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木枯らしがより一層の冷たさを帯び、冬の訪れが垣間見える眠らない街、神室町。
いつも賑やかでネオンが輝く街には、数多くの不埒な輩が蔓延っている。
チンピラ、不良、ゴロツキ、
その中でもかなりの権力や力を持った者、極道はこの神室町の至る所を根城にしていた。
ある所ではみかじめをせびりに質の悪いヤクザがホストクラブに来店したり、ある所では目を合わせただけで標的にされては無抵抗の人間を痛めつけ、またある所では女性を付け狙った屑な輩が歩き回っていたり、この街は警察が介入しているのにも関わらず無法地帯だ。
極道を辞めて堅気となった桐生は最愛だった由美が遺した遥と共に、今でも東城会から何かと協力を要請されては極道の世界で起こるありとあらゆる事件を解決しようと奮闘している。
それなりに生活は充実しておきながらも、神室町で起こる事件をのさばらしては置けないのは桐生の性分なのだろう。
それに堅気となってしまっても完全に極道との関係が絶たれたわけではなかった。
「水口、派手にやったな」
桐生が特に焦りを見せた様子もなく語りかけたのは、暗い部屋の一室、むさ苦しい男達が地に伏しているその真ん中で仁王立ちしたしなやかな丸みを帯びたシルエットに向けてだった。
部屋の電気はここで起こった戦闘により、壊されて火花が散っている。
「この部屋で十人以上も相手をするのは、流石に疲れるな……」
しなやかな曲線を描くシルエットからは凛とした女性にしては少し低めの声が発せられた。
瀬凪は返り血を浴びた頬を乱暴に拭って持っていた小刀をその辺に捨てる。カランと乾いた音を立てて役目を果たした小刀は寂しげに床の上に留まった。
「怪我はないか?」
「かすり傷程度だ」
桐生の問いに興味無さげな口調で受け応えをするが瀬凪の顔や体に付着した血は床に倒れている男達の物なのかそれとも彼女自身の物なのか真意は分からない。
ただ瀬凪の口から発せられる声のトーンは特に苦しげも無かったので本当にただのかすり傷程度なのだろう。
「暗いな、」
地を這うような低音で桐生が一言零す。
壊れてしまった灯りからチラホラと散る火花が一瞬だけ室内を淡く照らすがこんなものはなんの足しにもならない。外に出る方がまだマシだと確信した二人は気絶した男達を避けながら部屋を出た。
案の定外の方が室内の何倍も明るく、歩き回っている人々の喧騒が遠くから聞こえてくる。
静かで真っ暗だったあの部屋はどこか別の世界にいたようで、あの空間は瀬凪や桐生の性分にはどうも合わなかった。
いつもの煌びやかで少しだけ五月蝿い方が二人には合っている。
「そんな状態で遥に会うのか?」
「ここから私の家はかなり遠い、風呂に入って着替えてからじゃ間に合わない」
今日瀬凪は遥に顔を見せる日だ。
だご全身血塗れの状態で遥に会えば怖がらせてしまう。
しかし生憎、瀬凪は次の仕事が連続で入っていた。
桐生は堅気となってしまったが、瀬凪は今も尚極道の人間として東城会に関わっている。
女の極道などと認められないことも多々あるがそれでも瀬凪は極道の世界につま先から方までどっぷりと浸かってしまった身。今更堅気になるのは彼女の中ではありえない事だった。
堅気になったところで、瀬凪の居場所はどこにもない。帰るところなんて、どこにも
「遥はまだヒマワリにいる。遥が帰って来る前にうちで風呂と着替えを済まして行けばいい」
「……分かった」
風呂は有難く貸してもらうことになったが着替えの事に関してはどう対応するのか瀬凪は分からなかった。
しかし桐生に何か考えでもあるのだろうとこれ以上問い詰めることはしなかった。
彼の言うことに従ってあまり目立たない道や裏路地を歩きつつ、すぐに桐生と遥の住んでいる家に辿り着くことが出来た。
部屋に入るなり瀬凪は風呂場に直行する。
