10.清流
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「――――――朱音」
呼びかけると肩がわずかに震えた。しかし目は覚めず、一枚被さるだけの掛布団の中で身体を縮こまらせた。
現在の薩摩の気候は暑いくらいで、夜に特段冷え込むなんてこともない。それにも拘わらず、顔を俯かせ、埋めて、身体を畳んだ理由は別にあるのだろう。
豊臣との戦に備えて野外で身体を休めている一行。横になる彼女の側で座った姿勢で睡眠を取っていた幸村は異変に気付いた。その背を軽く擦ると、一瞬彼女の背から自らの手を伝い『パチリ』と静電気のような弱い熱が走り抜けた。昨日聞いたばかりの、お市達の会話が思い出された。
お市と小助に向き合う隼人が言っていた。朱音から『稲妻の婆娑羅の気配を感じた』と。その婆娑羅は他の者の例になく御者の生命そのものを直接蝕む、とも。
眠っている彼女の身体の緊張は取れないままだ。知ったばかりの真実のこともあり、一度無理にでも起こした方がいいのだろうと判断する。
それに先日、悩みの中にいた幸村と同じく「嫌な夢をみた」とも言っていた。ならば今もなお、夢見が悪い可能性もある。
「朱音、朱音!」
何度か呼びかけると、ゆっくり目蓋が開かれ、その瞳を覗かせた。
特に異常は見られず幸村は安堵したが、彼女は黙ったまま、どこか虚ろな目で見つめられると、呆れたように、安心したように息を吐いた。
「…まだ、朝じゃない……」
「起こしてすまぬ。しかし、そなた…」
「……いいえ、すみません、幸村に言ったんじゃなくて」
まだ周囲に暗闇が広がる中、上体を起こして照れくさそうに朱音が笑みを浮かべる。どういう事か聞く前に彼女は立ち上がった。
「少し風に当たってきます」
「……大丈夫なのか、うなされているように見えたのだが、」
「大丈夫です。すぐに戻ります、」
足早に立ち去ろうとする小柄な背に問うが足取りは止まらない。何があったのか伝える気はないのか、迷わず歩を進めるその姿に何となく違和感を覚えた。すると、またパチッと、今度は幸村の頭の中で先ほどの小さな刺激が走った気がした。違和感に突き動かされるままに、引き留めるべく慌てて立ち上がった。
《すぐ戻る。だから待っていろ》
《そう言われて置き去りにされた。》
《今から、その背は―――きっと、》
「――――行かないでくれ、朱音ッ!」
バチリ、と。去ろうとする彼女の左腕を掴んだ瞬間、違和感が更に大きくなる、追憶の予感が、幸村の内側に強く走り抜けた。唐突に彼女の感情が自らの中で投影されていた。
(今のは……幼き頃の朱音の…?なぜ俺に…)
「い、いたいですよ、幸村」
慌てて掴まれたのは負傷している左腕だったために振り返った朱音が声を上げた。
「す、すまぬ……その、朱音、」
「は、はい。なんですか」
無意識の内に食い入るように距離を詰めていた幸村に思わず面食らう朱音の身体が反る。
「まことに、大丈夫なのか」
「………」
「……見落としたくはない。せめて、どうか隠さないでくれ」
突拍子のない行動に困惑した表情の朱音が視界を占める。しかし混乱の度合いは幸村の方が圧倒的に上回っていた。
幸村自身もどうしてこうも焦っているのかはわからなかった。しかし、やがてただ目の前にいる人物からひたすらに危うい予感がして、これから起こる戦から遠ざけたい気持ちが存在していることに気づいた。
なぜだ。自分は戦に向かう彼女の意志を理解し共に進むはずではなかったのか。
その決意を揺るがすかのように、走り抜けた熱が伝えてきたのだ。目的の為になら決して留まる事のない彼女の意志。自分の死すらも、自然の流れに組み込んでしまう躊躇いのない、異常とすら自覚しない、理を外れかねない自身への執着の弱さ。
(隼人殿が言っていたのは……こういう、ことなのだろうか)
夢の中で自身と衝突していた朱音。最終的に和解のような形になったとしても、引き出された迷いや矛盾の感情が彼女自身の生に直結した。無意識に引き出された婆娑羅の力に触れた幸村が、流れる感情の記憶と共に彼女の全容を意図せず把握したのだ。
「どうされましたか、幸村」
