ファム・ファタール
黒く濁った曇天の下、激しく雨が打ち付ける。
日差しが無いため時間感覚が鈍るが、現在時刻はおおよそ午後3時か4時だろう。彼女の店も開店前の準備に追われている。
バーカウンターでグラスを丁寧に拭く彼女に、一人の少女が声をかける。
「雨、凄いですね〜」
控えめに店内に流れるジャズを掻き消す勢いの雨音。シャワーでも浴びせるかの如く、すりガラスのドアに水が滴る。今朝見たニュースでも、大雨警報が出ていたような。
そんなことをぼんやり考えながら、彼女の言葉に淡々と受け答えをする。
「あー、なんか警報とか出てたわ。」
「そうなんですか!?住み込みで良かった…」
「この感じだとまぁ…帰れないな。」
「お客さんも来なさそうですね…」
「来て雨宿り目的だろーな。」
少女は話しつつ、しっかりテーブルを磨き上げている。素直で物分りも良い。記憶を失っていることだけが気の毒だなと、少し同情する。
峰 鮮花。恐らくそうであろう彼女は、記憶が戻らないにも関わらず、思いのほか元気に仕事に励んでくれている。
それが不安を隠すための行為なのか、元からあまり落ち込む性格ではないのか。
それをわざわざ聞き出すほど、久礼 珠希はデリカシーの無い人間ではない。
「数ヶ月経ったので、仕事にも段々慣れて来ました!珠希さんにはお世話になってばかりですね…えへへ。」
鮮花は柔らかく微笑んで言う。その名に恥じない、蕾が花開くような笑顔で。
早坂 翔が失踪してから、数ヶ月が経過した。
もう、数ヶ月。まだ、数ヶ月。
「おー、まだ数ヶ月だからなぁ、他にも仕事たくさんあるぞ。」
「もしかして…せ、接客ですか!?」
布巾を握り締め、目に見えて動揺する鮮花に、珠希はフッと軽く息を漏らす。笑ったとも、溜め息をついたとも受け取れる。
「酒扱うからそれはまだ早いわな。でも作る練習はしてもらうから、な?」
「はぁい…」
「早いに越したことはねぇし、まぁ…覚えたらいつか誰かに飲ませな。」
未成年…ましてや記憶の無い子に、酔った客の相手をさせる気は更々無い。彼女は少し考えた後、ちょっぴり真剣な、気合いを入れた顔をして、
「じゃあ、いつか珠希さんに飲んでもらいます!飲んでもらえるように、頑張りますね…!」
そう意気込みを述べた。
「まあ頑張れ。」
珠希は、そう返すことしか出来なかった。
◆
翌日。雨上がりの独特で湿った空気が、辺りの空気を少し冷やす。コンクリートも黒く染まったままで、どこか風景全てに暗い印象を覚える。
それとは相反し、頭上は眩しいほど透き通った青一色で塗りつぶされている。鳥の声がなかなかに騒がしい。
久礼 珠希は一人で歩いていた。早朝ということもあり、鮮花はまだ自宅で眠りこけている。
ここ数ヶ月、行方不明になった翔をどうにか出来ないものかと考え続けている。書き置きに色々ありはしたが、珠希はそういったオカルト知識に特別詳しくはない。持ち前の頭脳を上手いこと活かせずに、ただ苦悩するしかなかった。
この内容をメモに残すのなら、こちらを配慮して詳細まで記すものでは…?そこまで考えたところで、彼がデリカシー皆無の人間だったことを思い出す。時間の無駄。愚問だった。
こういった感じで何も考えることが無くなると、無意識のうちに目の前で異形と共に消えた、青臭いガキのことを頭に思い浮かべてしまう。
決してそれは「思い出に浸る」目的ではない。「あの瞬間の状況」を鮮明に思い出し、状況を整理し、「何が起こったのか」「死んだのか生きているのか」を追求する、言うなれば推理そのもの。
発言も、無駄と思えるものはシャットアウトし、「お迎え」「契約」「天の門」という重要そうなキーワードに絞る。ここまで考えていると、つい甘いものが欲しくなる。糖分が足りていない。
悶々と思考し、おもむろに立ち止まる。そこは信号の少ない道路に架けられた、錆びた薄い緑色の歩道橋だ。気付けば、珠希は歩道橋の上に登っていた。
道路の真上、ちょうど真ん中辺りに差し掛かったところでそれが目に留まり、記憶を遡っていた頭が現実に引き戻される。
……献花だ。
昔に、ここで事件でもあったのだろうか。それか自殺か。こんな場所で事故は起こらないだろう。湿った花から視線を外し、そろそろ帰ろうかと思った瞬間。彼女は気付く、気付いてしまう。
考えごとをし過ぎた。ここは、この場所は、来ては行けない場所だ。根拠は無いが、前からそう感じていた。だから近寄らないようにしていたはずだ。はずだった。
しかし、目に見えて危ないものは見当たらず、他に人は誰もいない。本当にそこには、雨に濡れて雫を纏ったただの「献花」しかない。
頭では理解しているはずなのに、何故か冷や汗が止まらない。指先や足先といった末端の温度が徐々に奪われ、次第に小さく震え出す。
自分でも何が何だか分からない。事件現場でも、死体を見ても、化け物に遭遇したときも、こんなことにはならなかったのに。
でも、初めてじゃない…この感覚には…覚えがある気がする。いつ?一体いつ?
