間であるアセルスは、ファシナトゥールに希望を託しているのだろうか。
それはラスタバンの希望でもあるのだけれど。
「本当にそうかどうかは別にして、私は今のファシナトゥールを気に入っているよ。――白薔薇も、目覚めたら気に入ってくれるだろうか」
アセルスは、自らの部屋の水盤に隣接した、繊細華麗に彩られた隣の水盤に目をやった。
アセルスの水盤から水が直接流れ込むその水盤のある部屋の主は、今は深い眠りの底にある。
他の元オルロワージュの寵姫たちは、みな硝子の棺の封印を解かれたが、一人白薔薇姫だけはまだ棺で眠っている。
束縛するためではない。
彼女を保護し、闇の迷宮に囚われた後遺症、妖力の消耗の回復を促すためだ。
硝子の棺自体もオルロワージュの作り出した、寵姫を拘束するためのものではなく、妖力を回復させることに主眼を置いた、アセルスが自ら白薔薇姫のために作り出したものだ。
「白薔薇姫様がお目覚めになったならば、必ずやこのファシナトゥールを愛するようにおなりになるでありましょう。そして仰ることでしょう……アセルス様らしい、と」
深い確信を込めて、ラスタバンは口にした。
この言葉に嘘も装いもない。
ラスタバンにとってもそれは真実なのだから。
「そう……かな」
アセルスは目を汀の町の輝きに戻した。
気配から彼女が微笑んでいるのが分かる。
アセルスは統治者としての喜びを感じている、とラスタバンはその時見抜いた。
正直、白薔薇姫のことしか眼中になく、統治は二の次三の次らしいことに、不安を覚えていたラスタバンだが、今やそれだけではない。
確かに白薔薇姫が一番大事なのだが、ファシナトゥールを統治することにもそのこと自体の喜びを見出だしている。
――自分の願いは叶う。
ラスタバンは内心深い笑みを浮かべた。
「イルドゥンに伝えてくれ。アケルナルが手強い場合は、無理せず私に伝えよ、と。本来、私の役目なのだから。それと重ねて、烈人君からの援助養成には、即座に答えるように」
「承知いたしました」
深い満足と共に、ラスタバンは空間を転移して消えた。
そんな側近の心を知ってか知らずか、アセルスは水音を聞きながら眼下の光を眺めていた。
彼女を取り巻く水に、星がちらちらと映っている。
少し前までレッドたちがいたアセルスの私室は、静まり返っていた。
ラスタバンは、華麗な飾り付けをしたその部屋に、転移して姿を現した。
先代のオルロワージュならば、こんなことは考えられなかった。
例え側近と言えども、オルロワージュの私室には立ち入ることができなかったのだ。
例外は寵姫たちと、オルロワージュ付きの侍女たちくらいだった。
側近がオルロワージュに用がある時は、オルロワージュ付きの侍女に伝言してもらう。
大抵はオルロワージュが謁見の間に側近たちを呼び出し、意思を伝える。
それが常であり、不思議に思うことも不便に思うことも当時はなかったが、今こうやっていると、何であれで過ごしていられたのか、不思議に思うことがある。
「アセルス様!」
妖気をさぐり、庭園と見て取って、ラスタバンは部屋から続くその場所へと向かった。
水盤の城の全ての水盤に水を供給する大元の水盤。
それがアセルスの部屋に繋がる水盤だ。
それ即ち、アセルスこそがこの城を支える主だということを示している。
妖気のみなぎる澄みきった水は、城全体に不思議な力の場を生み出している。
水盤と部屋との間に広がるのが、様々な美しい植物を植えられた庭園だ。
依然の王の時は城にある植物と言えば大部分薔薇だったが、アセルスは多様な植物を好んだ。
人間言うところの月下美人に似た花が白い燐光を放ち、隣では木蓮が灯火に似た花模様を見せる。
小手鞠、あやめ、ファシナトゥール特有の、真珠ほどの実が光を放つ垂れ下がった蔓草に庭に設置された小型の水盤の水が伝う。
庭園に隣接した巨大な水盤には、青く光る睡蓮の花がゆらゆらと揺れている。
アセルスは、そこにいた。
水盤の上に張り出した、白い石の細長い見晴台。
汀の町が一望できるその場所に、ぽつんと一人、立っていた。
ほっそりとした少女、背も取り立てて高いという程ではない。
どこか未完成な印象、それがアセルスをますます人形めいて見せる。
だが……
近付いた者を押し潰さんばかりのその力はどうしたことだ……
「アセルス様!」
青みに寄った青緑の艶麗な髪を見ながら、ラスタバンは三度、呼び掛けた。
「ラスタバンか……」
アセルスは華奢な肩越しに、ちらりと振り返った。