遥に会うために何度も桐生の部屋に立ち入っているので部屋の間取りは完全把握していた。
瀬凪は脱衣所の扉を締め、シャツの上に携帯していたガンホルダーを外す。
いつも携帯しているガンホルダーのバックル部分は擦り切れていてどれだけ長く使っていたかを物語っていた。
そろそろ替え時だな、と心の中で独りごちながら真っ赤に染ったシャツを脱ぎ、下に着ていた薄手の黒いタートルネックも脱いでいく。
脱いだ衣服はそのまま洗濯機に突っ込み、外したガンホルダーは洗濯機の横にあった収納棚に適当に置いて瀬凪はシャワールームに入った。
着替えは恐らく桐生があとから持ってきてくれるのだろう、瀬凪がそう思った矢先にシャワールームの外から低音の声が聞こえてきた。
「着替え、俺のしか無かったが一応置いておくぞ」
「あぁ」
桐生は着替えを置いていってすぐに脱衣所から出ていく。
瀬凪がシャワーを浴びている間に何か夕飯の支度でもしようと考えたが、自分でやるにはまだ技術や経験不足だと悟り、遥が帰ってくるまでに下準備だけはしておこうとキッチンに立った。
静かな室内にシャワーの水が流れる音だけが響き、いつも聞いているはずの生活音が桐生には妙に鮮明に思えた。
遥が風呂に入っている時とはまた違った感覚。瀬凪だからなのだろうか。
適当に下準備だけを終わらせ、桐生はソファに座りテレビを鑑賞しながら瀬凪が出てくるのを待った。
テレビのニュースには神室町にできた真新しい店や、今話題の芸能人の話、今日起こった事件の犯人が逮捕された話。いつもと何ら変わらない情報だけが流れている。
ソファに腰かけていると、程なくして瀬凪が脱衣所から出てくる音が桐生の耳に入った。
ペタリ、ペタリと裸足でリビングまで歩いてきた瀬凪の姿はまたもや桐生に鮮明だと思わせる。
「下はさすがに大きすぎた。上だけ借りていく」
「あぁ、それにしても。お前のラフな格好は初めて見たかもしれねぇ」
桐生から借りた服は、やはり一般女性よりも身長が高く体格もしっかりした瀬凪でさえも大きかった。
灰色のスウェットは瀬凪の体を難なく包み込み、膝上まで覆っている。
スウェットからスラリと伸びた白い足は健康的で、瀬凪の身長が高い事もあってかとても長く見えた。
「不満か?」
「いや、今まで知らなかった一面を見れたような気がしてな」
瀬凪は桐生から距離をとってソファに座りテレビに目を向ける。
右端に表示された時計の時刻は午後六時。そろそろ孤児院の院長に連れられて遥がここに帰ってくる時間だ
「遥、喜ぶだろうな。お前が来ている事を知ったら」
「そうだな。半年ぶりか」
遥は瀬凪の事を大層好いており、誰もが彼女の事を避ける中遥だけが瀬凪を母親のように見ている。
極道の世界に入って早々に洗礼を受けた瀬凪の顔にはおぞましい火傷跡が左目や左頬から主張してくる。
包帯を巻こうとアイパッチを付けようと、その傷は主張をやめてくれない。
女性にとって可愛くあるためには命とも言える顔に一生の傷を負ったのは不運なんて言葉では片付けられないだろう。
火傷跡のせいで通りすがる人々は瀬凪を恐れ、避け、孤独にさせた。
そんな中、遥だけは怖がらずに瀬凪を慕っていてくれる。そんな遥のことが瀬凪も好きだった。
由美が遺した宝を瀬凪は生涯かけても育て上げ、守ってやろうと心の奥で誓っていた。
「それ、外さないのか?」
「なんだ、外して欲しいのか」
桐生が瀬凪の左目の事に触れる。
はっきり言って、焼け爛れてしまった傷跡など見世物ではない。
瀬凪にとってはそんなの気にする事すらとうの昔に手放したが、桐生に見せるのは何故か他の人間に見せるよりも気が引けてしまう。
「俺や遥は気にしていない。俺達だけ時は外してみたらどうだ?」
「遥の前では流石に外せない。怖がらせたくない」
瀬凪が左目を押さえて切実にそう桐生に訴える。余程遥に嫌われるのが嫌なのだろうと察した桐生は無理はしなくてもいいと瀬凪を宥めた。