〈好きだよ〉
〈嫌いだ〉
思い出そうと踏み出す自分を、頑なに引き止める自分がいる。それ以上進むなと、ここにいた方が楽だと。分かったところで何も出来ないし、ただ苦しい現実が待っているだけだと。
そう…あたしは、進む勇気を持ち合わせていなかった。今に満足しているならそれでいいじゃないか。ここにいれば。止まってしまえば。
自分と自分の意志が拮抗する。進むことはなく、戻ることもない。
不意に、聞き慣れない金属音が響く。
同時に重みが無くなる首元。ふと足元に視線を向けると、光を反射しながら転がっていく物体がそこにはあった。円形の金属の輪だ。千切れた細いチェーンが、しゃらりと首から滑り落ちる。
珠希の少し先を転がり、やがて柵の隙間から、真下の道路へと吸い込まれるように落ちていく。
…いや、落ちることは無かった。鎖を巻き付けられたように動かなかった身体が、何故か自然と動き出していたようで。「それ」が、その「指輪」が落ちてしまう直前、手のひらで指輪を地面に押さえ付ける。
〈じゃあね、珠希さん〉
〈まぁ、悪くはなかった〉
電話越しに聞いた声。面と向かって聞いた声。その2つは、とても聞き慣れたもの。
二足並べられた靴。不味かったパフェ。貰ったピアス。預けた眼帯。想いに気付くことが出来なかった。止めるための一歩が踏み出せなかった。
指輪を押さえたまま俯く彼女の目からは、ほんの小さな雫が一つ、落ちていく。それが合図だったと言わんばかりに、意図しない涙がボロボロと、服を、地面を、肌を濡らして染みを作っていく。
刑事になってから、悲しいことでも、感動する映画でも、心が死んだかのように泣くことが出来なかった。今思えばきっと、辛くならないよう線引きをしていたのだろう。
困り顔で少し取り繕った笑顔と、飄々としたいけ好かない笑顔が、また彼女の頬を濡らす。
ただ、その場で静かに泣いた。何年分か溜め込んだ涙を、早朝なのを良いことにその場で全て出し切った。
久礼 珠希は強くない。強くあろうと藻掻く、ただの一人の人間である。
◆
バーの営業時間も終わり、珠希はベランダに置いてある安いスツールに腰掛ける。慣れた様子で箱から一本煙草を取り出し、ジッポライターでそれに火を灯す。
空気は澄んでおり、星空がやけに綺麗に映る。月も金色の光を纏い、いつもより少し低い位置で輝きを放っている。吸い込んだ煙が体内に行き渡り、やがて空に白煙が昇っていく。
その姿は、どこか前の彼女とは違って見えた。
須尾の両親や、刑事時代の同僚の元を訪れた際は、それはそれは酷く驚かれたもので。かつての自分はまともでは無かったはずだ。迷惑をかけたことを彼らに謝罪したが、二つ返事で大丈夫だと返してくれた。とてもじゃないが頭が上がらない。
再び吹かす。程よい風が、その場に漂う煙を攫っていく。煙草のせいで口が若干ザラつく。
「ふぅ」
例え言葉を零しても、誰もそれを聞く人はいない。独り言が夜闇に消えていくのが分かる。
「あーあ、ホントに手のかかるガキなこった。」
早坂 翔には、正直思うところしかなかった。勝手に離婚しとけと言う割に、離婚届の一つ用意していない。わざわざあんなメモを残す余裕があったにも関わらずだ。
いいだけ嫌がっていた結婚なのに。手続きをした時点で、既に離婚届が用意されていてもおかしくない。なのにそれが無かった。
指輪も、最後に自分の前で投げ捨ててしまえば良かったのに。別れ際、言い残す言葉はもっときつい罵詈雑言で良かっただろうに。無駄だと分かっていても、逃げられるか試せば良かったのに。
言っていたこと全てが本心であれば、あの場で嫌いだの死ねだのお前のせいだの、ありったけの皮肉を吐き捨てて、指輪を外し、逃げ出して諦めて、残した離婚届にサインするよう強制するのが自然だ。
中途半端なメモを残し、指輪は外さず、嫌いと言いつつ悪くなかったなんて言ってのけた。そして真っ先に自分を諦め、当然の如く自らの命を投げ捨てた。
