徒花心中「あだばなしんじゅう」

「またあんな汚らわしい生き物と戯れていたのか、宵丸(よいまる)」

冷ややかな声が、夜の静寂を切り裂いた。 社の石段の上に腰を下ろし、顎を手に乗せて退屈そうに眼下を眺めるのは、白銀の髪を持つ鬼、白骸(はくがい)。その青い角は、氷細工のように冷たく、美しく、そしてどこか残酷な光を宿している。

石段の下、影の中から現れたのは褐色の肌を持つ大柄な鬼だった。彼は首に巻いた太い注連縄を揺らし、白い牙を覗かせて豪快に笑う。

「そう言うな、白。あいつらの作る酒は、お前が愛でる月光よりもずっと温かみがあるぞ」

宵丸が額の布をずらすと、そこには力強い「三つ目」が鎮座していた。その瞳は、彼が愛してやまない人間の営みを、慈しむように見つめてきたものだ。

「温かみ? 愚かな。あやつらは弱く、脆く、そして何より嘘をつく。我ら長生の者にとって、一瞬の火花のような存在に心を寄せて何になる」

白骸は、近づいてきた宵丸を忌々しげに見上げる。だが、その瞳の奥には、拒絶とは裏腹の、どうしようもない執着が滲んでいた。

「その一瞬が眩いから、俺は好きなのさ。お前も、そんなに俺を睨む暇があるなら、一度村の祭りにでも来ればいい。美味い飯と、賑やかな囃子が、その凝り固まった心を解いてくれる」

「断る。反吐が出る」

宵丸は、拒絶の言葉を気にする様子もなく、隣にどっかと腰を下ろした。二人の距離が縮まる。白骸は、彼から漂う微かな酒の香りと、人間の情に触れてきたばかりの「熱」を感じて、無意識に身を強張らせた。

「……お前は、いつか傷つく。あやつらはすぐに死ぬ。残されるお前の孤独を、私は見たくないのだ」

ぽつりと、本音が漏れた。人間が嫌いなのではない。人間によって、この唯一無二の同胞が変質し、いつか失われることが、白骸は何よりも恐ろしいのだ。

宵丸は、三つの目を細めて笑った。大きな手が、白骸の冷たい頬を包み込む。

「なら、お前が俺を繋ぎ止めておけ。人間が死に絶えても、俺が隣にいるように、お前が俺を愛していればいい」

「……傲慢な男だ」

白骸は目を伏せながらも、その温かな掌に顔を寄せた。 人間を愛する宵丸と、それを愛するがゆえに人間を憎む白骸。 月夜の社で、交わらないはずの二つの視線が、熱い吐息と共に重なり合った。

「ほら、そう顔を顰めるな。角さえ隠せば、お前もただの色の白い色男だ」

宵丸は笑いながら、手際よく布を白骸の頭に巻きつけた。自らも額の目を隠し、大きな角を笠の下に潜ませる。 連れてこられたのは、収穫を祝う祭りで賑わう村だった。提灯の明かりが川面に揺れ、美味そうな焼き菓子の匂いが立ち込めている。

「……やはり気が進まぬ。騒がしいし、何よりこの群衆の放つ『欲』の臭いが鼻につく」

毒づきながらも、白骸は隣を歩く男の横顔を見て、わずかに毒気を抜かれた。宵丸は、まるでおもちゃ箱をひっくり返した子供のように目を輝かせ、露店を眺めている。その楽しげな様子を見ていると、「人間も、これほどにこの男を喜ばせるのなら、存在価値が微塵もないわけではないか」と、凍てついた心が少しだけ緩むのを白骸は感じていた。

だが、その平穏は一瞬で崩れ去る。

「このガキ! また盗みやがったな!」

怒声が響いた。見れば、一人の痩せこけた少年が大人に組み伏せられ、何度も拳で殴りつけられていた。手からこぼれ落ちたのは、古びた財布だ。

「やめて、ごめんなさい……っ!」 「謝って済むか! 汚らわしい泥棒め!」

白骸の脳裏に、かつて自分が人間に受けた仕打ちがフラッシュバックする。助けるつもりなどなかった。だが、その少年の絶望に満ちた瞳が、隣で笑っていた宵丸の純粋さと重なり――無意識に身体が動いていた。

「……そこまでにしろ」

白骸が男の手首を掴む。人間離れした膂力に、男が悲鳴を上げた。少年を庇い、突き飛ばすようにして助け出したその拍子だった。

激しい動きに、頭を覆っていた布がはらりと地面に落ちた。 闇夜に、冷たく輝く青い角が露わになる。

「ひっ……お、鬼だ! 鬼が出たぞ!」

先ほどまで少年を殴っていた男が、腰を抜かしながら叫んだ。一瞬で周囲の空気が凍りつく。助けられたはずの少年が、恐怖に顔を歪めて後ずさる。駆け寄ってきた母親は、我が子を抱き寄せると、感謝の言葉ではなく呪詛を吐き散らした。

