11.信じること
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暗闇の彼方がわずかに明るむ時間になった。もう半刻もしない内に始まるのだろう。
豊臣軍に相対する武田分隊を組み込んだ薩摩の一群との決戦だ。
「お待たせしました。幸村様」
つかの間の仮眠を終え、多くの者々は交戦の準備に備えている。武士の身に馴染んだあの気配が、戦場の気配が、始まる前にも拘わらず既にこの薩摩の軍勢を支配している。
お市の様子を見に朱音が一旦家屋に戻った時、ちょうど偵察から帰った小助が頼まれていた調査結果を砂浜で戦に備える幸村に報告する。
「朱音ちゃんの予想はアタリでした。今からここに迫る豊臣の分隊の更に後方に、参の紋の旗印。当主の毛利元就を含めた毛利軍の行軍を確認しました」
「ご苦労であった、小助。ならばそれも踏まえた上で戦略を立てねばならぬ」
「はい。増援も確認したことで、こちらの少ない手勢をどのように動かし、応戦するか……」
油断は微塵たりとも許されない状況だ。数では圧倒的に劣る以上、やはり策で弄ずるしかない。
有用な手段はやはり地の利を生かした誘導の先の挟撃作戦だろう。逃げ場をなくした後に、一気に畳み掛けて確実に仕留める、大掛かりな釣り野伏になりそうだ。
「それと、豊臣秀吉の大坂出陣の情報も確認されました。方向は違うようですが竹中半兵衛も直に。急ぎなのですが、朱音ちゃんは、」
「お市殿の様子を見に行っている。もう戻って来る頃合いだが、」
「………やはり、あの方をお止めしないのですね、幸村様」
「うむ。どうやら俺は、あの真っ直ぐな瞳に魅かれてしまうようでな。朱音は朱音のまま、どこまでも己の信じるままに進んで欲しいのだ」
二槍を肩に預け、迷いなく言い放つ幸村の笑顔に小助はこの上なく呆気にとられた。
秀吉は大海を拳一つで割いて、挑もうとする朱音自身も瀕死に追い込まれる程に実力差があるというのに一切引き留めようとしない幸村の様子に疑問を持たずにはいられないようだった。
「死ぬかもしれませんよ、本当に、今回ばかりは…」
「心配無用だ。朱音は必ず戻ってこよう。心から生きる事を望んでおった」
「そんな、それだけで…」
心配を重ねる小助と対照的である幸村の朱音への信頼。
先日ぶつかりあったことでこんなにも信頼できる程に心を通わせたというのだろうか。確かに幸村は元より甲斐に居る時からお館様と言葉と共に拳による肉体言語を駆使していたが…。彼女の場合は自身では抑制できなくなった死に急ぐ意志の塊だ。そう簡単に生存を信用することはできないだろう。
「…そうだな。なぁ、小助、」
どうにも釈然としない小助が首を捻っていた所で幸村が口を開いた。しかしそれ以上の言葉が続く前に話題の本人がお市を連れて戻ってきた。続かなかった言葉は朱音には聞かせたくない内容だったのだろうか。
朱音は偵察から戻った小助の姿を目にするとすぐにこちらへ駆け寄ってきた。
「良い勘してるね、ご息女様。当たりだったよ」
「……どうかしましたか、小助」
「え、なあに?」
「少し気が立っているみたいね、お月様」
釈然としない気持ちが思いの外内側を波立てていたようだ。それに一番驚いたのは小助自身だった。
―――けれど、知っているんだ。跡形もなく煤になった屋敷。何日も雨ざらしに遭った数多の人々。その彼らが最後の瞬間まで守ろうとした者は、今まさに目の前に生きているのだ。
あの時の、強張った躰に窺えた強い思い。残骸になろうと息絶える前に生の望みを託した事は容易く理解できた。
惨状の痕。それを目の当たりにした幼い小助は、人間の尊さを、命の重さを感じ取った。心が軋んで泣く事すら叶わなくなった無数の躯の代わりに悲を叫んだ。
だからこそ小助は戦場へ向かう彼女を決して肯定できない。きっと彼女の兄もそう考えていることだろう。
それゆえに、いくら真っ直ぐな性分であろうと、幸村の受け入れ様には正直、納得できないでいるのが現状だ。
「戦の前だからかもね、心配しないでいいよ。朱音ちゃん、豊臣秀吉の出陣の情報が得られたよ。恐らく今夜にでも。行き先は小田原」
「おだわら、」
「そっか、土地名には疎かったね。相模の小田原国は、甲斐の隣だよ。……本当に彼の人物を目指すと言うのなら、すぐにでもこの最南端から出ないと間に合わないかもしれない」
「そんな、でもこの地は今から戦が…!」
今まさに起こらんとする戦から離脱しなければ秀吉の元へは間に合わない恐れがある。そう告げられた現実が朱音の心を強く締め付けた。
言葉が失せ、案ずる視線を投げかけると幸村は力強く笑んで見せた。
「我らの防衛線は決して破らせはせぬ。単に戦力の危惧をしているというのであれば、それは杞憂にござる」
「、いくさ、は…!」
彼女の瞳の色が変わる。自身を縛る想念がまた姿を見せる。
人ひとり。己ひとりでは出来る事が限られる。だが目的の為に出来る可能性を切り捨てるという達成の為の効率を考慮する方針は彼女の中にはない。
「……ああ、そなたは今までの様に一つずつの命を重んじるのだろう。立場など関係なく、全ての人々は等価値であると。順列をつけ、背を向ける事は考えられまい」
たすけないと、ひとりでも、おおくの、だれかを。
「だが今のそなたには、これまでにはなかった大きな目的がある」
幸村の声色から諭すための優しさが消えた。一瞬で意識を引き戻され、思わず朱音は息を呑んだ。
真っ直ぐな視線に貫かれる。どこまでも純粋な瞳に、己の内の呪いのように頑なな《意地》が揺らいだのがわかった。
信じられない、と初めに思った。お家を失ったその瞬間から記憶をなくすまで延々と着実に蓄積してきた、痛みや悲しみの経験による想念が、彼の視線一つで綻びを見せた。
朱音が心から、本当に一番に望む事を彼が引き出そうとしている。
「そなたは朱音だ。そう呼ぶのだから、そう生きてほしい。朱音が望むものを成し遂げてほしい」
何を返せばいい。何を言い返せばいい。
狼狽する頭の中で少女は瞬き程の間に何度も思考を巡らせる。
そうして、気づく。
――――――何も言い返すことなどないのだ。本当は言い返したいことがないのだと。
幸村が示たいものこそが、今の自分の本当の望み。過去を超えるほどの、大事な望み。
あれだけ縛り付けられた過去が。捕えられたままを良しとすら考えていたはずだったものが、いつの間にか解れていた。
解放を自覚した身体は膝から崩れ落ちた。力の抜けた身体を幸村が支えた。
「う、そ…わたし……」
「……兄上殿の元へ行くことを選ばなかった、その時点でそなたは十分に未来を見ていた。行け、朱音。そなたは必ず志を果たしてこよう。そして」
膝を折り朱音と視線を合わせた幸村が力強い笑みを浮かべた。
「約束したように、必ず俺を目指して帰って来てくれ」
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