皮肉も最初は珠希の性格や容姿に対してだけだったのに、まれに自身の感情や考えについて後付けすることもあった。取って付けたような、自分にそう言い聞かせるような。
「嘘つくの下手なんだから、素直にしときゃいいのに。」
灰を指の腹でとんとん、と落とす。ほんのり明るい色の塊が落ちて砕け、次第に彩度を失う。
「生きるのが下手くそ…」
「…あたしが言えたことじゃねーか。」
久礼 珠希は、早坂 翔を探し続ける。いいだけ自分をトラブルに巻き込み、急に嫌々結婚をせがまれ、かと思えば抱えた感情を無自覚でチラつかせて、呆気なく自ら死にに行った彼を。
「あんだけ言っといて、それなのにあたしに助けられたら…お前絶対に嫌だろ?屈辱だよな?」
これは彼女なりの、最大限の「優しさ」と「嫌がらせ」だ。
「助けない」なんて一言も言っていない。「死ね」とも言っていない。嫌いとは言ったものの「消えろ」なんて、もちろん言っていない。
「嫌いってずっと言ってたけどさぁ、今でも相変わらず嫌いだよ。お前の、自分の命を軽く見てるとこが。」
「そこが直れば、ただの不器用で口うるさい、可愛げのあるヤツなのにな。」
ぽつりと呟いた彼女が、灰皿に煙草を押し付け火を消す。そのまま立ち上がり、薄暗い部屋の中へと姿を消す。
ベランダへの扉を閉める彼女の右手。薬指にはめられた銀色の輪が、月明かりを反射して白く輝いた。
日差しが無いため時間感覚が鈍るが、現在時刻はおおよそ午後3時か4時だろう。彼女の店も開店前の準備に追われている。
バーカウンターでグラスを丁寧に拭く彼女に、一人の少女が声をかける。
「雨、凄いですね〜」
控えめに店内に流れるジャズを掻き消す勢いの雨音。シャワーでも浴びせるかの如く、すりガラスのドアに水が滴る。今朝見たニュースでも、大雨警報が出ていたような。
そんなことをぼんやり考えながら、彼女の言葉に淡々と受け答えをする。
「あー、なんか警報とか出てたわ。」
「そうなんですか!?住み込みで良かった…」
「この感じだとまぁ…帰れないな。」
「お客さんも来なさそうですね…」
「来て雨宿り目的だろーな。」
少女は話しつつ、しっかりテーブルを磨き上げている。素直で物分りも良い。記憶を失っていることだけが気の毒だなと、少し同情する。
峰 鮮花。恐らくそうであろう彼女は、記憶が戻らないにも関わらず、思いのほか元気に仕事に励んでくれている。
それが不安を隠すための行為なのか、元からあまり落ち込む性格ではないのか。
それをわざわざ聞き出すほど、久礼 珠希はデリカシーの無い人間ではない。
「数ヶ月経ったので、仕事にも段々慣れて来ました!珠希さんにはお世話になってばかりですね…えへへ。」
鮮花は柔らかく微笑んで言う。その名に恥じない、蕾が花開くような笑顔で。
早坂 翔が失踪してから、数ヶ月が経過した。
もう、数ヶ月。まだ、数ヶ月。
「おー、まだ数ヶ月だからなぁ、他にも仕事たくさんあるぞ。」
「もしかして…せ、接客ですか!?」
布巾を握り締め、目に見えて動揺する鮮花に、珠希はフッと軽く息を漏らす。笑ったとも、溜め息をついたとも受け取れる。
「酒扱うからそれはまだ早いわな。でも作る練習はしてもらうから、な?」
「はぁい…」
「早いに越したことはねぇし、まぁ…覚えたらいつか誰かに飲ませな。」
未成年…ましてや記憶の無い子に、酔った客の相手をさせる気は更々無い。彼女は少し考えた後、ちょっぴり真剣な、気合いを入れた顔をして、
「じゃあ、いつか珠希さんに飲んでもらいます!飲んでもらえるように、頑張りますね…!」
そう意気込みを述べた。
「まあ頑張れ。」
珠希は、そう返すことしか出来なかった。
◆
翌日。雨上がりの独特で湿った空気が、辺りの空気を少し冷やす。コンクリートも黒く染まったままで、どこか風景全てに暗い印象を覚える。
それとは相反し、頭上は眩しいほど透き通った青一色で塗りつぶされている。鳥の声がなかなかに騒がしい。