「なら、俺がいる時だけってのはどうだ?」
「何が目的か知らんが、勝手にしろ。気分を悪くしても私は責任なんて取らないぞ」
そう言って瀬凪は自身の後頭部に手を回ふと紐を解き、アイパッチを掌の中に収めた。
アイパッチを外したところで瀬凪の左目に視力はない。だからこそ瀬凪は桐生の目的が何なのか理解が出来なかった。
ただ単に嘲笑って罵りたいだけなのならば、それはそれで受け入れても構わないと思っていた。
しかし桐生から出た言葉は嘲笑いでも罵倒でも何でもなかった。
瀬凪が桐生に視線を向けても嫌な顔一つせず、寧ろ眉間によっていた皺は少しだけ和らぎ、微笑んでいる。
「十分綺麗じゃねーか」
「……」
どう受け応えをすればいいのか、瀬凪には分からなかった。
桐生の言葉に喜べばいいのか、どうせお世辞だと怒ればいいのか、余計な同情はするなと悲しめばいいのか。
けれども考えつく反応の返し方はきっと全て不正解だ。
桐生の声のトーンはお世辞でもなんでも無いことくらい瀬凪にはすぐに分かる。
故に、歯痒い気持ちと言いようのない高揚感に瀬凪は風呂上がりだと言うのに更に体温は上昇していった。
「馬鹿だな」
「いきなり馬鹿か。お前の毒舌具合は筋金入りだな」
桐生にはバレたくない。瀬凪は理性と持ち前の根性で感情を押し殺して真顔を保つ。
桐生一馬という男はいつもそうだ。
素直に思った事を言い、周りの人間が惹かれていくような行動をする。
瀬凪は昔からの彼の被害者だ。
桐生のそのストレートな物言いと、真っ直ぐな芯の通った心にどこまでも惹かれていった。
あくまでまだ純粋無垢だった頃の瀬凪の心だが。
今は汚れすぎてしまって自分の思う感情全てが嘘くさく感じられる。
瀬凪は自分を偽ってばかりでいつしか自身を見失ってしまっていた。
小さい頃の桐生に対する恋心も。
しかし今の桐生の一言が、瀬凪の汚れた嘘だらけの心にほんの小さな灯りを付けた。
昔の純粋無垢だった頃のあの感覚が少しだけ思い出される。
「狭山はどうしてるんだ」
段々と強くなる歯痒さが嫌で、何となく話を逸らしたくて瀬凪は桐生の一時の相棒、狭山の話題に持ち込んだ。
「狭山は……元気にしてるさ」
瀬凪は直ぐにこの話を出した事を後悔した。狭山と桐生は一時的だったとしても、心を通わせている。
狭山と桐生が距離を置くようになってしまって、彼が少し寂しそうにしていたのを瀬凪は知っている。
この話題は桐生にとっても、そして瀬凪自身にとってもあまり良くない話題だ。
「たまには連絡でもしてあげろ。愛想つかして逃げていくぞ」
「……水口、俺は」
桐生が何かを言いかけた時、玄関先から鈴のような可愛らしい元気な声が聞こえてきた。間違いなく遥の声だ。
瀬凪はすぐさま掌に収めていたアイパッチを取り出して左目に宛てがう。
「桐生のおじちゃんただいまー」
「あぁ、おかえり遥」
ソファに座っていた桐生が立ち上がった瞬間、遥の顔がパッと明るくなり、ソファ目掛けて全速力で駆けてきた。
「瀬凪お姉ちゃん!久しぶり!」
「久しぶり、遥。いい子にしていたか?」
「うん!いい子にしてた!」
遥と瀬凪はすぐに話に花を咲かせる。それを微笑ましい顔で見守りつつ桐生はキッチンに立った。
「あ!おじちゃん!私がご飯作る!」
「あぁ、手伝うよ」
瀬凪にまた後でいっぱい話そうね、と伝えると遥はエプロンを付けてキッチンにいる桐生の隣に立った。
まるで親子のように仲睦まじく料理をしている後ろ姿が瀬凪には眩しく、ありもしない未来について考えた。
極道に入らなければ、私も家庭を持てたのだろうか。
桐生を好きになっていなければ、普通の幸せとやらを掴むことが出来たのだろうか。
桐生と共に、幸せになることは出来なかったのだろうか。
今となっては絶対に叶うことの無い将来で、やはり瀬凪の歩んでいる道には何も無かった。歩いてきた道を振り返ればそこは枯れ木や茨だらけ。
