短編集
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【歪み、微睡み、さよならを告げる】
体が浮遊感に襲われる。
まるでぬるま湯の中に全身が使っているような感覚。
瀬凪はその感覚に違和感を感じながらも浮遊感による居心地の良さに思考回路が緩くなっていく。
何も考えなくていいような空間にいるようだった。
「ぁ、」
そういえば、と瀬凪は瞼を閉じた状態でゆらゆらと揺れる思考回路を巡らせて記憶を辿った。
昨日は訳もわからずただひたすら酒を体に入れていた。あまり酒を口にしないはずなのに昨日は浴びるほど飲んだ。酒の耐性がそこまでなかった瀬凪はすぐに酔いつぶれ、そこからの記憶は無い。
ただこの空間にいるのが心地好くて、記憶を辿るのも面倒くさくなってくる。
何もすることなく時間は過ぎ、十分、二十分
どれくらいの時間がかかったのか瀬凪はもう分からなくなっていた。
瞼を開くのも億劫で、指先一つ動かすことも出来ないくらいの脱力感に見舞われる。
「瀬凪」
浮遊感に身を任せ、のんびりと襲ってきた睡魔に意識を手放そうとした時、波紋を描くように低音の声が瀬凪の鼓膜をくすぐった。
心地のいい低音、聞き覚えのある声。
「誰だっ……け……」
喉からつっかえながら出た言葉は掠れながら先程の低音の声のように波紋を描いて出てくる。
「瀬凪」
もう一度、耳に心地良い低音が瀬凪を呼びかけた。
眠りにつこうとする瀬凪の手助けをするかのように暖かく包み込んでくれる声だ。
ただ、聞き覚えがあるのに、その声が誰のものなのかが思い出せない
今にも考える事を放棄しそうな思考回路が、それだけは思い出せと言わんばかりに眠ることを邪魔をする。
あの声は眠りに落ちるのを許しているのに。
「誰……」
思いつくままに自分の記憶の中の人物をずらりと並べていった。
しかしどんなに考えても、この声の正体が掴めない。
「瀬凪」
瀬凪を呼ぶ声は止まることを知らずに同じトーンで繰り返されていた。
そこで瀬凪は初めて、疑問を浮かべる。
眠りかけていた脳がいきなり稼働し始めた。
何故私を呼んでいる?
どこかに導こうとでもしているのか?
そもそもここは夢か?現実か?
瀬凪が今も尚体験している浮遊感は確かに心地が良く、いつまでもこうしていたいと思わせる。
だが心地の良さと同時に感じていた違和感。
それが今段々と強くなっていくのを瀬凪は頭だけでなく全身で悟った。
その違和感はやがて不快感に変わり、眠りにつこうと思っていた頭が拒否反応を起こしたように急に冴えていく。
瀬凪はここから抜け出そうと瞼を開いた。否、開こうとした。
「な、んだこれ……」
開けなかった。意思とは逆に瀬凪の瞼は開いてくれなかった。
体も思うように動かない。どれだけ体を捩ろうともピクリとも瀬凪は体を動かすことが出来ない。
不快感はすぐに恐怖に変わった。
今すぐここから脱したい。
焦れば焦るほど瀬凪の体は雁字搦めになっ手身動きが取れなくなる。
いつしか心地よかった浮遊感今は重たく、気持ちの悪い何かが手足にまとわりついているような不快感だけが瀬凪を支配していった。
「動けっ、動け動け動けっ……!」
唯一自由な喉で必死に動けと叫びながら暴れ回る。早くここから抜け出さなければ、何か良からぬ事が起こりそうな気がしてならなかった。
暴れれば暴れるほど絡みつく何か。開きたくても縫い付けられたように開かない瞼。
体と視覚の自由を奪われただけでこれほどまでに恐怖を覚えるなんて、幾多もの屈強なヤクザを前にしても怖気ずくことの無かった怖いもの知らずの瀬凪でさえ、この状況が怖くて仕方なかった。
夢と現実が混沌しているような空間で何かに捕らえられてからどれほどの時間が経っただろう。
体力は限界を迎え、瀬凪はまともに動く事さえも出来なくなってしまっていた。
そこに漬け込むかのように、瀬凪を捉えていた何かが優しく彼女を包み込む。
心地の良い感覚が舞い戻ってきて、瀬凪の脳内を洗脳するかのように入り込んでくる。
このままでもいいのかもしれない。
無謀なことをして疲れるよりも、このまま気持ちのいい時間を永遠に過ごすのも悪くは無い。瀬凪は諦めてそう思うようにした。
何もしなければただ居心地の良い湯船のような場所なのだから。
「瀬凪……」
「うるさい……」
「瀬凪……っ、」
「……」
未だに聞こえてくる声。
もうこのままで良いから、声が無くたって眠れるから、
瀬凪はその声が段々耳障りに思えてきて、眉間に皺を寄せた。
すると声はぱったりと止んだ。
これでぐっすり眠れる、瀬凪が眉間の力を抜いて、改めて思考を沈めようとする。
「瀬凪……頼む……目を覚ましてくれ……っ」
最後に一言、瀬凪を呼ぶ声と共に悲しむような声が今までで一番深く、波紋を広げて聞こえてきた。
「……あ、」
途端に瀬凪の脳内に流れ込んでくる沢山の記憶。
一つだけすっかり抜けてしまった記憶が今パズルのピースのように順番に当てはまっていく。
「桐生……」
その時、瀬凪の瞼はなんの予告もなく開いた。
濃い消毒液の匂い。一定の機械音が右側から聞こえてくる。