「化け物! 私の子に触るな! 穢らわしい!」

彼女が拾い上げた石を、白骸の胸に投げつけた。それを合図にしたかのように、周囲を取り囲んでいた村人たちが一斉に地面の石を拾い、口々に罵声を浴びせながら投げつけ始めた。

「失せろ、人食いめ!」 「村から出て行け!」

無数の石が飛来する。白骸は、あまりの理不尽さに呆然と立ち尽くしていた。人間を、ほんの少しでも認めようとした自分への怒りと、底なしの憎悪が腹の底から煮えくり返る。

「……殺してやる。どいつもこいつも、細切れにして……!」

彼が理性を失い、爪を立てて跳躍しようとしたその時。

「よせ……っ!!」

太い腕が、背後から彼を強く抱きしめた。 直後、ゴンッという鈍い音が響く。 白骸が目を見開いて振り向くと、自分を庇うように覆いかぶさった宵丸の額から、鮮血が滴り落ちていた。石が、彼の大切な友の頭を直撃したのだ。

「お前……! なぜ……!?」 「いいから……行くぞ、早く……っ! 白!」

宵丸は、血で片目を濡らしながらも、悲しげに微笑んだ。その瞳には、人間への怒りよりも、同胞を巻き込んでしまった後悔だけが宿っていた。

逆上して村を血の海に変えようとする白骸の手を、宵丸は傷ついた身体で必死に引きずる。石の雨の中、二人は逃げるように暗い森へと駆け込んだ。

背後からは、いつまでも人間たちの勝利を確信したような罵声と、忌まわしい祭りの囃子が響き続けていた。


深い森の奥、月の光さえ届かない洞穴の影で、二人の鬼は荒い息を吐いていた。 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った森の中で、滴り落ちる血の音だけがやけに大きく響く。

「……動くなと言っているだろう。傷が広がる」

白骸の声は、怒りと悲しみで微かに震えていた。 彼は清らかな湧き水で濡らした布を使い、宵丸の褐色の肌にこびりついた血を拭い去っていく。石が当たったこめかみからは、いまだにどくどくと赤い命が溢れていた。

「あはは、そんなに怖い顔をするな、白。お前に手当てしてもらえるなら、怪我をした甲斐もあったというものだ」

宵丸は力なく笑うが、その顔は青ざめている。白骸は、その言葉を遮るように、わざと強く傷口を抑えた。

「黙れ! ……なぜだ、宵丸。なぜ、あのような連中を庇った。お前が愛した人間たちは、お前に石を投げ、血を流させたのだぞ! 私が……私が、あの村を焼き尽くしていれば……!」

白骸の目から、堪えていた涙が溢れ落ち、宵丸の頬を濡らした。人間を信じようとした。そのわずかな歩み寄りを、彼らは最も残酷な形で踏みにじった。それが、何よりも許せなかった。

宵丸は、震える白骸の手をそっと握り返した。その手は驚くほど温かく、そして力強い。

「……なぁ。あいつらは弱いんだよ。弱くて、自分たちと違うものが怖くてたまらないんだ」 「弱ければ、何をしても許されるというのか?」 「いいや、許されなくていい。だがな……」

宵丸は、額を隠していた布を完全に外し、三つの目で洞穴の天井を見つめた。

「俺が初めてこの『三つ目』で人間を見た時、あいつらは冬を越せずに死にかけていた。小さな赤ん坊を抱えて、神も仏もいない荒れ地で、ただ互いの体温だけを頼りに生きようとしていたんだ。俺はその時、なんて醜くて、なんて美しい生き物だろうと思った」

彼は一息つき、白骸の瞳をじっと見つめる。

「石を投げてきたあの母親も、ただ必死だった。俺たちが怖いから、子供を守るために必死で牙を剥いた。……あいつらの愛は、針のように鋭くて、近寄る者を傷つけることもある。でも、俺はその必死に生きようとする醜いまでの輝きが、どうしても嫌いになれないんだ」

「馬鹿だ。お前は、本当に救いようのない馬鹿だ、宵丸……」

白骸は、彼の胸に顔を埋めた。 人間を愛するこの男を理解することは、きっと一生できない。けれど、これほどまでに傷ついてもなお、誰かを憎むより愛することを選んでしまうこの男を、自分だけは離さずにいようと心に決める。

「……もう二度と、あんな所へは行かせないからな」 「はは、独占欲の強い奴だ。……でも、悪くない。白がいれば、俺は人間に嫌われても平気だよ」

白骸は、宵丸の傷口に優しく口づけを落とした。 それは、呪いのような執着と、祈りのような慈愛が混ざり合った、静かな夜の誓いだった。


ーあれから数年。白骸に「村へ行くこと」を厳しく禁じられた宵丸は、約束を守り、静かな森の奥で穏やかな月日を過ごしていた。

人間たちの村を遠く離れ、結界のように深い霧に包まれた森。 宵丸は、大樹の太い枝に寝そべり、葉の間から漏れる柔らかな光を浴びていた。額の「三つ目」は、穏やかな眠りを誘うように閉じられている。