幸村が抑えられず見せた不安の表情。何かを察した朱音の両手が幸村の頭をそっと包んだ。彼女はどうやら再び幸村が、戦場に赴くにあたっての迷いが再び生じたのではないかと考えたようだ。
自然な流れで案じる。それと同じように彼女の内の『自然』が、やがてその身を死へ導く。疑問に思う間もなく死滅したとしても、それでも異を唱えたりはしない、それが伝わってくる。
見守るはずの感情が揺れて、突き動かされた。幸村は朱音を抱きしめていた。何事かと朱音は更に困惑した。
「そなたの代わりは、誰ひとりとしておらぬ…!俺は……否、俺だけではない、皆そう伝えたいのだ、そなたに!」
「……ゆ、幸村…?」
「、うまくは纏められぬ。そなたを受け入れると誓った以上、俺はそなたの歩みを止めたりはせぬ。なれど…!」
何が伝えたい。彼女にどうしてほしい。混乱する中で、必死に言葉を探す。
今、一番伝えたいと思う事は――――――
「どうか、一人で消えないでくれ……!」
「……きっと、大丈夫ですよ。わたしね、この間、ちゃんと、しにたくないって思ったんです」
幸村が思う事、そしてこの事態を自分なりに察した朱音が口を開いた。
幸村が言いたいのは、おそらくこれまでも出会い、関わってきた人たちが朱音に伝えようとしてきたことだろう。そして「しにたくない」と心から願った経験で漸く自身でも察していたのだ。
それでも、長く深く根付く『常識』は完全には覆らない。繋がるものの、相容れない二つの思いがどちらも自分に中に存在している。
「だから、これは…わたしのこれからも決まる、大事な戦いであるとも思うんです」
一見冷静な様子で返し、抱きしめ返したはずの彼女の腕は強張っていた。まるで縋りつくかのように、幸村を通じて手放したくない沢山のものたちを惜しむかのように。
「会いたい人、たくさんいます」
「うむ」
「だから、ちゃんと帰ってきたいって思います」
「皆もそう思っておる。お館様も、佐助も、ひかり殿も。幼き頃共に過ごしたという前田の者達も…慶次殿も。これまでそなたと出会った者達も、きっと幾度となく会いたいと思っておられるはずだ」
「でも、その気持ちを抱えたままじゃ、またわたしは上手く戦えなくなってしまうかもしれない……頑張らなくちゃ、」
その言葉を聞いた途端、幸村はハッとした後、表情に決意が宿った。
これまでに見てきた彼女と、数多のやり取りしてきた事。それを元にこの瞬間に、全てを理解したのだ。
「そなたは誰より……この幸村よりも、真っ直ぐに進んでいく。清濁を超えた基盤を己の中にしかと抱え、その為にならば殉じても構わぬという心構えは、武人の鑑とも言えよう。そして、それはこの乱世に何より相応しい生き方なのだろう」
「そんなの、わたしは…ただ頑固なだけ、です」
「そうではござらぬ。きっと……そなたは、そなたの強さの為に、その基盤に己の心を伴わせなかったのだ。迷わぬために切り離した。志の大元であるはずの意志と離別した……それゆえに、己への執着が無くなってしまったのだ」
幸村に限らず朱音と刃を交えたもの、あるいは目の当たりにした者達は察しているのかもしれない。武器だけでなく、自身の体調や筋力すらも極端に操る朱音の戦闘技術は基本的に自己への負担を顧みない。捨て身と思わせるような立ち振る舞いが非常に多く、目的が果たせるのであれば囮になることすらも厭わない。
《戦場では迷ったやつ、躊躇ったやつからおっ死んじまうだろう。お前、それをよく知ってるだろ》
迷わない為に。目的を果たす為に。本来は連結しているはずの感情と目的が切り離されていることで、誰よりも迷いなく、手抜かりなく手を抜いて『相手を殺さない』という戦法が為しえたのだ。
目的ができるには、何かのきっかけとそれに対する思いがある。少女はその思いを目的から切り離して成長した。なぜそうしたのか、
《心が一緒のままじゃ、わたしは強くなれなかったから》
《わたしは弱かった。大事な時に必要とされなくて、皆に置いて行かれた》
《臆病でもあった。たくさんの考えが、迷いが、不安が、常に頭の中を渦巻いていた》
《それでも守れる強さを求め続けた。けれどそれを妨げるのも、求める心そのものだった》
