Marry me!(前編)
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今にも降り出しそうな曇天の荒野。
未だ覚めることが出来ずに佇んで、時折現れるもう一人の自分と話をする事を繰り返していた。
そんなある時、遠くに懐かしい人影が見えた。
人影もこちらに気づいたのか穏やかな所作で振り返った。
「ろくちゃん、ありがとう。いつになってもいい。待ってるわね」
大分距離があるはずなのに、彼女の声はしっかりと聞こえてきた。
かつて、京の街で二人だけで話した時に言われた言葉だった。
「おねねさん、あのね、」
懐かしい影。きっと話したいことが沢山ある。考える前に朱音は彼女に向かって駆け出した。
「あの人への好きは、そう。特別の好き、なんだけどね…ろくちゃんには、まだ難しいかも…?」
これも過去に言われた言葉だ。
幼き自分は首を傾げたが、現在の自分には心当たりがあった。形容できない思いに胸につかえて、脚が止まった。
『秀吉さん、おねねさんといるとね、いつもお顔真っ赤。でもね、嬉しそうなのが、わたしにもわかるのです。でもお別れしたあとは、いつもさみしそうで…』
「まぁ、ほんと?良いこと聞いちゃった!」
荒野に響く、姿の見えない幼い声の報告に彼女は両手を合わせて喜んでいた。
『おねねさん、うれしそう…』
「ええ、嬉しいの!……そうね、ろくちゃんもきっといつか、素敵な恋をするわ」
「……恋、?」
「優しいろくちゃんを助けたいって、ろくちゃんを一番傍で守りたいって思ってくれる人。きっと現れると思うの」
「……わからないです、おねねさん。恋は、嬉しいものなのですか?」
苦しい事は、違いますか?
「―――――――恋、って、なんですか…?」
訴えるような呟きは明確に響いた。
布団に覆われ横たわっている自分の身体に気づき、ゆっくりと瞳を開けた。
深い深い眠りは、懐かしい影と、晴れない疑問によって終わりを迎えたようだ。
「恋、」
何故自分は夢の中で恋について訊ねたのだろう。……彼との諍いは、恋と合点してしまっているのだろうか。
「『夫婦になってくれ』……別に好きとは、恋とは、言っていなかったのに…」
身分もない自分を娶りたいと言い放った彼の意図とは。政略結婚とはほど遠い想い、ならば恋愛結婚だろうか。
ではその『恋愛』とは?………と。自分の思考過程はこんな感じだろうか。
(好きです。幸村も、皆も。でも、恋は『特別な好き』って。その特別が、幸村なのかな…?)
「……そうじゃない。そんなこと以前に、わたしには…」
馬鹿らしい。覆るわけでもない現実に非現実を重ねても意味がない。けれどそう考えた瞬間、酷く胸が軋んだ。
痛い。不愉快な、重く、引き裂かれそうな、居心地の悪い痛み。
視界が滲んだ。
でも、『恋』が何なのかは、知りたい。
どうしてか、その思いだけは止まなかった。
*
「お初にお目にかかります!乙女の悩みと聞いて、私居ても立ってもいられませんでした!」
「具合はどうだ。動いて大事ないか、朱音」
加賀に訪れ、丸一日沈むように眠って目覚めると、新たな出会いと再会があった。
「おはよ!なんだか朱音が寝てる間にお客さん増えちまってさ!」
朗らかな笑顔で迎えてくれた慶次が嬉々としながら来客たちを紹介してくれた。
「孫市様…!と、あなたは…、」
「鶴姫と申します!恋をする者同士、頑張りましょ!」
短く整った髪を可憐に揺らし、優雅にお辞儀をした少女は鶴姫と名乗った。
まさに姫、という言葉に相応しい可憐な雰囲気である、と感心すると共に僅かに心の奥が揺れた気がした。古い古い思い出が、少しだけ、きゅっと、締め付けられる。
瞬きの間に余計な気持ちを追い払っていると鶴姫が両の手で朱音の手を握ってきた。
「応援しに来たんですよ、私たち!」
「応、援?」
「とは言っても我らはお前と共に過ごした時間は短い。姫に至っては初対面だが、」
「気持ちは本物です!だから孫市姉様にお願いしてついてきたんです!朱音ちゃん、何か私たちにお手伝いできることはありませんか!」
曖昧な心境でいてはそもそも他の人にも頼みようがない。厚意は嬉しく思うも何も告げられず、申し訳なさが込み上げてきた。
何も言えずにいると向き合ってくれた彼は酷く傷つき、けれどそれ以上に心配してくれた。そうあれは、記憶が戻りかけていた頃だった。
思い起こされた記憶にぼんやりしかけていると、鶴姫が不安げに顔を覗き込んできた。
「あれあれ!?ど、どうしましたか!」
「え…?」
「朱音ちゃん、今すごく、悲しいお顔になってます!」
思い出したせいだ。彼のことを。すぐにわかった。
抑えがきかない。もう隠すことなど、できなくなっているのだ。誰にも、自分にも、最早嘘はつけない。そんなところにまで、この事態が。
たったひとりで何年も戦場を駆け回っていた。だけど、これは本当に、それ以上に辛いことなのかもしれない、と。
「……恋、って、なんです、か…」
「朱音、」
取り乱したように、誰よりも驚いたのは古くから彼女を見守り続けてきた慶次だった。
家族の遺志と、他人の生にばかり固執し続けた価値観は確実に溶けてゆき、今、成長しようとしている。自らの生にやっと関心が向こうとしている。そう悟ると傍らに立ち、朱音の目線に自身の目線を合わせた。
かつては振り払われるばかりだった手は頭の上に乗せる事ができた。
「苦しすぎて、息が詰まってしまいそう。でも、その人の事、考えずにはいられなくて。会いたい。会いたいけど、会った時、なんて言おう。どうしたら、何をすれば喜んでくれるだろう――――――この人と、一緒に笑っていたい」
「……!」
「俺がね、好きな人に思ってたこと。」
無意識へ抑圧し、それに初めて気づいたのがたった数日前だとしたら。未知の感情の強い渦に、心には計り知れない負荷が掛かっているに違いない。
実際、ひどく混乱もしていたのだろう、核心をなぞる慶次の言葉に朱音は、困惑の中に安堵の涙を浮かべた。
「どうしよう、慶次…」
「どうしたい、朱音」
わからない、とはもう思わなかった。
だが、それはまだ根付く『常識』が許さない。
「でも、自分の気持ちはもうわかったんじゃないかい」
『それでいいんだよ。決して悪いことなんかじゃない』
優しい声色と温かいてのひらが、そう包み込んでくれた。
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