白骸は今、麓まで酒の材料となる木の実を採りに出かけていた。「勝手に動くなよ」と念を押された言葉を思い出し、彼は苦笑いしながら欠伸を一つ漏らした。

その時だった。 閉じていた三つ目の瞳が、微かな「音」に反応して見開かれる。 森の境界線を越え、何者かが迷い込んできた。

カサリ、カサリと、不慣れな足取り。それは獣のそれではなく、紛れもなく人間の足音だった。

(……この深い森に、人間か? 酔狂な奴もいるもんだ)

宵丸は身を隠したまま、樹上から音の主を見下ろした。 そこにいたのは、背中に大きな薪の束を背負った、一人の青年と呼ぶべき年頃の若者だった。その顔を見た瞬間、宵丸の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

忘れもしない。 数年前、石を投げられ、罵声を浴びせられたあの祭りの夜。白骸が助け、そして自分たちを恐怖の目で見つめて逃げ去った、あの痩せこけた少年だった。

青年は、今では体格も良くなり、精悍な顔立ちをしていた。だが、その瞳に宿るどこか寂しげな光は、あの日の面影を色濃く残している。 青年は、宵丸が潜む大樹の根元で足を止めると、重い荷を下ろして深くため息をついた。そして、懐から古びた、汚れの目立つ「布」を取り出した。

それは、あの日、白骸が頭に巻いていた、あの「角を隠すための布」だった。

「……あの日から、ずっと探していたんだ」

青年が独り言のように、震える声で呟いた。その言葉は、風に乗って樹上の鬼の耳に届く。

「俺を助けてくれた、あの人たちを。……母さんも死んで、村のみんなも勝手なことばかり言う。でも、俺だけは覚えているんだ。あの時、俺を助けようとしてくれたあの人の手を。石を投げられても、俺を睨まなかったあの人の目を……」

青年は、布を愛おしそうに握りしめ、地面に膝をついた。 宵丸は、樹上で息を呑んだ。 人間を愛した報いが、あの日の血と痛みだった。けれど、その痛みの破片の中に、たった一粒だけ、自分が信じたかった「光」が残っていたのだ。

彼は思わず、枝を掴む手に力を込めた。 声をかけるべきか、あるいは、このまま何も言わずに去るべきか。 白骸が帰ってくれば、この青年を無事では帰さないだろう。 だが、宵丸の唇は、無意識に微かな笑みを形作っていた。

「ほら見ろ、白……やっぱり人間は、醜くて、愛おしい」

その時、森の奥から冷たい殺気が漂ってきた。 白骸が、帰ってきたのだ。

ーー

「……何をしている」

氷の刃のような声が響き、青年は肩を跳ねさせて顔を上げました。目の前に立つのは、数年前の記憶よりもさらに美しく、そして峻烈な威圧感を放つ白髪の鬼、白骸。

「ひっ……!」

「人間の分際で、我が領域を汚すか。あの日、石を投げるだけでは飽き足らず、今度は命を捨てに来たというわけか」

白骸が冷酷に手をかざすと、その指先から鋭い冷気が溢れ出します。今度こそ、その首を撥ねようとしたその時――彼の視線が、青年が必死に胸元に抱きしめている「ある物」に釘付けになりました。

それは、土に汚れ、端が綻びた、見覚えのある白い布。あの日、自分が角を隠すために使い、人間たちの罵声の中に置き去りにしてきたはずの布でした。

「それは……なぜ、お前がそれを持っている」

殺気がわずかに揺らぎます。青年は震える手でその布を差し出し、必死に声を絞り出しました。

「あ、あの日の……お礼を、言いに来ました。母さんはもういません。村の人たちが何を言っても、俺だけは忘れませんでした……あんたが俺を助けてくれたこと。俺のせいで、あんたの仲間が血を流したこと……!」

青年は地面に額を擦り付けました。

「この布を返して、謝りたかった……それだけなんです。殺したければ殺してください。でも、これだけは、どうしても……!」

白骸は、差し出された汚れた布を黙って見つめました。人間は嘘つきで、脆くて、自分勝手な生き物だ。そう決めていたはずでした。あの日、宵丸が流した血の色を思い出すたびに、その憎しみは強固な城壁となって彼を囲んでいたのです。

けれど、目の前の青年が数年もの間、呪いのようにこの布を持ち続け、自分たちを恐れながらも探し続けてきたという事実は、その城壁に静かな亀裂を入れました。

「……阿呆が」

白骸は、小さく吐き捨てました。しかし、そこには先ほどまでの殺意はありませんでした。彼は無造作に布をひったくると、それを見つめて少しの間沈黙しました。

(……宵丸、お前が愛した『輝き』は、これのことだったのか)