幸せを素直に願うことすらやめてしまった彼女の末路は、キッチンに立つ小さな背中と、大きな背中を見ながら羨ましく思うこと。
自分の帰る場所は、遥の元でも、桐生の元でもない。
瞬間、虚無感に囚われ瀬凪はソファに深く沈み込む。
「めんどくさ……」
その一言が桐生と遥に聞こえることは決して無かった。
遥が帰ってくる前に桐生が下準備を終わらせたおかげで夕飯はすぐに出来た。
時刻は午後七時前で、夕飯には丁度いい時間帯だ。
遥が作ってくれた料理はどれもとても美味しく、まだ十歳になったばかりとは思えないほどクオリティの高い料理だった。
度々桐生の家に出入りしては遥の手料理を食べているが、最初こそ不器用ながらに作ってくれた料理だったが、今の遥の料理は本当に美味しい。
瀬凪は大満足で夕飯を終えた。
「遥、皿洗い手伝うぞ」
「いいのいいの!瀬凪お姉ちゃんは座ってて?」
「私は遥と話がしたいんだけどな」
瀬凪がそう言うと、遥は目を輝かせて大きく頷いた。ココ最近の近況などを遥が嫌がらない程度に瀬凪は話してやった。
いつもと変わらず悪い奴らを蹴散らしている、今日は街の人を困らせてる輩から金を取り返した。
話はどれも極道関連だったが、遥はそれでも楽しそうに話を聞いてくれた。
桐生が元極道というのもあってか遥はそっちの話に理解がある。
「瀬凪お姉ちゃん好きな人できた?」
話題は変わり、遥は子供らしい可愛げのある質問をしてきた。
この話も桐生の部屋に来る度に聞いた事だが、答えは一択しか出てこない。
「いや、まだかな」
「そっかぁまだかぁ。瀬凪お姉ちゃんとっても優しくてとっても強いのにね。モテモテだと思うのになぁ」
真剣に考えてくれる遥が可愛くて、瀬凪は思わず笑みを浮かべる。自分の事なんて気にする必要は無いというのに
「でも安心して!瀬凪お姉ちゃんに好きな人ができなくても、桐生のおじさんが瀬凪お姉ちゃんの事お嫁さんに貰ってくれるよ!」
「え?」
遥の意外な一言に瀬凪の喉から上擦った声が出てくる。
先程まで桐生と共に幸せになる事など到底叶うことの無い、考える事もきっと許されないはずなのに、遥はその境界線すら越えて道を繋いでくる。
それは遥が無垢な子供だから言えること。
「遥。桐生には、もう既に決まってる人がいるんだ」
「え?だから、それが瀬凪お姉ちゃんだよ?」
「いや、そうじゃなくて……」
必死に訴えるが遥の意見は断固として変わらなかった。瀬凪は遥の意見が筋違いだと思っている。
由美を亡くして強い寂しさを覚えた桐生が今、やっとの事で心の拠り所を見つけたのは狭山だ。
瀬凪が小さい頃からずっと片想いを貫いてきた桐生にはもう既に次の大きな存在がいる。
押し殺していたはずの感情がまるで決壊したダムのように溢れてきた。
遥の一言がここまで瀬凪を動揺させるのは彼女自身も初めてのことで、対応に困る。
「桐生は、私には勿体ないんだ……由美のような純心な人間や、狭山のような高貴な善人の方がよっぽど……」
「確かにおじさんは、私のお母さんの事好きだったし、狭山のお姉ちゃんの事も好きだよ」
「……うん」
桐生の心が己に向いていない事を自分で言うのと、他人から言われるのとでは傷付く度合いが違う事に気づいた瀬凪は声が段々とか細く小さなものになっていく。
「でもね、おじさん言ってたんだ。お姉ちゃんは、私のお母さんとか、狭山のお姉ちゃんとは違うって」
「何が、違うんだ?」
話の続きを促した瀬凪に遥は食器を棚に戻しながら、満面の笑みを浮かべて続けた。
「お姉ちゃんの事、大好きだから、お姉ちゃんが幸せになるのを見届けてあげたいって」
言葉が出なかった。
瀬凪が桐生に長年の片想いを滾らせてる間にも、桐生も同様に瀬凪を想っているからこその幸せを願っていた。
不器用ながらも互いに心を通わせ、それを一つも口にせずにずっと何年も二人は過ごしていたのだ。
瀬凪は心臓から手足や足先に向かってじんわりと温かい血が通っていくのをやけにリアルに感じ取った。
