4.おもかげ
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薄暗い夜。月のかすかな光がなければ周りを見渡すこともできない。
冷たい風がサラリと吹き抜けていく。
いい加減この空間に慣れてきてしまい、この場所の音や空気をすっかり覚えてしまっていた。
だからこそ、異常があればすぐに反応できる。
「……だれ?」
寝起きの頭では新しい気配の正体がわからない。しかし、ここに最もよく訪れていた半兵衛ではないことだけは確かだ。
今日は家康と話ができてどこか安心できたのか、つい深く眠りについてしまっていたようだ。
急いで意識をひきずり起こした時にはその人物は牢の手前に立っていた。
その人物は朱音にとって想定外だった。
「………どうして、ひでよしさん…」
「………」
牢の前に立っていたのは秀吉だった。
先日、朱音の知る過去の彼とは変り果てていることを実感し、もう二度と会うこともできないかもしれないとさえ思っていた。少なくとも彼から自分に会いに出向くなんて有り得ないと。
しかし現実は、今、目の前にいるのだ。
秀吉は何も言葉を発さない。ただ静かに、こちらをじっと見つめているようだ。
彼の目的がわからず、当惑は隠せない。
長くも短い間の後、漸く動いた彼は牢の格子扉の前に屈むと銀色の細長い鉛を取り出した。
――――――それは、この牢の鍵。
朱音が何か言うより先に、錠に鍵を差し込む音が部屋に反響した。
「ここから、出よ」
「どうして…!?」
「先に出よ」
大人しく牢を出ると風呂敷を差し出され、そのまま首から腰へ斜め掛けで巻かれた。
風呂敷の中には捕まった際に没収されていた服や刀が全て収まっていたのはきちんと確認できた。
しかし、唐突な出来事に朱音は秀吉を凝視する。
「この牢を出て南側が一番警備が手薄だ、樹や壁を伝って出られるか?」
「ま、待ってください!どうして、秀吉さん…!」
弱い月光は秀吉の背中に吸収され、彼の表情を朱音は殆ど見ることができない。
確かに先日秀吉がかつてと変わり果てたのは理解した。だからこそ自分はどうすれば以前のように戻ってくれるのかずっと考えたりもしていた。
実際に今、目の前にいる秀吉の気配はかつてのものとは違うままだ。
………いや、確かにかつてのものとは違うが、先日再会した時の気配とも違う。
「お前で、最後だ」
「………、」
「これで、『俺』とは決別す。弱い己は、弱きは、これで」
重々しい声でゆっくりと告げられる。
「今は生きる事を選んだのだろう。ならば、行け」
「……竹中様がお倒れになった今日だから、ですか」
何故今日この時なのか。気になって尋ねた。
すると秀吉がここで初めて表情を大きく変えた様子が窺えた。まさか、知らないでいたというのか。
「それはまことか」
「今日の昼間です。ここで意識を失って倒れて……見張りの方々に連れて行っていただいて、」
「………また、我もあやつを見ておこう」
「おねがいします、秀吉さん」
「あやつは自分の事をあまり我には言わぬ。それゆえ礼を言おう」
「それでも、心配なら心配してもいいのだと思います」
迷いなく告げた朱音は秀吉の知る、誰からの関わりも怯え避けるような弱々しい影はすっかり晴れていた。
そうか、と低く、少しだけ安心したように秀吉は呟いた。お前を変えた者たちは本当に大したものだ、とも心の中で密かに称賛した。
しかし、その『自分』はすぐに打ち砕く。これで終いにするのだと決意を固めて。
「あの、秀吉さん。やはりわたしはここで、あなたが……」
「立場が分かっておるのか。今のお前は己の力以前に『武田に関わりある者』として捕らえられておるのだぞ」
その選択は今のお前にとって一番正しいものか。そう睨みつければ、少女は口を閉じ複雑そうに眉間に皺を寄せた。
逃がす、という選択ができたのはこの二人の距離間によるもの。これ以上近く、あるいは離れていたらこの現状は生まれていなかっただろう。彼女もよく気にかけていた、この娘だからこそだと。
そうして彼は冷徹な雰囲気を纏う。そうして静かに言い放つ。