樹上から様子を伺っていた宵丸が、安堵したようにふわりと舞い降ります。

「なぁ、言っただろう? 人間は、たまにこういう馬鹿な真似をするんだよ、白」

「……黙れ。お前が甘い顔をするから、こういう図々しい輩が寄ってくるのだ」

白骸は背を向けましたが、青年に向けていた冷気の壁はすでに消えていました。

「おい、人間。……その布は、もう汚れていて使い物にならぬ。持っていけ」

「え……?」

「次に見かけたら、今度こそ食い殺してやる。命が惜しければ、二度とこの森に足を踏み入れるな。……わかったら、行け」

それは、白骸なりの最大限の「赦し」でした。青年は涙を流しながら何度も頭を下げ、逃げるように、けれどどこか晴れやかな足取りで山を降りていきました。

一人残された白骸は、自分の手に残った微かな「人間の体温」を嫌悪するように拳を握りました。しかし、その隣で宵丸が満足げに笑っているのを見て、彼は深いため息をつきました。

「……今夜は酒だ。お前が村で美味いと言っていた、あの酒を用意しろ」

「おっ、いいのか? 久しぶりに乾杯しよう。――なぁ、人間も、少しは悪くなかっただろう? 白」

「……知らぬ」

不機嫌そうに歩き出す白骸。その耳がわずかに赤くなっているのを、宵丸の三つの瞳は見逃しませんでした。

社の石段に腰を下ろし、二人の鬼は月を仰いでいた。 傍らには、あの青年が置いていったものか、あるいは宵丸が秘蔵していたものか、上質な酒の入った徳利が置かれている。

「……本当に、人間というのは理解に苦しむ」

白骸が、盃を干しながらぼやいた。その指先は、かつて人間を切り裂こうとした鋭さを失い、今はただ、月光を反射して白磁のように滑らかだ。

「ははっ、お前がそうやって『理解できない』と口にするたび、俺は嬉しくなるよ、白。お前の中で、あいつらが単なる『ゴミ』から『未知の生き物』に変わった証拠だからな」

宵丸は、自身の三つの目を細め、上機嫌に喉を鳴らして酒を煽った。褐色の逞しい胸元が、呼吸に合わせてゆっくりと上下する。

白骸は、その隣顔を黙って見つめた。 あの日、この男が流した血を拭った時、自分は世界を呪った。だが、今日出会ったあの青年が抱えていたのは、自分でも忘れかけていた「善意」の欠片だった。

宵丸が信じていた光を、自分もようやく見ることができた。その事実が、白骸の頑なな心を、酒よりも深く酔わせる。

「……お前が信じるものを、私も少しだけ、信じてみてもいいと思ったのだ、宵丸」

「え……?」

宵丸が驚いてこちらを向いた瞬間だった。 白骸は、自分から手を伸ばし、褐色の男の頬を強く引き寄せた。

触れた唇は、夜風にさらされていたはずなのに、驚くほど熱い。 酒の香りがふわりと混ざり合い、静寂の中に衣擦れの音だけが響く。

白骸によるそれは、最初は確認するような、けれど次第に縋るような深い口づけへと変わっていった。 これまで溜め込んできた憎しみも、孤独も、そしてこの男を失うことへの恐怖も、すべてをその熱に溶かしてしまいたかった。

驚きに目を見開いていた宵丸だったが、すぐに愛おしげに三つの目を細め、白骸の細い腰を大きな腕で抱きしめた。 青い角と、黒い角が、月光の中で静かに重なり合う。

数年前、血と罵声の中で引き裂かれそうになった二人の心が、今、確かな体温を持って溶け合っていた。

「……酒の味が、変わったな」

唇を離した白骸が、吐息混じりに、けれどどこか晴れやかな顔で呟いた。

「そうか? 同じ酒だぞ、白」

「違う。……前よりも、ずっと甘い」

白骸は、少しだけ照れ臭そうに視線を逸らし、自らもう一度盃を手に取った。 隣で宵丸が、心底幸せそうに、三つの目を細めて笑っている。

夜風は冷たくとも、二人の間には、もう二度と消えることのない確かな熱が灯っていた。

石段での口づけは、白骸が主導権を握ったまま、より深く、激しいものへと変わっていった。

「ん……っ、白……?」

宵丸は、自身の腰に回された細い腕に、予想以上の力が込められていることに気づき、わずかに目を丸くした。いつもは冷淡で、どこか一歩引いているはずの白骸。だが今の彼の青い瞳には、黒い渦のような独占欲が渦巻いている。