《だから切り離した。強さの代償として、自分の心を置き去りにした》
「他人を想い、他人の為に強さを求めた心が、そなた自身を一番傷つけた。そなただけが傷つくことで、多くの戦場に立つ者と、その帰りを待つ者を救った」
何が起きても彼女は絶対に人を殺さない。そう言い切れるだけの過去と想念を持っている。
ある意味、自分だけを殺し続けてきた。
太刀筋を鈍らせるもの、押しつぶされそうな恐怖を生み出す元凶。戦う力を手に入れる為には、力を望む己の心が何よりも邪魔になった。
決意した目的の為にどこまでも直向きに。置き去りにしたことで、立ち止まることなく、行いの無意味さに気づきながらも、顧みることなく疾走できた。恐れも忘れ、立ち止まらせる弱さを封じたことで、やがて状況次第では武将にも劣らぬ、《何者にも負けない強さ》を手に入れた。
それでも押し込めていた思いは、長い年月の中で着実に自身を追いつめて、膨れ上がり、きっかけが来るとついに破裂した。そして記憶を消し去った。それを機に他人と接するようになり封じていた心は数多の刺激を受けた。目的の為に押し潰されていたいくつもの感情が確かに再生した。
それでもなお、武器を持つ瞬間だけはかつてのままに、無意識に刻み込まれたままに心を封じる。自分の状態も、身体能力の限界も無視して全力を尽くす。自身への関心より目的を全うする意識が先行し、生き急いで、死に急ぐ。決して揺るがない強さの為の代償だ。
乱世の産物。この情勢が人を狂わせて、その身を適応させて戦っている。
それに最も狂わされたのは、そうして最もその身を適応させてきたのは―――――――
「ただ純粋な望みを抱いた、そなた自身がこの時代で、誰よりも翻弄されたのだ」
真正面で受け止め、直球で返す性であったが故に生まれた矛盾を抱え続けた。拠り所もなく、独りで彷徨うように戦ってきたことがよりその思いを助長させた。
誰よりも素直な心の持ち主であったが故に、時の流れに感化されず、また看過もせず、この瞬間まで生き延びた。
「そなたの内は、ひどく混濁しているようでいて、実の根源は誰とも変わらぬ。否、何者よりも純粋だ」
『まもりたい』
共に戦に出て家族と民を。
失うことで悲しい目に遭う人を。
命を救ってくれた人たちを。
受け入れてくれた人を。
一度でも、受け入れてくれた人を。
その為に自分の中で矛盾が生まれながらも、戦う力を求め、身に付けた。
「ゆえに、俺は……そなたに幾度も魅せられるのだ。強さにも、繊細さにも、その脆さにも、必死に生きるそなたの全てに。自らを厭えぬというのであれば、俺や皆がそなたを厭おう」
昼間に伝えあぐねた言葉はするりと伝えられた。
受け入れる腕に頑なだったものが解れていく。
ゆっくり身体を離すと、目が合った幸村の表情には尊敬と、慈愛の色が窺えた。父とも、兄とも、誰とも重ならない、初めて目にする様子だった。
「……幸村、」
「なんだ?」
「あなたにこの名をもらえて、本当によかった」
突きとめた本質とその本質への理解が為された。目の前にいる彼が全てを解し、受け入れてくれた。
「いつか力尽きて独りのまま終わると思ってました。終わる時を待ってました。でも、思いも、目的も、あなたが全て受け止めてくれた。それが、とても………なんでしょう、なんと言えば…」
嬉しい、幸せ。それだけでは足りない。感情が大きく揺れて、言葉にならない思いが押し寄せてくる。無意識に封じてきた分までの全ての想いが溢れ出してくる。
「言葉にはならずとも、朱音の想いはしかと俺に伝わっておる」
「ありがとう、幸村」
「朱音。どうか、生きてくれ。思いがあってこその目的だ。果たした後、必ず戻ってきてくれ」
戻る、と言った幸村は朱音がこれからどこへ行き、何をしようとするのか、既に察しているようだ。
言葉を超えた理解。近しい関係にあり、生きる理由にまで執着してきた家族にさえできなかった事をついに幸村がやってのけた。
眩い炎がしがらみに寄り添い、道筋を照らし出した。命の息吹が再生した魂に宿る。
「……はい。わたしは、あなたを目指して帰ってきます。必ず」
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