陸話「静かな絶望」

次に目を覚ました時、そこは見慣れた自室の、座り心地の悪いソファの上だった。 視界がぐわんぐわんと揺れる。後頭部の鈍い痛みは残っているが、不思議と体は動いた。

「お前が目を離すからだ」 窓際に立つ白髪の男――シロヤが、冷徹な声で弟を突き放していた。
「わーかってるって、シロ! でもさ、あいつのストレス、どんだけ溜まってたんだよ。数珠があんな一瞬で弾け飛ぶなんて、俺だって計算外だっての」

クロトがソファの背もたれに肘をかけ、呆れたように俺を見ている。

「……チッ。いいか、クロ。次はないぞ。素材を壊しては元も子もない」

二人の会話を横目に、俺はふらつく足取りで浴室の方を覗き込み、絶句した。タイルは粉々に砕け、壁に埋め込まれていた給湯器は、まるで内側から爆発したかのように外壁ごとひしゃげている。
(……なんてことだ。修理代、いくらかかる? 俺の貯金じゃ、到底……)
あまりの絶望に、二人に声をかけようとした、その時だった。

ドンドンドンドン!!
「田中さん! 田中さん、いらっしゃるんでしょ!」

心臓が跳ね上がるような、激しい扉の叩き方だった。聞き間違えるはずもない、大家の声だ。

「……あ、はい。今、開けます……」

俺は恐怖と焦りで震える手で、玄関の鍵を開けた。

「ちょっと田中さん! さっきの音、一体何事ですか! 下の階の人から天井が抜けるような音がしたって苦情が来てるのよ!」

扉を開けるなり、顔を真っ赤にした大家が怒鳴り込んできた。

「申し訳ありません、その、不注意で転んでしまって……」
「転んだ? 転んであんな音がするわけないでしょ! それにその肩の汚れ、血じゃないの!? あなた、この部屋で一体何をしてるのよ!」
「違います、これは事故で……」

言い訳をしようとしたが、大家の視線は俺の肩越し、部屋の奥にいるシロヤとクロトを捉えた。
「……何よ、その人たちは。柄の悪い友達まで連れ込んで。もう限界だわ。田中さん、あなたには悪いけど、今日中に退去してください」

「え……? 退去って、そんな、急に言われても行く宛なんて……」
「修繕費は敷金じゃ足りないでしょうから、後でたっぷり請求させてもらうわよ。とにかく、今すぐ出ていって! これ以上、このアパートの評判を落とされたら堪ったもんじゃないわ!」
「待ってください! 大家さん、話し合えば……!」

必死に縋り付こうとした俺の手は、大家に冷たく振り払われた。 目の前でピシャリとドアを閉められ、俺は玄関先で呆然と立ち尽くした。仕事も、平穏も、ついに住む場所さえも失った。俺の人生は、どこまで堕ちれば気が済むんだ。

膝から崩れ落ちそうになった俺の、左右からスッと腕が回された。 クロトが右肩に、シロヤが左肩に。 逃げ場を完全に塞ぐように、二人は獲物を追い詰めた肉食獣のような笑みを浮かべ、俺の耳元で交互に囁く。

「……へぇ。退去、ねぇ。ちょうど良かったじゃん?」 クロトの楽しげな声が響く。

「決まりだな、一。宿代くらいは、お前のその『血』で払わせてやる。感謝しろよ、家なき子」 シロヤの冷酷な宣告。

シロヤが懐から取り出したのは、鈍い光を放つ、金属製の重厚なバングルだった。

「ま、仲良くしようぜ。殺しはしないから安心しろよ」

俺の不幸を糧にする、シロヤとクロト。 田中一という俺の静かな絶望は、さらなる非日常へ変わっていく。
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