「黙れ。……お前はいつもそうだ。人間に石を投げられても、血を流しても、ヘラヘラと笑って許そうとする」

白骸が、宵丸の逞しい喉元を、鋭い牙で甘噛みした。

「私以外のものに、その情けを向けるな。お前のその三つの目に映るのは、私だけでいい。その肌に触れる痛みも、熱も……すべて私が与えるものだけでいいのだ」

その低く、支配的な声に、宵丸は背筋が震えるのを感じた。普段、体格では勝っているはずの自分が、白骸の放つ圧倒的な「捕食者」としての気配に圧されている。

白骸は、宵丸の大きな体を石段に押し倒すと、その褐色の胸元を乱暴に寛げた。

「……っ、おい、今日はやけに強引だな」

宵丸は苦笑まじりに応じようとしたが、その言葉は白骸の冷たい指が秘部に触れた瞬間に、熱い吐息となって消えた。

「……嫌か?」

白骸が、勝ち誇ったような、それでいてどこか艶めかしい微笑を浮かべる。月光を浴びる彼の白い髪が、宵丸の視界を覆い尽くす。

「嫌な……わけ、ないだろう、白。お前の熱なら……いくらでも、欲しい」

観念したように宵丸が三つの目を閉じ、首筋を晒して身を委ねた。 白骸は、その従順な態度に満足げな喉鳴らしを上げると、より深く、逃げ場を塞ぐようにして彼を愛し始めた。

人間を信じる愚かな男。 だが、その男が自分だけに屈し、自分だけの愛に溺れる姿は、何よりも白骸の心を昂ぶらせた。

夜の静寂を、宵丸の掠れた声と、二人の鬼が交わる湿った音だけが支配していく。 夜が明けるまで、白骸はその温かな褐色を、一寸の隙もなく独占し続けた。

「……う、あ……腰が、割れる……」

翌朝。洞穴の中に、宵丸の情けない呻き声が響きました。 褐色の肌には、昨夜の白骸の執着を物語るように、あちこちに色濃い痕が残されています。

「騒ぐな。お前が弱すぎるのが悪い」

隣で涼しい顔をして髪を整えているのは、白骸です。昨夜の激しい独占欲はどこへやら、今はいつもの冷徹な美貌に戻っていますが、その口元には隠しきれない満足感が漂っていました。

「お前なぁ……加減っていうものを……、白……」

宵丸が文句を言いかけた、その時です。 森の結界を揺らす、聞き覚えのある「あの足音」が近づいてきました。

「……また来たのか。あの命知らずの阿呆は」

白骸の眉間に、瞬時に深い皺が刻まれます。殺気を放ちながら立ち上がろうとする彼を、宵丸は慌てて引き留めました。

「待て待て、白! 昨日の今日で殺したら、俺の腰の痛みが無駄になるだろうが!」

二人が言い合っている間に、洞穴の入り口にあの青年が姿を現しました。彼は昨日よりもさらに大きな荷物を背負い、顔を真っ赤にして息を切らしています。

「あ……あの! 昨日はありがとうございました!」

青年は、白骸の放つ凄まじい威圧感に膝をガクガクと震わせながらも、逃げ出さずに叫びました。

「これ、村で一番美味いと評判の米と、俺が山で採った一番いい蜜です! 昨日の……その、お礼の続きです!」

地面に置かれたのは、重そうな米袋と、琥珀色の蜜が詰まった瓶。 白骸は、信じられないものを見るような目で青年を睨みつけました。

「……貴様、耳が腐っているのか? 二度と来るなと言ったはずだ。死にたいのか」

「ひっ、死にたくはありません! でも、あんたたちがここでひっそり暮らしてるなら、何か困ることもあるかと思って……! 俺、これからは定期的に届け物に来ますから!」

「……は?」

白骸の指先から、バチバチと氷の礫が溢れ出します。 しかし、青年は「失礼しますッ!」と脱兎のごとく叫ぶと、返事も待たずに山を駆け下りていきました。

静まり返る洞穴。残されたのは、山盛りの米と蜜、そして呆然と立ち尽くす白骸。

「……く、くくく……あはははは!」

宵丸が、堪えきれずに爆笑しました。腰の痛みを忘れて、腹を抱えて笑い転げます。

「白、お前の負けだ。あいつ、お前の殺気より『恩返し』の方が大事なんだよ。……いいなぁ、あいつ。最高に馬鹿だ」

「笑うな! ……チッ、汚らわしい。こんなもの、捨ててやる」

毒づきながらも、白骸は米袋を蹴り飛ばすことはしませんでした。彼は不機嫌そうに蜜の瓶を手に取ると、その蓋を開け、指先ですくって一口舐めます。

「……どうだ、甘いか?」

宵丸がニヤニヤしながら尋ねると、白骸は顔を背けながら答えました。

「……泥の味がする」

そう言いながらも、彼は指に残った蜜を宵丸の唇に押し付けました。

「お前が食え。……そして、さっさと腰を治せ。今夜も寝かせぬぞ」

「勘弁してくれよ、白……」

懲りない人間に振り回されながら、二人の鬼の賑やかで熱い日常は、こうしてまた続いていくのでした。

青年が森へ通うようになって、数ヶ月。 最初は殺気を放っていた白骸も、今では青年の姿を見ても鼻を鳴らす程度になっていました。宵丸は相変わらず、青年が持ってくる下界の話を三つの目を細めて楽しそうに聞き入っています。

