肆話「約束」
翌朝。
けたたましく鳴り響くスマートフォンのアラーム音で、俺は跳ね起きた。
「……っ、痛たたた……!」
急に動いたせいで、焼酎をぶっかけられた右肩に激痛が走り、視界がちかちかと明滅する。
ぼやける視界の先、座卓の横ではクロトが派手なTシャツの裾をまくり上げ、腹を丸出しにして「かーっ」と間の抜けた寝息を立てていた。その傍ら、部屋の隅でシロヤが口に歯ブラシを咥えたまま、虚空を見つめて立っていた。
鏡を見ているわけでもない。ただ無機質な壁に向かって、淡々と手を動かしている。その立ち姿は、朝の光の中でもどこか現実味を欠いていた。
「……んぐ、……どこへ行くんだ」
歯磨き粉の泡が混じった、不明瞭で、それでいてひどく冷ややかな声が飛んでくる。こちらを見向きもしない、事務的な問いかけだ。
「どこって……会社ですよ!このままじゃまた遅刻する!」
俺は慌てて、畳の上に散乱していた安物のビジネスバッグと、汚れの目立つジャケットをひっつかんだ。
「昨日だって、あんな化け物に襲われてる間に無断で早退したようなもんなんだ。これ以上評価を下げたら、本当に居場所がなくなる……」
ネクタイを締めようとするが、右肩の痛みのせいで指先がうまく動かない。焦れば焦るほど結び目は歪み、苛立ちが募る。だがシロヤは助ける素振りも見せず、口から歯ブラシを抜くと、傍らのバケツに泡を吐き出し、冷めた目線をこちらへ流した。
「……評価、か。死にかけた翌朝に、随分と殊勝なことだ。田中一」
シロヤは濡れた口元を手の甲で拭い、俺の喉元を指差した。
「いいか。その数珠は『エサ』としての鮮度を保つための重石だ。外せば、昨日以上の地獄が来る。……仕事とかいう下らない理由で、俺たちの手を煩わせるな」
「わ、分かってる……!」 俺は歪んだネクタイのまま、ガタつく引き戸をこじ開けた。
「おう、一(はじめ)……もう行くのかよ。景気良く不幸貯めてこいよ……」
背後で、ようやく目を覚ましたクロトが、腹をボリボリと掻きながら手を振るのが見えた。
数珠のおかげなのか、俺の日常は驚くほど「普通」になった。 いつもなら赤信号に捕まるはずの交差点を一度も止まらずに渡り、満員電車では目の前の席が空く。駅の階段で誰かにぶつかることも、カバンをドアに挟まれることもない。
「……本当に、何も起きない」
あまりの順調さに、逆に足元がふわふわと浮いているような錯覚に陥りながら、俺は一度も足止めを食らうことなく会社に滑り込んだ。
だが、運命が俺に優しくなったわけではなかった。
「田中! 昨日勝手に帰りやがって、この報告書はどうなってるんだ!」
デスクに着くや否や、上司の怒号が飛んできた。昨日、化け物に襲われていた間の「空白の時間」が、この会社ではただの不始末として処理されている。
「申し訳ありません、体調を崩しまして……」
「言い訳はいらん! お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ。今日中にこれ、全部やっとけ!」
山積みにされた書類がデスクに叩きつけられる。周囲の同僚たちは、同情の視線すら向けない。それどころか、いつもなら俺に回ってくるはずの細かなミスやトラブルが、今日はなぜか面白いように回避されていた。
コーヒーをこぼしそうになっても机の端で止まり、システムエラーの直前に保存が間に合う。不自然なほど「物理的な不運」から守られている。だが、その代わりに俺の心には、逃げ場のない黒い澱(おり)が溜まっていくのが分かった。
(……なんで俺だけが、こんな目に遭わなきゃならないんだ)
周囲の冷ややかな空気、上司の理不尽な言葉、そして昨夜の化け物の恐怖。それらが逃げ場を失い、俺の体内で圧縮されていく。左手首の数珠が、かすかに熱を帯びているような気がした。
だが、その平穏は長くは続かなかった。 夕方、社内での理不尽な叱責によるストレスが限界に達した瞬間。
ピキリ。
耳元で、乾いた小さな音が響いたような気がした。
