13.終着
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吸い込んだ空気はとても懐かしく、何気なく落ちつけた。
けれど感覚も神経も、身体の何もかもが重く鈍い。やがて、ゆっくりと、漸く目蓋を開けることができた。
「――――!、…朱音…!!」
すぐに返事をして応えたかったが、喉が渇いていたため噎せてしまった。一体今度はどれだけ眠っていたのだろう。
右手を包み込むように大事に握ってくれている目の前の人物の表情から察するに、今までで最長かもしれないな、と表情筋を動かしたが、それも思った以上にぎこちない動きにしかならなかった。
握られている右手に、僅かでも握り返す力を届けた。
漸く潤い始めた喉が彼の名を呼んだ。
「……ゅ、き…む、…ら、…」
「……応!朱音…ッ!よくぞ、目を覚ましてくれた…っ!」
名を呼ばれて心の底から喜びが湧き上がったのか、目をギュッと閉じて、握る手の力が更に強まった。
状況が把握できないのか、鈍く眼球を動かす朱音に気づき、すぐさま幸村が言葉を続けた。
「ここは甲斐の国、お館様の躑躅ヶ崎館のそなたが過ごしていた部屋だ。わかるか?」
どうりで懐かしいはずだ、と納得したように緩い頷きが返ってきた。目は合うし、言葉も理解できている。死の際を彷徨ったと聞かされていたが、目を覚ました以上はその状況からある程度回復しているようだ。安堵の息が幸村からこぼれた。
そんな様子をぼんやり見つめていた朱音だが、よく見ると幸村の身体のあちこちに包帯や布が宛がわれている事に気づいた。けれどその表情に何故だか苦痛の影は見受けられず、満ち足りた笑顔を浮かべている。
「たく、さん…け、がを…」
それでも心配で怪我について尋ねると首が大きく横に振られ、身を乗り出して逆に訊ねられた。
「そなたほどではない!朱音こそ、きちんと動かせるか?」
布団に横たえられたまま朱音は足先から、腿の付け根と順々に全身の動きを軽く確認するが、左肩を動かそうとした時に激しい痛みが走った。
それにしても尋常でない軋み方をした左肩とそこから先の指先までの違和感に、ある予感がして朱音の目に不安の色が浮かんだ。
(左の肩の違和感が、消えない……明らかに他の部位とは違う……まさか、)
察しがついた未来。そして目の前の幸村を見つめた。
「ゆき、むら、」
「いかがしたか!?」
「日ノ本は、どうなりましたか…?」
「……西の毛利の進軍は我等が食い止めた。東の秀吉殿の小田原城への侵攻は、そなたや慶次殿、政宗殿とで和解した、と伝え聞いておる。大きな争いの種は消えたが…、」
「全て、なくなったわけでは、ないのですね…」
「……うむ、恐らく時が経てば、再び争いが起きる事も…」
ならば覚悟を決める時が来たようだ。
痛みに鞭打たれるのを承知で、朱音は左手を幸村の方へ伸ばした。激痛に耐えながらであるため、酷く痙攣して覚束ない動きになってしまった。
「そちらは元より負傷していた腕であろう!大丈夫なのか!?」
案ずる言葉に頷きたかったが、嘘はついてもしょうがない、と朱音は素直に首を横に振った。
そうしたらいよいよ目頭が熱くなり始めた。
伸ばした左手は幸村がしっかりと取ってくれた。
「……ねえ、幸村、……あなたに、託してもいいですか…?」
「………!」
「わたしと、取り残された人たちの思いを……平穏な世への、ねがい、を…っ」
「そなた、まさか…、」
右手と違い、どんなに意識を向けても左手にはまともな力が入らず、あんなに痛かった感覚すらも薄れていく。それはきっと、この先に朱音の傷が治ったとしても、この左腕だけは、これからも、このままであるという予感が窺えた。
だからこそ、残る最後の力の全てを使って伸ばした。
片腕が機能しなくなれば、これから先戦場に赴く事など、もはや。そんな未来を察した朱音涙を流す。
「わたしの、からだじゃ……もう、たたかえない、から……っ、幸村に、託したい…!」
「――――――ああ、任せてくれ!必ずや、この俺が、この武田が!乱世を終わらせてみせよう!」
―――――――――また、受け入れてもらえた。
長く抱いた唯一の望み、
救われた。
「ありがとう…」
伸ばしていた左手の震えが止まり、左肩に感じていた痛みも完全に消えた。
強く握ってくれる幸村の手の中で完全に力を失った。
それでも、まだ朱音は生きている。
自ら望み、そして多くの人に支えられたことで、ここに生はまだ在る。
「朱音……、よく頑張ったな」
機能を失った左手を握ったまま、膝上まで降ろした幸村が慈しみに満ちた笑顔を浮かべた。
「約束、守れましたよね…」
「応。皆の元へ、しかと帰ってきた」
優しい掌が頭を撫でた。
褒められて頭を撫でられるだなんて、本当に童の頃に返ったようだ、とはにかむような笑顔がこぼれた。子どもの頃のまま、純粋な感情のままに表情を映す彼女は相変わらずだと幸村も安堵する。
「これで、また皆と会えるのだ。皆も心待ちにしておる。そろそろ呼びに参ろう」
朱音の容態を案ずる人々に、意識が戻った事を伝えに行こうと、幸村が彼女の腕を丁寧な手つきで布団の中へ戻すと立ち上がった。
「安静にしておれ」
笑顔で告げられたはずなのに、手が離れ、身体が遠くなった途端に朱音の中には言い知れない感情が湧きあがった。
焦りのような、ぐしゃぐしゃした、ズンと沈み込むような、いやな気持ち。
『置いていかれたくない』、と。
「……ま、まって…!」
身体はまともに動かせない。考えを整理する前に言葉が勝手に出てしまった。
「や、です……こわ、い………ゆき、むら…ッ」
また泣き出したい気持ちまで出てきて喉が熱い。言葉もぶつ切りで、それこそ幼子の駄々同然になってしまった。
朱音だって、はやく皆に会いたいというのに、今は僅かな間でも独りにされるのが何よりも恐ろしいと感じた。
片腕の機能を失った身体で、誰かを守る事が出来なくなった身体で、これから自分は生きていけるのだろうか。気が付くと、そんな恐怖に駆られていた。
なんだ、これ。そんな自分の都合だけで引き留めるだなんて。
こんなの、本当にただのわがまま。甘えているだけじゃないか。
「……ご、ごめんな、さ、い……」
どこまでも情けなくて涙が零れた。
堪え切れずに強く瞑った目蓋の上に温かい指の感触が触れられた。恐る恐る目を開けると申し訳なさそうに顔を覗きこんでくる幸村と目が合った。
「謝らずともよい、朱音」
それだけで、また胸の締め付けが解けていく。
相変わらずこの性格は単純な造りをしているようだ。
「もう少し、ここに居てもよいか?」
幸村の両手が朱音の右手をまた優しく包み込んだ。本当にそれだけで朱音の心の叫びは鎮まって、どこまでも穏やかな思いに満たされる。
泣き止めぬまま、何度も頷いた。