「おい、人間。その蜜、次はもっと色の濃いものを持ってこい。こいつが好む」 「はい! かしこまりました、白骸の旦那!」

そんな、奇妙で穏やかな「友人」のような関係。 だが、その光景を、木陰から憎悪と恐怖に満ちた目で見つめる存在がありました。

青年の妻です。 最近、夫の様子がおかしい。夜な夜な何かを準備し、禁じられた森へ入っていく。浮気を疑い後をつけた彼女が目にしたのは、美しくも恐ろしい「化け物」と、それに媚びを売るように笑う夫の姿でした。

「……あいつ、鬼に魂を売ったんだわ。村を、私たちを食わせるつもりなんだわ!」

彼女の叫びは、村という閉鎖的な共同体の中で、瞬く間に「真実」へと変貌しました。かつての恐怖は、正義という大義名分を得て、殺意へと膨れ上がります。

その夜、森の入り口には松明の火が列をなしていました。

「鬼を殺せ! 魂を売った裏切り者もろともだ!」 「鉄砲を用意しろ! 罠を仕掛けろ! 根絶やしにするんだ!」

村の男たちは、青年を納屋に閉じ込め、手に手に武器を取りました。かつて石を投げた程度の暴動ではありません。それは明確な、種族を滅ぼすための「狩り」の始まりでした。

一方、洞穴では。 宵丸が、言いようのない胸騒ぎに三つの目を揺らしていました。

「……白。今夜は、風が臭う。嫌な……鉄と火の臭いだ」

白骸は、昨夜から続く情事の名残で宵丸の肩に頭を乗せていましたが、その言葉に鋭く反応して身を起こしました。

「……気づいている。あやつら、やはり救いようのない生き物だったな」

白骸の瞳に、冷酷な光が戻ります。青年がどれほど尽くそうとも、人間という種の本質は変わらない。彼はその事実を、どこか諦念を含んだ怒りで受け止めていた。

「宵丸、お前は奥にいろ。……今度は、石を投げられるだけでは済まさない」 「白、待て……! もしかしたら、あいつは……」 「あやつも同じだ。我らを罠に嵌めるために、餌を撒いていたに過ぎぬ。……お前の甘さが、この結末を招いたのだぞ、宵丸」

白骸は、宵丸の頬を強く掴み、有無を言わせぬ口づけを落とした。それは深い愛情というよりは、これから血の海に沈む自分に、彼を縛り付けておくための「呪い」のようでした。

「ここで待っていろ。……汚らわしい火は、私がすべて消してくる」

白骸は、青い角を昂ぶらせ、闇の中へと消えていきました。 残された宵丸は、震える手で自身の喉元を抑えました。彼が愛した「輝き」が、今、最悪の火種となって自分たちを焼き尽くそうとしていることを、悟らざるを得ません。

「……動くな。動けば、この裏切り者の喉を掻き切る!」

村の男が叫び、松明の光の中に引きずり出されたのは、猿ぐつわを噛まされ、縄で縛り上げられたあの青年だった。

白骸は、鋭い爪を男の喉元に突き立てようとした寸前で、その動きを止めた。 かつての彼なら、青年ごと村人を惨殺していただろう。だが、脳裏をよぎったのは、昨夜まで隣で笑っていた宵丸の顔だった。

『あいつは必死なんだよ。俺を、お前を信じようとして……』

「……その人質を放せ」

白骸が低く、震える声で告げる。 村人たちは鬼が怯んだのを見逃さなかった。背後から放たれた太い網が、白骸の体を絡め取る。網には鬼の力を削ぐ呪符が貼られ、肌を焼くような痛みが白骸の白い肌を焼く。

「ははっ! 案外、御しやすい化け物だ!」

一斉に村人たちが飛びかかり、白骸を組み伏せた。青年は地面に放り出され、泣き叫びながら抵抗するが、実の妻に強く腕を引かれ、無理やり家へと引きずられていく。

「あんた、目を覚ましなさい! これで村は救われるのよ!」 「違う、あいつらは……あいつらは俺を……っ!」

家の中に閉じ込められ、閂(かんぬき)をかけられた青年は、窓から見える光景に絶望した。 白骸は、無抵抗のまま、泥にまみれて引きずられていく。自分を助けるために、あの誇り高い鬼が、人間の家畜のように扱われている。

(このままじゃ、また同じだ。俺を助けてくれたあの日と、何一つ変わらない……!)