「ご命令通り、汀の町の住人に、アケルナルに対する警戒を呼び掛けました。他の地域へも使い魔を飛ばしましてございます」
「そうか、ご苦労。町での探索はどうなってる?」
「イルドゥンの元に上がっております報告によりますと、今のところそれらしい者の目撃情報はないようにございます。尚、継続して探索を続けるとのことです」
ラスタバンは丁寧な口調で宰相としての報告を果たした。
アセルスがうなずくのが、見晴台に設置された燐光石の光の中に見て取れた。
すぐに視線を眼下に、眩い汀の町と、その先に続くまどろみの湖に戻す。
「気になるのですか……あのレッドという幼なじみの方が」
さりげなく尋ねる。
これも先代の時代には考えられなかった振舞いだ。
臣下が、主たる妖魔の君の内心を直接尋ねるなど。
「ああ……烈人君ばかりじゃない。島にいるアルナイルも気になるよ。アケルナルが花咲く島に潜伏しているなら、真っ先に危険に曝されるのは彼女だからね。私も行った方が良かったかな……」
アセルスは僅かに迷いの感じられる口調で呟いた。
この辺りはまだ昔のアセルスだと、ラスタバンは内心微笑ましく思った。
「いえ、ゾズマもいます。万が一、アケルナルが島に潜伏していたとしても、そう遅れを取ることはないでしょう」
単なる楽観論ではない。
アケルナルは他の同格以上の妖魔を襲い、その力を奪って消滅させている。
そうした妖魔に手助けする仲間がいるとも思えない。
単独の可能性が高いのだ。
例え以前より強くなっていたとしても、ゾズマが数を頼んで当たれば、十分余裕を持って討ち取れるだろう。
「そうだな、お前の言う通りだ、ラスタバン。私も心配のし過ぎだな……」
その言葉に違う含みを感じて、ラスタバンはかすかに首をかしげた。
「何を……お考えなのですか、アセルス様。アケルナル絡みのことだけではありませんね?」
ラスタバンは思いきって踏み込んだ。
アセルスのどんな些細なゆらぎも、把握しておく必要がある。
宰相としての務めである以前に、アセルスがラスタバンにとっての理想でいつづけてくれるかどうか確かめるために。
「お前はそういうのに敏感だな、ラスタバン」
アセルスは苦笑し、振り向いた。
許す気配を感じて、ラスタバンは石造りの橋を歩いて、アセルスの背後に歩み寄った。
彼女の体温を感じる程近くまで来た時、アセルスがふとこぼした。
「……時の流れというものについて考えていた。私は半分人間のままだが、私を知る人間はみんな歳を取り大人に、誰かの親になっていく。烈人君も……ジーナも」
最後に呟かれた名前を聞いて、ラスタバンの肩がぴくりと震えた。
「ああ、安心していい、ラスタバン。何も今更お前を責めようというんじゃない」
アセルスのふるいつきたくなるような苦笑が間近にある。
その映像にか、その言葉にか分からぬまま、ラスタバンは安堵の息を洩らした。
「ジーナは結婚して親になった。烈人君もだ。人間にはそういうことがある。……私も、人間だったら、今頃そうだったのかと思ってな」
永遠に17歳で凍結された少女が、ふとこぼした。
「お気持ちが分かると申し上げたら、嘘になってしまいますが……確実に言えることは一つ。アセルス様が負っておられる責務は、確実に人の親になるより重いのです。やろうと思えば粗方の人間が親になれますが、妖魔の君に――アセルス様のような妖魔の君になれるのは、アセルス様、あなた様しか存在しないのです。他に妖魔の君はおります。歴史上何人も。しかし、あなた様はそれらとは確実に違うのです。メサルティムも申しておりました通り、あなた様は唯一無二の存在であらせられるのです」
熱を込めて、ラスタバンは言い募った。
彼女に人間側への里心をつける訳にはいかない。
ファシナトゥールは、彼女なくしては瓦解する。
この先永く、アセルスは妖魔の君に在位してもらわなくてはならないのだ。
それがラスタバンの願いだった。
――私は、アセルス様を利用しているだろうか。
内心の声が囁く。
そうとも言えるかも知れない。
確かにそのように言われても仕方ない弱みがラスタバンにはある。
アセルスとオルロワージュの対決を促すため、ジーナをさらったのは事実。
オルロワージュが倒された後、イルドゥンにはそのことを散々責められたものだ。
人間のような倫理的な意味ではなく、お前らしくない、何を考えているのだという意味であったけれど。
