伍話「束の間の幸福が招いた、最悪の決壊」

周囲の冷ややかな空気、上司の理不尽な言葉、そして昨夜の化け物の恐怖。それらが逃げ場を失い、俺の体内で圧縮されていく。左手首の数珠が、かすかに熱を帯びているような気がした。

だが、その平穏は長くは続かなかった。 夕方、社内での理不尽な叱責によるストレスが限界に達した瞬間。

ピキリ。

耳元で、乾いた小さな音が響いたような気がした。 「……ん?」 左の手首に違和感を覚え、袖をまくって数珠を確かめる。だが、薄暗いオフィスの中では特に変わった様子は見えない。 (……気のせいか。疲れすぎて耳鳴りがしたんだろう)

その後も、奇妙なほど仕事はスムーズに進んだ。いつもなら最終バスを逃して途方に暮れる時間だが、今日は時計の針が魔法のように味方をしてくれる。駅に駆け込めば、目の前で閉まりかけたドアが、まるで俺を待っていたかのように再開した。

ガタゴトと揺れる終電の窓に、疲れ切った自分の顔が映る。 (……今日は、ついているな) こんな日は人生で一度もなかった。いつもなら泥水を啜るような一日が、今日は透明な水のようだった。 「……あいつらのおかげ、なのか」 俺は左手首の数珠を見つめた。あの不遜な双子、シロヤとクロト。彼らが「重石」だと言ったこの数珠が、俺を呪われた不幸から切り離してくれている。そう思うと、自然と口角が上がった。

ふと、数珠の粒の一つに目が止まる。 「……少し、汚れてるな」 朝、手渡された時はもっと艶のない乾いた黒だったはずだ。今は、泥を塗りつけたような、あるいは煤(すす)がこびりついたような、ねっとりとした濁りが表面に浮き出ている。 指で拭ってみたが、汚れは落ちない。 (……まあ、一日中動いていたんだ。埃でも被ったんだろう。気のせいだ)

俺はそれ以上深く考えるのをやめた。ようやく手に入れた「普通の一日」を台無しにしたくなかった。 終電を降り、街灯の少ない夜道を歩く。いつもならひったくりに遭うか、野良犬に吠えられる道だが、今夜は静かなものだ。俺は鼻歌まじりに、自分のボロアパートへと足を進めた。


ようやく手に入れた「普通の一日」を台無しにしたくなかった。 終電を降り、街灯の少ない夜道を歩く。いつもならひったくりに遭うか、野良犬に吠えられる道だが、今夜は静かなものだ。俺は軽い足取りで、自分のボロアパートへと足を進めた。

「ふぅ……。疲れた」 狭い玄関で靴を脱ぎ捨て、スーツのジャケットを放り出す。 今日は、奇跡のように何事もなかった。仕事も、人間関係も、帰り道も。 「……あいつら、意外といい奴らだったのかもな」 独り言をこぼしながら、俺は浴室へと向かった。

湿気とカビの臭いが漂うユニットバス。仕事の疲れと、昨夜の脂汗が肌に張り付いている。 「早く、さっぱりしたい……」 俺は無意識に、いつもの帰宅後のルーティンをなぞり始めた。 シャツを脱ぎ、ベルトを外し、下着を脱ぎ捨てる。そして、いつもの癖で、左手首に巻かれた「異物」に指をかけた。

シロヤの**「絶対に外すな」という警告も、クロトの「一歩外に出るだけで食い殺される」**という脅しも、湯気の向こう側に霞んで消えていた。 今の俺は、ただの「日常」に飢えていたんだ。

数珠を左手首から抜き取った。 それを棚の隅に無造作に置き、いつも通りシャワーを浴びる、今まで味わったことのない今日の平和な日常に鼻歌を歌いながら頭を洗っていると湯は氷のような水に変わった。「つ、冷たっ……!」 心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、俺は思わず飛び退こうとした。だが、そこには無造作にこぼれていた石鹸の泡があった。

「――あ」 抗う間もなかった。視界がぐにゃりと歪み、俺の体は制御を失って宙に浮いた。 ゴンッ!! 後頭部をタイルの角に強く打ち付け、目の前で強烈な火花が散る。

「……が、はっ……」 肺の中の空気がすべて押し出され、呼吸が止まる。手足が痺れ、指一本動かすことができない。仰向けに倒れた俺の視界に映るのは、ひび割れた天井と、不気味に明滅を繰り返す電球だ。

必死に体に力を込めるが、麻痺したかのように反応しない。 すると、静まり返った浴室に、ピチャッ……という濡れた音が響き始めた。 最初は聞き間違いだと思った。

だが、音は一つではない。排水溝の奥から、タイルのひび割れた隙間から、何かが這いずり回るような、湿った不快な音がじわじわと距離を詰めてくる。

(……なにかが…いる…)

湯気で白く濁っていた視界が、急激にどす黒く染まっていく。壁のシミが生き物のように蠢き、そこから泥のような「影」が染み出し始めた。 それは形を持たない悪意の塊だった。俺が今日一日、数珠のおかげで回避し、心の奥底に溜め込んできた「負の感情」と、俺自身の「不幸体質」が混ざり合い、この狭い浴室に化け物を呼び寄せてしまったのだ。

影は、獲物を見つけた爬虫類のように、音もなく床を這って俺の足元へたどり着く。 冷たい。氷よりも冷たい感触が、動けない俺の足首に絡みついた。それはじりじりと、俺の肌を品定めするように舐め回しながら、ゆっくりと這い上がってくる。

俺はただ、恐怖に震えながらそれを見守るしかなかった。 数珠という防波堤を自ら壊した俺を、闇が飲み込もうとしている。 死ぬ。今度こそ、本当に。

そう確信し、絶望に目を閉じようとした時――。 浴室のドアが蹴破られた。

水飛沫と闇を切り裂いて、聞き覚えのある軽薄な声が響く。

「まじかよ。無様すぎて笑えねぇんだよ。……言っただろ? 『絶対外すな』って。シロの言うこと聞かねーからこうなるんだよ、一」

彼はひび割れた数珠を指先でつまみ上げると、「もう使い物にならねぇ」と吐き捨て、着ていたジャケットを俺の顔に放り投げた。視界が闇に落ちた瞬間、浴室に化け物たちの絶叫が響き渡り、俺は深い意識の底へと沈んでいった。
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