長い間冷えていた心が暖かさを取り戻していく。
「瀬凪お姉ちゃんがどうしても好きな人が見つからなかったらね、桐生のおじさんと結婚して欲しいんだ」
笑顔だった遥の表情に暗雲がかかっていく。
遥も遥なりに色々なことを考えて、桐生の事や瀬凪の事を心配してくれていたようだ。
一見純心で無垢で、どんな事も明るい感性で見ている遥は周りの雰囲気をすぐに読み取ることの手間着る大人な面も持ち合わせている。
まだ二桁になったばかりの歳だと言うのに本当によくできた子だと瀬凪は感心した。
「桐生のおじさん、ずっとずっと寂しい思いしてきたんだ。お母さんが亡くなってから。狭山お姉ちゃんの事好きになったけど、それでも瀬凪お姉ちゃんの事をずっと気にかけてて……」
「そう、だったのか……」
「でもそれはお姉ちゃんも一緒でしょ?だからおじさんとお姉ちゃんなら上手くいくかなって思ったんだ」
瀬凪が遥に顔を見せる度に幾度となく、好きな人はできたかと質問をしてきたのは、きっとこの為だったのかもしれない。
寂しい思いをしながらも桐生が瀬凪の幸せを願い、瀬凪も同様に寂しい思いをしながら一人過ごしていくくらいなら、二人同時に幸せになって欲しいというのが遥の望みだ。
「遥、教えてくれてありがとう。だから礼に、私からも一つ教えてあげよう」
「うん、なに?」
瀬凪は遥の目の前でしゃがみこんで視線を合わせる。そして遥の手を優しく握った。
「私も、桐生の幸せをずっと願っていたんだ」
遥かに優しく語りかける瀬凪の目はとても優しく、普段の彼女とは思えないほどににこやかだった。
そんな瀬凪の表情に遥もつられて優しい笑顔を作る。
「じゃあ、両想いだね!瀬凪の結婚式のドレス、きっとすんごく可愛いんだろうなぁ」
「ふ、遥も沢山めかして行かないとな」
遥が先の事をいきなり考えている事に瀬凪は嫌な顔一つせずに話に乗る。
でも本当の所は表向きの結婚はできないだろう。
元とはいえど、四代目の東城会の会長を務めた桐生だ。勢力も僅かな上に、野良で活動を続けていた瀬凪と桐生の結婚、誰が認めようか。
遥にはこんな大人の泥沼な話、聞かせる訳には行かない。瀬凪はこの輝く瞳を壊さないよう気を使いながら遥の話を親身になって聞いてあげた。
気がつけば時刻は午後十時を過ぎていた。
遥は九時半辺りから眠気を訴え、その後寝室に入ってそのまま眠りについてしまった。
ヒマワリで沢山遊んできたのだろう。それに加え瀬凪と長話を続けている間に疲れがどんどん蓄積されてしまったらしい。
瀬凪は遥を寝室まで見送った後にリビングに戻ってソファに沈む。
付けられていたはずのテレビはいつの間にか消されてあり、静寂が部屋中に充満していた。
「遥と随分長話をしていたな」
瀬凪がリビングでくつろいでいる間に風呂を済ませた桐生が彼女の後ろから声をかける。
「あぁ、こんなに沢山話すのは久しぶりだ」
「遥もお前と話すのが久しぶりで喜んでいたな」
桐生はふっと含み笑いを浮かべながら瀬凪の隣に座る。
会話がこれ以上続くことはなく、瀬凪も桐生もただ殺風景な部屋の景色を見ながら沈黙を貫いていた。
お互い話すのは得意じゃない。桐生は元々寡黙でとてもでは無いがシャイな面がある。
瀬凪は桐生との距離感が掴めず、何となくで彼と過ごしていたのが仇となり余計に話を切り出すことが出来ずにいた。
それに洗い物をしている時の遥との会話。桐生には聞こえていなかっただろうが、遥と話した話題のせいで余計に瀬凪は彼とまともに話すことができない。顔を見て話すことも今はできないだろう。
「水口」
「なんだ」
名を呼べばそれに応えるだけ。瀬凪は桐生に視線も向けずに返事をする。
素っ気ない態度をとるのは珍しいことでは無いが、桐生は瀬凪の態度が明らかによそよそしいものに変わっている事に気付いた。
特にこれといって機嫌を損ねるようなことはしていないのに何故こんなにもよそよそしく他人のような態度をとるのか。