青年は震える手で窓の隙間をこじ開け、妻の制止を振り切って夜の闇へと飛び出した。 向かうのは村ではない。あの深い森。白骸が、命を懸けて守ろうとした「もう一人の鬼」――宵丸のもとへ。「……黒髪の旦那! 旦那ッ!!」

洞穴の入り口で、青年は血を吐くような思いで叫んだ。 奥から現れた宵丸は、青年のボロボロの姿と、漂ってくる白骸の「血の臭い」に、三つの目を驚愕に見開いた。

「どうした……白は、白はどうした!?」

「俺を……俺を助けるために、村人に捕まりました……! 俺じゃ、俺じゃ止められない! 旦那、お願いだ、あいつを、あいつを助けてくれ……っ!」

青年は地面に膝をつき、泥を噛むようにして泣き伏した。 その姿を見て、宵丸の中で何かが音を立てて崩れ去った。

これまで、どんなに石を投げられても、蔑まれても、人間を愛そうとしてきた。だが、自分たちが唯一心を開いた「光」であるこの青年さえも道具にし、己の半身を奪い去った同胞たちの醜悪さに、初めて底なしの怒りが沸き上がった。

「……あいつは、お前を助けるために無抵抗だったんだな?」

宵丸の声から、一切の温度が消えた。 額の三つ目が、禍々しい紅蓮の光を放ち始める。

「よく知らせてくれた。……あいつを泥にまみれさせた報い、俺が直々に人間に教えてやる」

宵丸は、怯える青年の肩を優しく、だが断固とした力で一度だけ叩くと、風を巻き起こして山を駆け下りた。

その背中は、もはや慈愛の鬼のものではなく、愛する者を奪われた「荒ぶる神」そのものだった。

宵丸が村へ駆け付けた時、そこはすでに地獄絵図だった。 だが、その地獄は、彼が想像したものとは全く異なる光景だった。

村の中心に据えられた木製の杭に、白骸が磔にされていた。 全身は縄で縛られ、冷たい水と汚物が何度も浴びせられたのだろう、白い髪も衣服も泥に塗れている。青い角は折られ、顔には殴られた痕が生々しく残り、吐き出された血が胸元を汚していた。

何よりも宵丸の心を抉ったのは、白骸の目だった。 抵抗すれば、こんな目に遭うはずがなかった。人間など、一瞬で凍らせてしまえるほどの力を持つ彼が、なぜ。

(……俺との、約束……)

脳裏に、あの洞穴でのやり取りが蘇る。

『お前が信じるものを、私も少しだけ、信じてみてもいいと思っただけだ。勘違いするな、宵丸』

白骸は、自分の言葉を信じたのだ。 青年を傷つけぬよう、自分が村人の手に落ちることを選んだ。そして、宵丸が、きっと助けに来てくれると信じ、無抵抗のまま暴虐に耐えていたのだ。

その瞬間、宵丸の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。 これまで人間への慈愛で満たされていた彼の三つの目が、血のような赤黒い光を放ち、大きく見開かれる。

「……ッ、白……!!」

宵丸の咆哮が、村中に響き渡った。 それは、大地を震わせ、空気を引き裂くほどの、純粋な怒りの叫びだった。 村人たちは恐怖に顔を歪めたが、すでに手遅れだった。

宵丸の体から、禍々しいまでの妖気が噴き出し、周囲の松明の火が瞬く間に消し飛んだ。闇が村を包み込み、宵丸の「三つ目」だけが、まるで地獄の業火のように燃え盛る。

「……我が、愛しき半身を……よくも、よくもこんな姿に……っ!」

彼の褐色の肌に血管が浮き上がり、筋肉が異様な隆起を見せる。 温厚だった鬼は、今や見る影もない。それは、愛する者を傷つけられ、狂気に堕ちた「破壊神」の姿だった。

宵丸は、真っ先に白骸を縛る縄を引きちぎった。 そして、彼を杭から降ろし、その傷だらけの体を優しく抱きしめる。

「白……すまない……本当に、すまなかった……!」

白骸は、意識が朦朧としているのか、小さく身動ぎするだけだった。 その姿を見た宵丸の怒りは、もはや誰も止められない段階に達していた。

「お前たちが信じたものが、希望だとでも思ったか? ……違う。お前たちは、最も忌むべき『悪意』を、その手で生み出したのだ」

宵丸は、白骸を抱きかかえたまま、ゆっくりと村人たちの方へ向き直った。その三つの瞳は、村人一人一人を、まるで獲物を見定めるかのように射抜いていた。

「……懺悔の時間は、終わりだ。今から、お前たちに永遠の苦痛を与えてやる」

彼が手をかざすと、地面から漆黒の泥のような瘴気が噴き出し、村人たちを飲み込もうと蠢き始めた。







一晩のうちに、村は消え去った。

家々も、松明の火も、そしてそこで醜い欲望を叫んでいた人々も、すべてが漆黒の瘴気に飲み込まれ、後には風が吹き抜ける不気味なほどの静寂だけが残され、、、

それは、優しかったはずの鬼が、愛する者を踏みにじられた代償に支払わせた、残酷な終焉で




すべてを使い果たした宵丸は、 白骸 を自身の背中にしっかりと括り付け、崩れ落ちそうな足取りで森へと向かっていた。額の「三つ目」はもはや光を失い、焦点も定まらない。