瞼が開いている感覚はあるが、視界は真っ白で眩しく何も見えやしない。瀬凪は数回ほど、瞬きを繰り返してみた。
瞬きをすればするほど視界は良好になり、真っ白だった色も徐々に彩りを戻していく。
「瀬凪……!」
右側から聞こえてくる機械音と共に、あの時の優しい低音の声が鼓膜を揺らした。
「桐生……か?」
隣にいたのは今にも泣きそうな顔で、ただでさえ普段から眉間に皺を寄せているのに、更に深い皺を作って瀬凪を見つめる桐生だった。
瀬凪の右手には骨ばった大きな桐生の手が握られている。
「ここ、は」
「総合病院だ。お前は昨日、交通事故にあったんだ」
消毒液の匂いと無骨な機械音は病院のものだったのかと瀬凪は朧気な頭で気付く。
あの浮遊感に見舞われた空間はどうやら夢だったようだ。
「夢を見ていた」
事故に遭って、意識不明で、夢を見て目覚める。
どこの作品にもありそうなシチュエーションとセリフに最初は鼻で笑っていた瀬凪も、まさかこのセリフを自分で言うことがあるとは思ってもみなかった。
夢を見た事を桐生に伝えれば、彼は心配そうな目をしながらも安堵のため息を着いて瀬凪の手を強く握り直す。
「お前の声を聞いた」
「……そうか、さっきまで俺もずっとお前に呼びかけていた」
「そうか……」
桐生の声は夢であって夢じゃなかったのかもしれない。現実で起こったことは夢にも影響されるとはよく言われている。
ただ桐生は必死に呼び戻そうとしてくれていたのに、瀬凪はその声を無視して夢の中に留まろうとしていた。
一歩間違えたら最悪な一途を辿っていたのかもしれない。桐生の強い呼び掛けが功を奏したようだ。
「由美がいなくなって、錦もいなくなって、風間の親っさんもいなくなって、お前までいなくなっちまったら……おれは……」
桐生が俯いて、弱々しく寂しそうな声で呟く。三十代後半の大の男がここまで精神を削っているのは、桐生が今まで壮絶な人生を送ってきたせいなのは明確だった。
「生きてるだろう。今こうして」
「……あぁ、そう、だよな……」
瀬凪は素っ気なくも、照れくさいような、安心させるような口調と表情で桐生に語り掛けた。
だが桐生はどことなく言葉につまりながら寂しそうな顔を無理矢理笑顔にさせて頷いている。
特に気にする必要も無いと思った瀬凪は天井を見て昨日のことを思い返した。
酒を浴びるほど飲んで、それから桐生としょうもない口喧嘩をした。
アルコールが入っていることもあってか正常な思考が出来ず苛立ちが最高潮に達した瀬凪はそして店から飛び出して、そこからの記憶は現実に戻ってもやはり無い。
恐らく店から飛び出してすぐに事故に遭ったのだろう。
「桐生、あの時はすまなかった」
本当に桐生には申し訳ない事をしてしまったと瀬凪は目を伏せる。
「気にするな。お前が謝る必要なんてねぇんだ。お前が、生きていてくれるなら。そんなの……」
桐生の隣に立つのは由美でもなく錦山でも無く、風間でも無く、瀬凪だ。
残された者たちに課せられた
「俺を置いていくな」
「こっちのセリフだ」
瀬凪が死んでも、桐生が死んでも、双方に明るい未来はない。
ましてや、桐生と瀬凪の元にはまだまだ幼い遥という少女がいる。遥のためにも二人は這いつくばってでも生きなければならない。
遥のために。そして、互いの均衡を保つ為に。
「瀬凪」
「ん、」
桐生が呼びかけると、瀬凪はすぐに理解して両腕を軽くあげた。桐生はその腕を取って己の首元に絡ませると何も言わずにそっと抱き合った。
瀬凪と桐生の間には、恋や愛なんてものでは収まりきらないほどのもっと深く、暗く、依存に似た感情がある。
二度と離れはしない。離しはしない。
強く固執すればするほど、二人の泥沼の感情は深く根を張る。
「瀬凪、好きだ」
「あぁ、私も」
桐生は言葉に表せない想いを無理矢理言葉で収め、口頭に乗せて伝えた。
そしてその言葉はしっかりと瀬凪の耳を通って脳内で分解され、歪んだ大きな愛へと変換されていく。
「私も、好きだ……」
桐生の首に顔を埋めて、瀬凪は愛おしそうに彼の広い背中に腕を回した。
消毒液の匂いや無機質な機械音は消え、桐生の腕の中で瀬凪は再び睡魔に襲われる。
夢の中と同じ、ぬるま湯の中に使っているような心地よい浮遊感。
段々と桐生の体温が上がっていく。自分の体温を彼に吸い取られているかのように桐生の体は熱くなる。
すると桐生の心臓が一つ大きく高鳴り、鼓動が早まると共に瀬凪の体を一層強く抱きしめた。
「……瀬凪……」
「ん……」
睡魔に打ち勝つことが出来ず、あっという間に微睡みに飲み込まれていく。瀬凪は油断すればすぐにでも眠りに着いてしまいそうだった。
「寝るのか……?」
「もう少しだけ、眠らせてくれ……」
瀬凪のか細い声に桐生は短く返事をして小さく華奢な背中を撫でる。
「おやすみ……瀬凪……」
震える声でそう言った桐生の言葉を最後に聞いて、瀬凪は重たい瞼をゆっくりと、閉じた。
落ちる意識の遠くで、無機質な機械音と愛しく優しい低音が咽び泣く声が、聞こえた。
【歪み、微睡み、さよならを告げる】
END
NEXT
「言ノ葉【桐生一馬】」
1/6ページ