「機嫌、悪そうだな」
「いいや。悪くない」
「嘘だな。お前は小さい頃から嘘が下手だ」
既に見透かされている事が瀬凪を余計によそよそしくさせる。それでも桐生は言葉を紡ぐことをやめない。
「俺が何かしたんなら謝る。ただ、なんで怒ってるのか教えて欲しいんだ」
「……嫌だ」
よそよそしくなったと思えば、今度は駄々をこねるように瀬凪は腕を組んでそっぽを向き始めた。
断固として理由を教えてくれない瀬凪に桐生は頭を抱える。
単刀直入に言ってしまえば瀬凪は別に怒ってはいない。どちらかと言うと桐生と同じくシャイな面が出ているだけだ。
遥の話を聞いてから桐生を余計に意識するようになったのが原因だ。
だがそんな事が理由だなんて、シャイな瀬凪が本人に話せる訳が無い。
しかし、彼女の心の底では両想いだと分かった今、腹を割って話すべきではないかと言う葛藤も含まれている。
「頼む、教えてくれ」
「……お前から言え……」
「え?」
瀬凪からの急な指示に桐生は余計に頭を抱えた。彼を振り回しているだけの瀬凪の発言は支離滅裂で誰もが理解に苦しむ。
事情を知らない者が聞けばなおさらだ。
「何を言ったらいいんだ」
「……自分で考えろ」
瀬凪は自分の発言が改めておかしなものだということを痛いくらいに理解し、たった一言、好きだと言うことも出来にい己の不甲斐なさに掌を握り締めた。
やっぱり、このままの関係の方が良いのかもしれない。
元々東城会から慕われている桐生と、極道自体からあまりよく思われていない瀬凪が一緒になるべきでは無い。
桐生は、狭山や他の女性と幸せになるべきだ。
「なんでもない……もう寝る。明日は早いからな」
「……おい、待て」
ソファから立ち上がり遥のいる寝室に足を運ぼうと桐生の前を横切った時、瀬凪の手首を彼がガッシリと掴んだ。
「わかった。お前が俺に何を言って欲しいのかは分からない。だから俺が今言いたいことを言う」
その目は真剣そのものだった。瀬凪の手首を掴む手には力が込められており、頑なに彼女を離さないでいる。
瀬凪は桐生の逞しい手、真剣な瞳、その全てが意識せざるを得なくて、視線を逸らして桐生の手を乱暴に振り払う。
「分かったから離せ……」
寝室に行くことをやめて瀬凪がソファに座り直す。桐生から距離をとっていたはずなのに桐生自身が瀬凪に寄ってきて、二人の距離は一気に縮まった。
「瀬凪、お前と遥が話していたこと、実はもう、聞いていたんだ」
瀬凪の心臓が途端に早鐘を打ち、あまりの速さに鼓動が止まりそうになる。
まさかあの時の会話を聞かれてたとは全く思っていなかったため、瀬凪は同様を隠しきれず手で口元を押さえた。
「瀬凪。長い間、待たせてすまなかった」
桐生は瀬凪の肩にそっと指先で触れてみた。ぴくりと大きく跳ねる瀬凪の体は桐生の大きな掌を受け入れようと必死だ。
心臓は破裂寸前で、瀬凪は未だに桐生を見ることが出来ない。
「こっち、向いてくれないか」
「……嫌だと言ったら」
「頼む」
優しく諭すような、それでいて愛しさの籠っているような声を出せば、瀬凪は逆らえるはずもなく。ゆっくりと体ごと、桐生に視線を向けた。
「瀬凪、好きだ」
その一言は、瀬凪の心の内にずっと隠していた感情を爆発させるには十分な火種だった。
今まで塞き止めていた瀬凪の恋心がなだれ込み、抑えることが出来ない。
「遅すぎだ、馬鹿……」
桐生を好きになって十数年。
瀬凪はようやく、自分の気持ちに素直になり、そして桐生と心を通わせる事ができた。
「お前からは言ってくれないのか?」
「何をだ」
「分かってるくせに」
桐生が口角を片方だけ上げて笑って見せれば、瀬凪はたじろぎながらされる桐生を見つめる。
言わなければならない。今度こそ。
今、言う時なんだ。
「……好きだ、桐生……」
彼女が連ねた言ノ葉は、ありったけの勇気を込めて出た、桐生にとって最高の言葉だった。
Fin.
NEXT
「彼の煙草の味【真島吾朗】」