壱話「不運な男」
「ついていない」という言葉では、俺の人生を到底説明しきれない。 田中一(たなか はじめ)。この平凡な名前を授かった時から、俺の運命の歯車は錆びつき、不快な音を立てて逆回転を続けていた。父は法外な借金を遺して蒸発し、母はその重圧から逃れるように海外へ。残されたのは、俺の背丈を優に超える「負債」という名の不良債権と、何をしても裏目に出る呪われたような体質だけだった。
ブラック企業での14時間労働を終え、深夜のオフィス街をふらついていた時のことだ。街灯は不吉に瞬き、俺の足元を頼りなく照らしていた。 「……はぁ」 吐き出した溜息さえ、湿った重い空気に溶けて消えていく。そんな折だった。道端に、一輪の折れた花のようにうずくまる女性を見つけたのは。
「あの、大丈夫ですか。お怪我でも?」 声をかけると、彼女がゆっくりと顔を上げた。濡れた睫毛、震える唇。俺の理想をそのまま形にしたような、儚くも美しい女性だった。彼女は怪我をした足首を細い指で押さえ、消え入るような声で「……助けてください」と呟いた。
その瞬間、俺の中にあったわずかな善意……あるいは、自分より不幸な存在を救うことで自己を肯定したいという、サラリーマン特有の傲慢な同情心が頭をもたげた。
「立てそうですか? 無理はしないほうがいい」
「すみません……。急に足に力が入らなくなってしまって。この先のマンションまで行ければ、大丈夫なんですけど……」
彼女は、縋るような視線を俺に向けてくる。タクシーを呼ぼうかと提案しかけたが、彼女の華奢な肩が小刻みに震えているのを見て、言葉を飲み込んだ。深夜の路上に、こんな美しい女性を一人残していくわけにはいかない。
「……分かりました。お送りしますよ。歩くのが辛いなら、背負っていきます」
「えっ、でも、そんな。申し訳ないです……」
「いいんですよ。これでも一応、体力だけはあるサラリーマンですから」
俺は自嘲気味に笑い、彼女の前に背中を向けた。
「さあ、遠慮なく。捕まってください」
「……ありがとうございます。本当に、お優しいんですね」
背中に、柔らかくもどこか冷ややかな感触が伝わってくる。彼女の細い腕が俺の首に回され、俺は彼女を背負った。
だが、目的地だというマンションへの道中、背中から伝わる体温が、急激に氷のような冷たさに変わった。
「貴方はとても、素敵ですね。とても騙しやすそうで……そして、何より美味しそうだ」
耳元で囁かれたのは、愛の告白ではなく捕食者の宣告だった。
ブラック企業での14時間労働を終え、深夜のオフィス街をふらついていた時のことだ。街灯は不吉に瞬き、俺の足元を頼りなく照らしていた。 「……はぁ」 吐き出した溜息さえ、湿った重い空気に溶けて消えていく。そんな折だった。道端に、一輪の折れた花のようにうずくまる女性を見つけたのは。
「あの、大丈夫ですか。お怪我でも?」 声をかけると、彼女がゆっくりと顔を上げた。濡れた睫毛、震える唇。俺の理想をそのまま形にしたような、儚くも美しい女性だった。彼女は怪我をした足首を細い指で押さえ、消え入るような声で「……助けてください」と呟いた。
その瞬間、俺の中にあったわずかな善意……あるいは、自分より不幸な存在を救うことで自己を肯定したいという、サラリーマン特有の傲慢な同情心が頭をもたげた。
「立てそうですか? 無理はしないほうがいい」
「すみません……。急に足に力が入らなくなってしまって。この先のマンションまで行ければ、大丈夫なんですけど……」
彼女は、縋るような視線を俺に向けてくる。タクシーを呼ぼうかと提案しかけたが、彼女の華奢な肩が小刻みに震えているのを見て、言葉を飲み込んだ。深夜の路上に、こんな美しい女性を一人残していくわけにはいかない。
「……分かりました。お送りしますよ。歩くのが辛いなら、背負っていきます」
「えっ、でも、そんな。申し訳ないです……」
「いいんですよ。これでも一応、体力だけはあるサラリーマンですから」
俺は自嘲気味に笑い、彼女の前に背中を向けた。
「さあ、遠慮なく。捕まってください」
「……ありがとうございます。本当に、お優しいんですね」
背中に、柔らかくもどこか冷ややかな感触が伝わってくる。彼女の細い腕が俺の首に回され、俺は彼女を背負った。
だが、目的地だというマンションへの道中、背中から伝わる体温が、急激に氷のような冷たさに変わった。
「貴方はとても、素敵ですね。とても騙しやすそうで……そして、何より美味しそうだ」
耳元で囁かれたのは、愛の告白ではなく捕食者の宣告だった。
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