彼の内側にあった、人間を愛する豊かな妖力は一滴残らず枯れ果て、代わりに残ったのは、魂を削り取った後のような虚無感だけ

宵丸の歩みは、もはや地を這う蛇のようだった。

一歩進むたびに、背負った「愛しい重み」がずり落ちそうになる。彼はそれを何度も、力のない腕で引き上げ、壊れ物を扱うように優しく抱き直した。

「……なぁ、白。もうすぐだ。もうすぐ、お前の好きな酒がある社に着くからな」

宵丸は、掠れた声で語りかける。
背中の白骸からは、もう、何の返答もない。
首筋に触れる吐息もなく、かつて自分を「阿呆」と罵った唇は、今はただ硬く閉じられている。その肌は、朝露に濡れた石のように冷たくなっていた。

宵丸は、それに気づかないはずがなかった。
三つの目のうち、唯一開いている瞳は、背後の命がすでに潰えたことを残酷なほど鮮明に映している。
けれど、彼は笑った。
血の混じった泥を吐き出し、まるで昨日と同じ日常が続いているかのように、穏やかな声で話し続ける。

「……昨日の米、あいつが言った通り美味かったな。次は、あの蜜をもっとたっぷりかけて食おう。お前は嫌がるだろうけど、たまには贅沢もいいだろ?」

返事はない。
ただ、森の葉がカサリと揺れる音だけが響く。

ついに、脚の感覚が完全に消えた。
宵丸は、古びた大樹の根元に、崩れ落ちるように座り込んだ。
背中の白骸を、そっと自分の隣に座らせる。泥に汚れた白い髪を指で梳き、折れてしまった青い角を愛おしそうになぞった。

「悪い、少し疲れた……。だから、ここで、少しだけ休んだら……家に帰ろうな」

宵丸は、震える手で、白骸の冷たくなった手を握りしめた。
指を絡め、離れないように、永遠に自分のものだと言い聞かせるように、強く、強く重ねる。

「……お前がいないと、俺は……また、馬鹿な人間を好きになっちまうかもしれないから……。ずっと、俺のそばにいて、叱ってくれよ、白……」

宵丸は、白骸の肩に、自身の重い頭を預けた。
三つ目の瞳から、最後の一滴、琥珀色の涙がこぼれ落ち、重なった二人の手に吸い込まれていく。

「……愛してるよ」

まどろみの中で、宵丸は静かに目を閉じた。
妖力を使い果たし、魂の火が消えゆくその瞬間、彼の視界には――
村も、憎しみも、石の痛みもない、ただ月光の下で二人、静かに酒を酌み交わすあの夜の光景が広がっていた。

朝日が昇る頃、大樹の根元には、まるで寄り添い合う彫刻のような二人の鬼の姿があった。
重なった手は、氷のような冷たさの中で、不思議なほど固く結ばれたまま、二度と解けることはなかった。






柔らかな春の陽だまりの中、新しい村の辻にある古寺の境内で、数人の子供たちが一人の老いた僧侶を囲んでいた。

「――それで、その二人の鬼はどうなったの?」

身を乗り出して尋ねたのは、ひときわ大きな目を輝かせた一人の少年だった。僧侶は穏やかに微笑み、遠い空を眺めるように目を細める。

「鬼たちはね、深い森の大きな木の下で、仲良く手を取り合って眠りについたと言われているよ。一人は雪のように白い髪を持ち、もう一人は三つの目で、人間のことを誰よりも愛していたという」

僧侶の話は、この界隈では有名な民話だった。 かつて、一人の愚かな少年を助けるために、己の誇りも命も投げ出した鬼たちがいたこと。彼らの愛が深すぎたゆえに、一夜にして一つの村が消えてしまったこと。

「その鬼さんは、人間が好きだったのに、人間にひどいことをされたの?」

少年が悲しそうに眉を寄せると、僧侶は彼の頭を優しく撫でた。

「そうだね。けれど、助けられた少年はね、一生をかけてその鬼たちを弔い、この話を語り続けたんだ。鬼は恐ろしいだけではない、人よりも深く、強い心を持っていたのだと。……だからこそ、今の私たちは、自分と違うものを恐れず、慈しむことを学んだのだよ」

少年は「ふうん」と頷き、胸元に下げた古びた白い「布の切れ端」を無意識に握りしめた。 それは彼の家で代々守り継がれてきた、不思議なお守りだ。なぜそれを持っているのかは誰も知らなかったが、少年はその布に触れるたび、どこか懐かしい、温かな酒の香りがするような気がしていた。

「僕、その鬼さんたちに会ってみたいな。会って、『ありがとう』って言いたい」

少年の無邪気な言葉に、僧侶は目を潤ませて頷いた。

「きっと、会えるよ。彼らもまた、いつかどこかで、新しく幸せな夢を見ているはずだからね」

少年は空を見上げた。 そこには、かつて白髪の鬼が見上げていたのと同じ、どこまでも青く澄んだ空が広がっていた。

風が吹き抜け、少年の黒い髪を揺らす。 その瞬間の彼の瞳には、ほんの一瞬だけ、黄金色の強い光が三つ、重なるように宿った気がした。

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