「我はもう止まらぬ。かつての姿には戻らぬ、決して。この手で殺めた瞬間から。次からはお前も例外ではなくなる」
(おねね…さん……)
理解するしかなかった。時は流れてるばかりで、その境界を越えたものは決して帰ってはこない。
ここにいてはお前の信念は死ぬ。そう言ってくれている。
行きたいのなら余計なことは考えず進みたいように進め、と。
彼の最後と決めた『心』が生を望む少女を逃がそうとしてくれている。
「……ひでよしさん…、ありがとうございます」
「急ぐがよい」
「はい…!―――――でも、」
「諦めないと思います。諦めません、わたしも………慶次も…!!」
そう宣言し、深く一礼すると朱音は牢から走り出した。
************
朱音が牢を走り出た時、確かに入口にいるはずの見張りは誰もいなかった。
きっと秀吉が何らかの手を回して外してくれていたのだろう。自分を逃がすために。
言葉少なに示されたその温かさは、過去の彼の姿が確かに思い起こされた。
つまり、望みが完全に潰えているわけではない。
これで終わりじゃない。機会はまだ必ずある。
『人質』としてではない、ただのろくか、朱音としてもう一度会いに行く。
だから、それまで。今は、
「………これでよかったか、秀吉公」
「手間をかけさせたな、家康」
「別れも言えないのは惜しい事だが、これが朱音殿の手助けになるのなら儂も構わない。しかしこういう命令を皆に出すのは少し心苦しかった」
「もう半刻程の時間は稼ぐ必要がある。だがお前の部下は優秀ゆえ、そう易々と捕まるまい」
「ごもっとも。だが貴公の兵相手の囮役はこれきりにしてもらえるとありがたい」
「案ずるな。これ以上このような真似はせぬ。それにこんなやり方、恐らくあやつ以外では成り立たぬ―――――――あの半兵衛が見込んだという、あやつの実力以外では、な」
「……?」
少女が去った後、牢の前にいる秀吉の前に現れたのは家康だった。
やや苦笑を浮かべながらも、今回の二人の間での突発的な計画について話し合う。
見張りの兵を場から引き離すための手段として。
家康の変装させた部下を《侵入者》として城に紛れ込ませ、豊臣兵を混乱させ暫し警戒をそちらへ向けさせるという小細工を実行していたのだ。
この案を持ちかけたのも秀吉自身だった。
なぜ家康に頼んだのかといえば、昼間朱音と話し、牢を出た直後の彼とその表情を目撃していたためだ。
その時顔を合わせたわけではなく、高所に位置する秀吉の部屋から城内を見下ろした際にそれが目に入っていただけであり、まさに偶然の一瞬が生み出した奇跡に等しい出来事だ。
しかし、実際にこうして彼女を逃がすことができた。
家康は嬉しそうに声を弾ませ、秀吉はゆっくりと瞳を伏せた。
その瞬間、
≪ドンッ!≫
特徴的な銃声が二人の耳に届いた。
ここから南の方角へ、少し離れたところから――――――――
「………あの妙な銃声は、お前の部下のものではないのか、家康」
「う、わわ!た、大変だ!あいつ、朱音殿が侵入者だと誤解しているかもしれん!!」
今回の極秘作戦は一部の部下にしか命じていない。そのため偶然居合わせた事情を知らない身内に誤解を招いてしまったらしい。
言うがはやく、家康は銃声の方へと走り出した。
*****************
(なに、今の変わった銃声…)
(わたしを狙ってる……!)
耳慣れたはずの銃声の耳慣れない音が鼓膜を震わせた。自分の側に生えていた頑丈そうな太い樹木が目を疑うほど大きく軋んだ。
駄目だ。
ここで捕まったり、殺されたりしては元も子もない――――――――――――――!!
≪走れ、走れ!!!≫
意識を強制的に身体機能に集中させ、走る速度を弾きあげた。
しかし、
ドン!、ドォン!!と派手な音を立てながら速度を上げたはずの自分の側に立ち竦んでいた樹々や城壁が悲鳴を上げていく。
どうやら相手方はかなり性能のいい銃を使っているようで威力どころか飛距離もかなりあるもののようだ。
(こんなに連射しているのに、狙いが外れる気配も全くない…!)