「役目の重さの大小なんて、その妖魔なり人間なりの主観によるだろう?私だって、オルロワージュの力を、何でもできる力を受け継いでいると知った時には、そんなものいらない、人間に戻って平凡な人生を送りたいと思ったものだ。結局は、何を求めているかだよ」
アセルスがくすくす笑う。
無垢で子供のようだが、妙に妖しくも思える笑み。
アセルスは変わった。
いや、変わった自分を受け入れたと言うべきか。
妖魔としての自分を受け入れ、元の自分と一体化させた。
人間の部分も、妖魔の部分も否定しない。
まるで比重の違う液体を混ぜ合わせたかのように、その境は常にゆらめく。
相容れぬ二つのものが融合した危うい美しさが、彼女にはあった。
「アセルス様は――何を望んでおいでなのですか?」
ラスタバンは努めて自分を抑えつつ尋ねた。
ぐらぐらする魅惑の力を、アセルスから感じる。
オルロワージュと似ていると言えば似ているが、質が大きく異なる。
力の人形、不完全なのに完全なもの。
「白薔薇に――会いたい」
急にうちひしがれたようにかすかな声で、アセルスが言う。
「白薔薇と同じ時を生きたい。同じものを見たい。彼女を満足させたい。彼女を――幸せにしたい。それがないなら、妖魔の君なんて、何の魅力も私にとってない」
「それだけですか?」
ラスタバンは囁いた。
「私には、あなた様が妖魔の君であることを楽しんでいるように感じられます。あなた様のご意志が実現する度、ファシナトゥールは良くなって行く。あなた様はファシナトゥールをすでに愛しておいでなのではないですか? 白薔薇姫様だけではなく」
ある意味決定的なことを言った。
ラスタバンは、反応を待った。
「お前はそんなに私のことを観察しているのか? 油断も隙もない奴たな」
苦笑混じりのその言葉を聞いた時、ラスタバンは賭けに勝ったことを知った。
「私は既にファシナトゥールを愛している。確かにそうだ。以前は考えられない感情だった――逃げ出したいとしか思っていなかったのに、いつからこうなったのかな」
「既にファシナトゥールは、アセルス様の一部です。それが証拠に、天空の有り様が変わったではありませんか。あれはアセルス様のお心を映しているのです」
ラスタバンは天空に目をやった。
満天の星空と、それを覆う輝かしい光の幕。
いつだったか、人間の占いでは、星は希望の意味と知った。
半分人間であるアセルスは、ファシナトゥールに希望を託しているのだろうか。
それはラスタバンの希望でもあるのだけれど。
「本当にそうかどうかは別にして、私は今のファシナトゥールを気に入っているよ。――白薔薇も、目覚めたら気に入ってくれるだろうか」
アセルスは、自らの部屋の水盤に隣接した、繊細華麗に彩られた隣の水盤に目をやった。
アセルスの水盤から水が直接流れ込むその水盤のある部屋の主は、今は深い眠りの底にある。
他の元オルロワージュの寵姫たちは、みな硝子の棺の封印を解かれたが、一人白薔薇姫だけはまだ棺で眠っている。
束縛するためではない。
彼女を保護し、闇の迷宮に囚われた後遺症、妖力の消耗の回復を促すためだ。
硝子の棺自体もオルロワージュの作り出した、寵姫を拘束するためのものではなく、妖力を回復させることに主眼を置いた、アセルスが自ら白薔薇姫のために作り出したものだ。
「白薔薇姫様がお目覚めになったならば、必ずやこのファシナトゥールを愛するようにおなりになるでありましょう。そして仰ることでしょう……アセルス様らしい、と」
深い確信を込めて、ラスタバンは口にした。
この言葉に嘘も装いもない。
ラスタバンにとってもそれは真実なのだから。
「そう……かな」
アセルスは目を汀の町の輝きに戻した。
気配から彼女が微笑んでいるのが分かる。
アセルスは統治者としての喜びを感じている、とラスタバンはその時見抜いた。
正直、白薔薇姫のことしか眼中になく、統治は二の次三の次らしいことに、不安を覚えていたラスタバンだが、今やそれだけではない。
確かに白薔薇姫が一番大事なのだが、ファシナトゥールを統治することにもそのこと自体の喜びを見出だしている。
――自分の願いは叶う。
ラスタバンは内心深い笑みを浮かべた。
「イルドゥンに伝えてくれ。アケルナルが手強い場合は、無理せず私に伝えよ、と。本来、私の役目なのだから。それと重ねて、烈人君からの援助養成には、即座に答えるように」
「承知いたしました」
深い満足と共に、ラスタバンは空間を転移して消えた。
そんな側近の心を知ってか知らずか、アセルスは水音を聞きながら眼下の光を眺めていた。
彼女を取り巻く水に、星がちらちらと映っている。