久礼 珠希は一人で歩いていた。早朝ということもあり、鮮花はまだ自宅で眠りこけている。
ここ数ヶ月、行方不明になった翔をどうにか出来ないものかと考え続けている。書き置きに色々ありはしたが、珠希はそういったオカルト知識に特別詳しくはない。持ち前の頭脳を上手いこと活かせずに、ただ苦悩するしかなかった。
この内容をメモに残すのなら、こちらを配慮して詳細まで記すものでは…?そこまで考えたところで、彼がデリカシー皆無の人間だったことを思い出す。時間の無駄。愚問だった。
こういった感じで何も考えることが無くなると、無意識のうちに目の前で異形と共に消えた、青臭いガキのことを頭に思い浮かべてしまう。
決してそれは「思い出に浸る」目的ではない。「あの瞬間の状況」を鮮明に思い出し、状況を整理し、「何が起こったのか」「死んだのか生きているのか」を追求する、言うなれば推理そのもの。
発言も、無駄と思えるものはシャットアウトし、「お迎え」「契約」「天の門」という重要そうなキーワードに絞る。ここまで考えていると、つい甘いものが欲しくなる。糖分が足りていない。
悶々と思考し、おもむろに立ち止まる。そこは信号の少ない道路に架けられた、錆びた薄い緑色の歩道橋だ。気付けば、珠希は歩道橋の上に登っていた。
道路の真上、ちょうど真ん中辺りに差し掛かったところでそれが目に留まり、記憶を遡っていた頭が現実に引き戻される。
……献花だ。
昔に、ここで事件でもあったのだろうか。それか自殺か。こんな場所で事故は起こらないだろう。湿った花から視線を外し、そろそろ帰ろうかと思った瞬間。彼女は気付く、気付いてしまう。
考えごとをし過ぎた。ここは、この場所は、来ては行けない場所だ。根拠は無いが、前からそう感じていた。だから近寄らないようにしていたはずだ。はずだった。
しかし、目に見えて危ないものは見当たらず、他に人は誰もいない。本当にそこには、雨に濡れて雫を纏ったただの「献花」しかない。
頭では理解しているはずなのに、何故か冷や汗が止まらない。指先や足先といった末端の温度が徐々に奪われ、次第に小さく震え出す。
自分でも何が何だか分からない。事件現場でも、死体を見ても、化け物に遭遇したときも、こんなことにはならなかったのに。
でも、初めてじゃない…この感覚には…覚えがある気がする。いつ?一体いつ?
〈好きだよ〉
〈嫌いだ〉
思い出そうと踏み出す自分を、頑なに引き止める自分がいる。それ以上進むなと、ここにいた方が楽だと。分かったところで何も出来ないし、ただ苦しい現実が待っているだけだと。
そう…あたしは、進む勇気を持ち合わせていなかった。今に満足しているならそれでいいじゃないか。ここにいれば。止まってしまえば。
自分と自分の意志が拮抗する。進むことはなく、戻ることもない。
不意に、聞き慣れない金属音が響く。
同時に重みが無くなる首元。ふと足元に視線を向けると、光を反射しながら転がっていく物体がそこにはあった。円形の金属の輪だ。千切れた細いチェーンが、しゃらりと首から滑り落ちる。
珠希の少し先を転がり、やがて柵の隙間から、真下の道路へと吸い込まれるように落ちていく。
…いや、落ちることは無かった。鎖を巻き付けられたように動かなかった身体が、何故か自然と動き出していたようで。「それ」が、その「指輪」が落ちてしまう直前、手のひらで指輪を地面に押さえ付ける。
〈じゃあね、珠希さん〉
〈まぁ、悪くはなかった〉
電話越しに聞いた声。面と向かって聞いた声。その2つは、とても聞き慣れたもの。
二足並べられた靴。不味かったパフェ。貰ったピアス。預けた眼帯。想いに気付くことが出来なかった。止めるための一歩が踏み出せなかった。
指輪を押さえたまま俯く彼女の目からは、ほんの小さな雫が一つ、落ちていく。それが合図だったと言わんばかりに、意図しない涙がボロボロと、服を、地面を、肌を濡らして染みを作っていく。
