8.交渉
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すっかり見慣れた気になっていた大量の水―――もとい海、けれど間近に見える寄せては返す波とそこへ続く白く輝く砂浜は目新しいものだ。照りつける太陽、青空の真下。
武蔵についてこい、と言われ案内された先はそんな場所だった。
潮風が黒い手によって拘束されたままの身体を心地よく撫でてくれる。
「お市ちゃん、さすがにそろそろ朱音ちゃんを降ろしてあげようよ」
「……いや、」
「でもさ、ほら見てこの顔」
高所からでなければ水に対しての恐怖心も起こらないらしい。そんなわけで久しく朱音は目を輝かせて、己に真新しい刺激を与える景色に見入っていた。それに気づいた小助がついに朱音の肩を持とうとしてくれたようだ。
お市もその表情を見つめて、観念したように小さく頷くと拘束を解いて再び自らの両足で立つことができた。砂浜に若干足を取られつつも朱音は嬉々として打ち寄せる小波を近くで見るべく駆け出した。足元が濡れないギリギリの所で座り込んで、浜に寄せては返す白波の一連の動きに早速釘づけになっていた。
「……記憶なかった頃と同じ反応してるよあの子…」
「気になるものはじっと見つめちゃう子なのね」
「そうそう」
遠巻きに見守る二人に笑われている事にはついぞ気づかず、ただ見入っていた朱音は豪快な笑い声が耳に入って漸く意識を波の外に向けた。
声のした方を見ると、ここから少し離れた先に二本の椰子の木の合間に無数の紐で作られた綱を掛けて組んだハンモックのような物に寝そべる老人が一人。その人に向き合うように幸村や武蔵、武田軍の人たちが何やら話し合っている。老人は負傷しているものの、かつて朱音が幾度も肌に感じてきた戦場の武人の気配がひしひしと感じられ、幸村が言っていた『薩摩の豊臣へ抗う力を持つ一群』を束ねるのはあの老人と見てよさそうだ。
それにしてもなぜこんな離れた所で朱音は考察しているのかといえば、そちらへ近づいて行こうとすれば、お市に叱られてしまいそうな気がするからである。
大坂で囚われていた頃の自身のように、今の幸村は甲斐の遣いという立場で行動している。つまり共に甲斐に居た時の『私』ではなく『公』の彼であるということに対してどこまで朱音が関わって良いかもわからない。仮に関わったとしたら………ついに、一つの軍に固執するようになるのだろうか。
ただ、一人でも多く命を散らせない事を信条に小さな行いばかりを繰り返してきた少女に、もしかしたら選択の瞬間が迫りつつあるのかもしれない。
「――――朱音!」
つい、ぼうっと思考しているとその幸村が目の前までやってきていた。
膝を抱えるようにして座り込んで物思いに耽っていたが、慌てて立ち上がると姿勢を正した。
「は、はいっ」
「島津殿と武蔵殿と今から、あすこにある屋内にて此度のお館様より仰せつかった子細を聞いていただけることになった。……それで、」
不意に間を置き、何やら思案していたようだが幸村は言葉を続けた。
「島津殿が、そなたも同席して如何かと勧めておられて…」
「島津様、というのはあちらにいらっしゃるお方の事ですよね。あの方とは初対面であると思うのですが…、」
「なんでも、そなたの様子…に、何か感じる所があると申されていたのだ。それは、今の、某の為にもなろう、ともおっしゃられていて、」
後半に行くほどぎこちない様子で、どこか解せぬように言葉を切った幸村が島津の言葉の意味を汲もうと朱音を見つめてくる。同じように見つめ返した朱音は幸村の瞳の中のかつては存在していなかった異変の懸念が確信に変わった。
その島津殿、という者からの誘いに乗るか決めあぐねるところであったが、彼の目の色を見て決断した。
その冷静な、相手を分析することに徹した透き通る少女の目に幸村はこの一瞬で心の底まで見透かされた気に陥り、思わず息を呑んだ。
「ぜひ、同席させてください。幸村」
「…よ、よいのか?」
「はい」
「よくないわ、朱音…」
「お、お市様…!」
幸村が朱音に駆け寄った事で嫌な予感がしたお市は朱音を守るべく行動に移していた。困惑する当人をよそにぎゅっと抱きしめて、行かせたくないという意思を伝える。
「真田さん、朱音を戦事に関わらせないで」
「そ、それは…無論、某もその思いは…」
「………いいえ、わたしは行きます」
明らかに様子が変わった朱音はそれまでは一度もしなかった、お市から回された腕をそっとほどいた。
驚いた様子のお市へ、そっと近づいて何かを耳打ちをした。その言葉を聞いてお市は納得させられたのか惜しみつつも頷いた。