けたたましく鳴り響くスマートフォンのアラーム音で、俺は跳ね起きた。
「……っ、痛たたた……!」
急に動いたせいで、焼酎をぶっかけられた右肩に激痛が走り、視界がちかちかと明滅する。
ぼやける視界の先、座卓の横ではクロトが派手なTシャツの裾をまくり上げ、腹を丸出しにして「かーっ」と間の抜けた寝息を立てていた。その傍ら、部屋の隅でシロヤが口に歯ブラシを咥えたまま、虚空を見つめて立っていた。
鏡を見ているわけでもない。ただ無機質な壁に向かって、淡々と手を動かしている。その立ち姿は、朝の光の中でもどこか現実味を欠いていた。
「……んぐ、……どこへ行くんだ」
歯磨き粉の泡が混じった、不明瞭で、それでいてひどく冷ややかな声が飛んでくる。こちらを見向きもしない、事務的な問いかけだ。
「どこって……会社ですよ!このままじゃまた遅刻する!」
俺は慌てて、畳の上に散乱していた安物のビジネスバッグと、汚れの目立つジャケットをひっつかんだ。
「昨日だって、あんな化け物に襲われてる間に無断で早退したようなもんなんだ。これ以上評価を下げたら、本当に居場所がなくなる……」
ネクタイを締めようとするが、右肩の痛みのせいで指先がうまく動かない。焦れば焦るほど結び目は歪み、苛立ちが募る。だがシロヤは助ける素振りも見せず、口から歯ブラシを抜くと、傍らのバケツに泡を吐き出し、冷めた目線をこちらへ流した。
「……評価、か。死にかけた翌朝に、随分と殊勝なことだ。田中一」
シロヤは濡れた口元を手の甲で拭い、俺の喉元を指差した。
「いいか。その数珠は『エサ』としての鮮度を保つための重石だ。外せば、昨日以上の地獄が来る。……仕事とかいう下らない理由で、俺たちの手を煩わせるな」
「わ、分かってる……!」 俺は歪んだネクタイのまま、ガタつく引き戸をこじ開けた。
「おう、一(はじめ)……もう行くのかよ。景気良く不幸貯めてこいよ……」
背後で、ようやく目を覚ましたクロトが、腹をボリボリと掻きながら手を振るのが見えた。
数珠のおかげなのか、俺の日常は驚くほど「普通」になった。 いつもなら赤信号に捕まるはずの交差点を一度も止まらずに渡り、満員電車では目の前の席が空く。駅の階段で誰かにぶつかることも、カバンをドアに挟まれることもない。
「……本当に、何も起きない」
あまりの順調さに、逆に足元がふわふわと浮いているような錯覚に陥りながら、俺は一度も足止めを食らうことなく会社に滑り込んだ。
だが、運命が俺に優しくなったわけではなかった。
「田中! 昨日勝手に帰りやがって、この報告書はどうなってるんだ!」
デスクに着くや否や、上司の怒号が飛んできた。昨日、化け物に襲われていた間の「空白の時間」が、この会社ではただの不始末として処理されている。
「申し訳ありません、体調を崩しまして……」
「言い訳はいらん! お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ。今日中にこれ、全部やっとけ!」
山積みにされた書類がデスクに叩きつけられる。周囲の同僚たちは、同情の視線すら向けない。それどころか、いつもなら俺に回ってくるはずの細かなミスやトラブルが、今日はなぜか面白いように回避されていた。
コーヒーをこぼしそうになっても机の端で止まり、システムエラーの直前に保存が間に合う。不自然なほど「物理的な不運」から守られている。だが、その代わりに俺の心には、逃げ場のない黒い澱(おり)が溜まっていくのが分かった。
(……なんで俺だけが、こんな目に遭わなきゃならないんだ)
周囲の冷ややかな空気、上司の理不尽な言葉、そして昨夜の化け物の恐怖。それらが逃げ場を失い、俺の体内で圧縮されていく。左手首の数珠が、かすかに熱を帯びているような気がした。
だが、その平穏は長くは続かなかった。 夕方、社内での理不尽な叱責によるストレスが限界に達した瞬間。
ピキリ。
耳元で、乾いた小さな音が響いたような気がした。