ならば敵は複数なのか。豊臣軍はこんな段違いの鉄筒を大量に所持しているというのか。疑問を確認する余裕はない。
少しでも立ち止まってしまえば次に悲鳴を上げるのは間違いなく自分だ。
とにかく振り切らなくては。秀吉が助けてくれた命を無駄にする気などありはしない。
そう考えると朱音はあえてより樹々や障壁となる建物が混在する方へ蛇行しながら進んでいった。
やがて終壁が見えてきた。側に一本の木が生えているので、それを頼れば出られそうだ。
その銃声は気づいた時には止んでいた。しかし次がいつまた来るかはわからない、一瞬たりとも気は抜けず、木登りで手間取っている余裕はない。朱音は秀吉から受け取った自らの骸刀を素早く引き抜いた。
壁に接するように立っていた木の幹に一気に突き刺した。そのまま手首の力に集中し一瞬で身体を宙に舞わせる。
浮き上がった身体を一回転させながら飛び上がり、刺さったままの骸刀の柄に足を掛け更にもう一段高く跳ぶ。次の接地面の幹を踏み込むようにもう一歩蹴り上がると、手を伸ばし壁の屋根瓦を捕まえた。
時を数瞬かけるだけで済んだ。
しかし樹に全力で刺した骸刀を引き抜く余裕はない。間を置かずして屋根の上へ飛び移った。
「――――――――――――――――…がッ、止まれッ!!」
追手の声が耳に入り、振り向くことも出来ないまま朱音は壁から外へ飛び降りた。
てっきり、外に出ればすぐに地面に着けると思っていた。
しかしそこに足場にはなく、真下の視界には遥か下方で大量の深い水が広がる水面の光が見えた。
途端に身体が想像以上の重力に激しく引き寄せられる。
そうだった、城下町に案内される時に見ていたはずだった。
この大坂城は広い広い水堀に囲われた城だったのだ。
―――――――こんなの、どう対処しろというのだ!
************
ハッと思い出して驚愕に表情が染まった。
「―――――――――水だッ!!!」
「………」
「そうじゃないか!この城の周りには全て堀の水が!!」
何故忘れていたんだ儂!!と家康の顔色が青ざめた。
まさか秀吉公の言っていた『あの半兵衛が見込んだあやつ』というのはこのことなのか!?と激しく頭を抱える。
「そんな無茶な…!…朱音殿ッ!朱音殿は……ッ!!」
「だから止めたんだよ…!ばかが…ッ」
**************
声にならない叫びが身体を貫く。
このまま水に落下して、水面に叩き付けられて、溺れてきっと死ぬ。
(死ねば、ぜんぶ、ぜんぶ終わっちゃう!!)
「う、が、ァああ゛ッ!」
衝撃で肩が持って行かれるかと思った。
積み上げられていた城を支える石垣の隙間に一か八かで左手を掛けることができた。
乱れ乱れた呼吸を何とか抑えながら、腕で支えきれなくなる前に他の手足も積み石の隙間に入れ体勢を安定させた。
改めて見るととても高い。高すぎる。
さて、どうやって抜け出せばいいのだ。
恐る恐る周りを見渡すがやはり何も他に助けになるものはない。
このまま落ち…下りるしかないのか、
と再び視線を落とすと、
自分の落下予定地点から少し離れたところに小さな木製の小さな塊が繋ぎ止められているのが見えた。
「……あれは、船…?」
そして、そちらへ向かうよう慎重に降りて行くにつれて確認できたその塊は確かに木船で、ご丁寧に漕ぎ板まであった。
小舟に乗って水堀を渡り、そこからまた積み石の壁を登り上げて、漸く朱音は大坂城からの脱出を成功させることができた。
ここまでの所要時間は約半刻。
かなり、いやむしろ度を越したスリリングな体験だった。
だからといってここで休むわけにもいかず、今更恐怖で震えだした身体に鞭打ち走り出す。
そして、宵闇の深く深くへと姿を消した。
生きて、生き続けて、まだ己にある希望を手放さない為に。
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