「わかったわ。でも、でもね、朱音…あなたは、その…ね……」
「、どうなさいました?」
お市はあの婆娑羅の力の事を明かしてでも止めようかとも思ったが、やはり伝える方がリスクが大きい事を踏まえるとそれも叶わず、結局寸での所で留まった。
「朱音、あれだけ頑なであったお市殿に一体なんと?」
「……それは、もう少し後に申し上げます」
「う、うむ……」
*
「お市ちゃん、朱音ちゃんに何を言われたの?」
「……"大事な人の命に関わる事だと思う"からって…」
「あ〜、痛いところを上手に突かれちゃったわけか…」
お市が朱音を大切にする理由は彼女が一度は絶望の中から沢山の人々の手を取って再び生きる力を取り戻した、過酷な現実に打ち勝つ強さを持つが故である。
それは大切な人を失っても、これからを生きていく選択をしたお市にとって似た境遇である存在で、投影対象にもなりうるのだ。
ちょっぴりからかいがいがあって面白くて、細かい気配りもしてくれる子、というのもある。それゆえに小さな背を応援したい気持ちも、お市にとっての形を変えた『希望』も抱けるのである。
そして朱音が今なお生きて戦場に佇む理由は他でもない『誰かの命を、自らに可能な限り死なせないこと、救うこと』である。これが彼女の生きる唯一の原動力になりうる願い。もしもそれが阻害されたり、禁じられることがあれば……それは、彼女が現に留まる理由がなくなることに等しい。
過去の記憶を失う前の彼女と、生きる事を選んだ今の彼女。人生の境目に立ち、それでも相も変わらず過去の執着は消えない。大きく変わった事は、過去と同じように未来をも受け入れるようになったということ。新たな関わりを求めるようになったことである。
「市にはね、朱音がすごくかっこよく見えるの。あんなに小さくて脆いけれど、信じるものに従って生きることを選んだ強さを持ってるから…」
「うん、」
「でも、それがとうとう朱音自身を取り返しのつかないくらい傷つけるようになってしまって………、でも止めてしまえば、あの子の生きる理由から遠ざかってしまう…」
「………」
「死なせたくないの、諦めたくないのに…っ」
まるで二つの意思に板挟みになって身動き一つ取れないでいるようだった。それほどにかつての朱音を覆った喪失は心が捻じ曲がるほどに深く、重いものであるのだ。
(辛い思いを沢山して、今日まで生き抜いてきた。けれど今も解放されるどころか……)
その過去は彼女を作り上げた全てであり、揺らがぬ事実。過去である事実が次の未来を決める。
「おまはんが、おいの気配に気づいたように、おいもおまはんお気配が気になったんじゃ」
先に名代の務めにある幸村がお館様からの伝言の由を伝え、薩摩一党の助力を得るための交渉をした。
以前の薩摩で起こった事態を知らぬ朱音は双方の話の内容から推測を立てるしかなかったが、どうやら今この薩摩の地にいる多くの武者、領民たちは過去の織田信長による襲撃によって命からがら生き残った者や、あるいは豊臣や毛利からの重圧や待遇についていけなくなった者々が集まった場所らしい。
つまりは元々暮らしていた土地を追われて逃げてきた寄せ集めの集団であるとのことだ。この場に同席している武蔵も一時的に身を寄せているだけで、基本的には常に日ノ本を渡り歩いているそうだ。
それゆえに今すぐに団結し、一丸になって大きな勢力に対抗できる力が作り出せるとは言い難い、そう島津は幸村に説明した。
対し幸村はそれでも諦めはしなかった。同盟を組んだ豊臣と毛利の軍勢に天下を渡さぬためにも東の各国と西に位置するこの薩摩の群との協力によって挟み撃ちにする一手を成り立たせねばいよいよ豊臣に対抗する手立てがなくなる事を述べた後、ひとまず今この場にいる、幸村が率いてきた甲斐の軍勢は薩摩の集団の戦力に加えてもらい、その上で豊臣と毛利に対抗する助力になることを約束した。
そうして話が落ち着いた時に不意に島津が幸村を通じて呼びつけた朱音に話を振った最初の言葉が先の通りだ。
これまでの戦事との自身の関連性はあまり伺えなかった。大局の話から突然に個の話題に切り替えられ、妙な間に朱音は困惑を隠せなかった。
「そう緊張せんでもよか。おいは幸村どんの助けになると思うておまはんも呼んだんじゃ」
「「助け…?」」
二人揃って同じ方向へ首を傾げ、声まで揃ったのが面白かったのか島津は例のごとく快活に笑ってみせた。武蔵もまじまじと二人の顔を覗き込んできた。
「おめーらきょうだいなのか?」
「ち、違いまするぞ!」
「ふーん、でもなんか似てね?」
「そう、おまはんらは根本の魂がよう似ちょる。己が信念に殉じる性質がようわかる。故に、朱音どん」