刑事になってから、悲しいことでも、感動する映画でも、心が死んだかのように泣くことが出来なかった。今思えばきっと、辛くならないよう線引きをしていたのだろう。
困り顔で少し取り繕った笑顔と、飄々としたいけ好かない笑顔が、また彼女の頬を濡らす。
ただ、その場で静かに泣いた。何年分か溜め込んだ涙を、早朝なのを良いことにその場で全て出し切った。
久礼 珠希は強くない。強くあろうと藻掻く、ただの一人の人間である。
◆
バーの営業時間も終わり、珠希はベランダに置いてある安いスツールに腰掛ける。慣れた様子で箱から一本煙草を取り出し、ジッポライターでそれに火を灯す。
空気は澄んでおり、星空がやけに綺麗に映る。月も金色の光を纏い、いつもより少し低い位置で輝きを放っている。吸い込んだ煙が体内に行き渡り、やがて空に白煙が昇っていく。
その姿は、どこか前の彼女とは違って見えた。
須尾の両親や、刑事時代の同僚の元を訪れた際は、それはそれは酷く驚かれたもので。かつての自分はまともでは無かったはずだ。迷惑をかけたことを彼らに謝罪したが、二つ返事で大丈夫だと返してくれた。とてもじゃないが頭が上がらない。
再び吹かす。程よい風が、その場に漂う煙を攫っていく。煙草のせいで口が若干ザラつく。
「ふぅ」
例え言葉を零しても、誰もそれを聞く人はいない。独り言が夜闇に消えていくのが分かる。
「あーあ、ホントに手のかかるガキなこった。」
早坂 翔には、正直思うところしかなかった。勝手に離婚しとけと言う割に、離婚届の一つ用意していない。わざわざあんなメモを残す余裕があったにも関わらずだ。
いいだけ嫌がっていた結婚なのに。手続きをした時点で、既に離婚届が用意されていてもおかしくない。なのにそれが無かった。
指輪も、最後に自分の前で投げ捨ててしまえば良かったのに。別れ際、言い残す言葉はもっときつい罵詈雑言で良かっただろうに。無駄だと分かっていても、逃げられるか試せば良かったのに。
言っていたこと全てが本心であれば、あの場で嫌いだの死ねだのお前のせいだの、ありったけの皮肉を吐き捨てて、指輪を外し、逃げ出して諦めて、残した離婚届にサインするよう強制するのが自然だ。
中途半端なメモを残し、指輪は外さず、嫌いと言いつつ悪くなかったなんて言ってのけた。そして真っ先に自分を諦め、当然の如く自らの命を投げ捨てた。
皮肉も最初は珠希の性格や容姿に対してだけだったのに、まれに自身の感情や考えについて後付けすることもあった。取って付けたような、自分にそう言い聞かせるような。
「嘘つくの下手なんだから、素直にしときゃいいのに。」
灰を指の腹でとんとん、と落とす。ほんのり明るい色の塊が落ちて砕け、次第に彩度を失う。
「生きるのが下手くそ…」
「…あたしが言えたことじゃねーか。」
久礼 珠希は、早坂 翔を探し続ける。いいだけ自分をトラブルに巻き込み、急に嫌々結婚をせがまれ、かと思えば抱えた感情を無自覚でチラつかせて、呆気なく自ら死にに行った彼を。
「あんだけ言っといて、それなのにあたしに助けられたら…お前絶対に嫌だろ?屈辱だよな?」
これは彼女なりの、最大限の「優しさ」と「嫌がらせ」だ。
「助けない」なんて一言も言っていない。「死ね」とも言っていない。嫌いとは言ったものの「消えろ」なんて、もちろん言っていない。
「嫌いってずっと言ってたけどさぁ、今でも相変わらず嫌いだよ。お前の、自分の命を軽く見てるとこが。」
「そこが直れば、ただの不器用で口うるさい、可愛げのあるヤツなのにな。」
ぽつりと呟いた彼女が、灰皿に煙草を押し付け火を消す。そのまま立ち上がり、薄暗い部屋の中へと姿を消す。
ベランダへの扉を閉める彼女の右手。薬指にはめられた銀色の輪が、月明かりを反射して白く輝いた。
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