ゆっくりとどこか見守るような視線が向けられて朱音は黙ってその瞳を見つめ返す。彼の中に潜むとある恐れや後悔にも似た感情を宿していることは勿論気づいていた。
「現で生きるにゃ、それに殉じるだけでは足りぬ事を知りよるね。それに、おまはんは人の弱さもよう理解しちょる。残された者の痛み、………それを己の象徴として立っているようにおいには見えた」
織田による襲撃で痛手を受けたもののそれまでは島津軍を率いていた大将である。
戦を先導する者として負うべき定めがありそれがまた運命となる。戦をする度に散る無数の命。そして残された大切な人の帰りを待つ人々。島津にとっては朱音が、自らがどうしようもない、覆らない現実を作り出した《犠牲者たち》が戦う力を携え彼の目の前に現れたように見えていたのだ。
時に残された人々に恨まれてでも歩みを止めてはならない。夢に描く理想を実現するためにも、立ち止まっていては何も意味もなくなってしまう。
今まさにその悩みの真っただ中にいるのが、幸村であることを島津は察していたのである。
「島津殿…」
「甲斐の虎の若子。紅蓮の鬼……確かに幸村どんの噂は以前より耳にしちょったが…どうも少しばかりそれとは様子が違うからの。この薩摩に来るまでに何事かあったんね?……よけりゃ、朱音どんとこのおいに話してみんね」
「………おっしゃる通り、某は、なにゆえ、この槍を戦場で振るい続けているのか、………それが、わからなくなっているのでござります」
砂浜で目を合わせた彼の中に灯った、それまで存在していなかったはずの、戦においての強い悩みの色。命取りになりかねない暗い色。朱音が先ほど察した事を幸村は自ら打ち明けた。
「このような話をしてしまい信用を損ねてしまわれるかもしれませぬが……、某は此度の遠征で初めて一軍の統率と指揮を任されもうした。なれど己の『立場』に相応しい行動ができず、諌めてくれた者をはじめお預かりした兵の半数を失い申した」
槍を振るうのも進軍することも、全ては天下泰平のため、人々の平穏のため。この遠征での幸村の判断と行動は『人として』は正しくはあったが、しかし統率者として、お館様の名代としては誤っていた。彼の信念が現実と不和をきたし仲間の死という形で返ってきた。信念も与えられた役割もどちらも最終的な目標は同じであるはずなのに、噛みあわなかった。矛盾が生じていたのだ。
厳島の地、朱音と再会するその直前。小助が推測を立てたように幸村は豊臣と相対し窮する長曾我部軍に助力しようとした。名代の役割から離れ、しかしながら両軍の全面戦争である所に武田軍の一派が介入したところで勝敗が覆るわけがなかった。゛見過ごすことは出来ぬ゛と、ただ彼の個人的な意志で戦場に乗り込んだ。
これまで共に行軍しそれまで彼を諌めた小山田信繁という人物がいた。彼は幸村の見過ごせないというあくまで個人的な意志を聞き入れ、終には共に戦いその場で命を落とした。それを知るや否や、幸村は長曾我部への加勢への進撃を止め小山田に駆け寄った。
結果として務めを果たせず、意志も半ばで諦めた。矛盾が最悪の現実を招いた。
何のために戦えば良いのか。絶えぬ犠牲を背負いながらも進むだけの信念が本当に己の中にあるのか。苦悶に沈む幸村は俯いて事の次第と心情を吐露した。
「……朱音どんは、おいらと交じらぬ生き方ばしようとも、ひとつの《芯》ば持っちょる」
「それが幸村を助ける手立てになると、」
「自分でも気づいとんじゃなかね?」
「……わかりませんが、今の幸村に伝えたいことは、確かにあります」
勿論幸村は朱音を凝視する。先ほどと同じように、合わさった瞳の中の色を確かめるべく。けれどもやはり明確には察することはできない。
辛うじて、感情で表すとすれば……《怒り》に近いだろうか。
(朱音が何を思うておるのか、わからぬ……)
初めて会ったのは記憶が欠落し果てしなく精神が幼児退行していた時の姿だ。記憶を取り戻す経過を目の当たりにしても、初期の印象も相成り今でもまだ同一視しきれない一面も存在する。ならば幸村がそう考えた一面が今の朱音の様子の大部分ということになるのかもしれない。それゆえにいまいち理解ができずにいるのではないか、と彼なりに考えを巡らせてみせた。
残念ながら、その推測は事実とは大きく外れていた。
朱音は武田に居た頃より胸に宿した想いは今も変わらず、形も変えずその心の内にあふる。
今も彼女は、この瞬間を生きる少女を創りあげた、原初の感情に従っているにすぎなかった。
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