デモンズ・レター

 翌々日の、昼と夜の隙間の時間。

 芹那はいつもより少しだけ早く夜の出勤準備を整え、クローゼットの横にある重厚な観音開きの扉の前に立っていた。

「よし、今なら大丈夫」

 そっと扉を引き、鏡の水面に指先を触れさせる。伝わってくる気配は驚くほど静かだった。

 いつもなら部屋の空気をピリピリと引き締めている、あの大悪魔の厳格で威圧的な気配が、今は綺麗に消えている。

 留守を確信した芹那は小さく微笑むと、手に入れたばかりの人間界の無添加ジャーキーを手に、観音開きの扉を完全に左右へと引き開けた。

 鏡の水面がゆらりと揺れる。

 向こう側に広がるカルエゴの書斎は、予想通り主の姿はなく静まり返っていた。しかし、芹那が顔を覗かせたその瞬間、待っていましたと言わんばかりに、部屋の隅の暗がりから金色の巨大な影がドサドサと弾むような足取りで駆け寄ってきた。

 三つの頭を持つ巨大な魔獣、ケルベロスだ。

「こんにちは。今日もいい子でお留守番してた?」

 芹那が声をかけると、ケルベロスは三つの頭の耳をピシッと立たせ、「フスフス!」と嬉しそうに鼻を鳴らす。

 主人がいる時には決して見せない甘えきった態度で、真ん中の頭が鏡の水面に鼻先をぐいと押し付け、左右の頭が芹那の手元を興味津々で見つめている。

「これ、カルエゴさんには内緒ね」

 昼間の仕事の休憩中に買っておいたジャーキーを差し出すと、真ん中の頭が彼女の手先を傷つけないよう、ものすごく慎重にハフリとくわえ取った。左右の頭が「ずるい!」とばかりに真ん中の頭にじゃれつく。

「ふふ、美味しい? よかった」

 芹那はすぐ目の前にいるケルベロスへと手を伸ばし、一番近くにあった右側の頭の耳の付け根を、慣れた手つきで優しく掻いてあげた。

「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」と、地響きのような甘え声が書斎に響く。三つの頭の目が一斉にトロリと細められ、ケルベロスは完全に芹那の手の平に大きな体重を預けていた。

 あの気厳しい主人の前では常に緊張感を持っているだろうに、こうして主の留守を狙って部屋にやってくる芹那の前では、完全にただの巨大な甘えん坊の犬だった。

 ――あ。

 突如、芹那の手がピタリと止まった。
 
 ケルベロスの三つの頭も、同時にギクッと硬直する。

 静まり返っていたはずの書斎のドアが、音もなく開いていた。そこに、大量の書類を抱えたナベリウス・カルエゴが立っている。

 
 バチッ、と。

 部屋の入り口から放たれた鋭い紫の瞳が、鏡の前にへたり込んで人間の女に完全に懐いている我が魔獣の姿を、真っ正面から捉えた。重苦しい沈黙が、一瞬にして書斎を支配する。

「……貴様ら、何をしている」

 地を這うような、極限まで低く不機嫌な声音。カルエゴの額には、瞬く間にピキピキと恐ろしいほどの青筋が浮かび上がっていく。

「あ、こんばんは、ナベリウスさん。今日はお帰りが早いんですね」

 セリナは一瞬でいつもの完璧な「優しそうな笑顔」を貼り直すと、ケルベロスの頭を撫でた体勢のまま、何事もないようにお辞儀をした。そのあまりの心臓の強さに、カルエゴの眉間の皺がこれ以上ないほど深く刻まれる。

「こんばんは、ではない!!! 貴様、我が留守を狙ってコソコソと他人の部屋に忍び込み、ケルベロスに一体何を仕込んでいる!!!」

 カルエゴの怒声が書斎に響き渡り、抱えていた書類がデスクに叩きつけられた。

 その迫力に、ケルベロスは完全に平伏し、三つの頭を床に擦り付けんばかりにして「くぅん……」と情けない声を漏らす。だが、口元からは証拠隠滅に失敗したジャーキーの端っこがはみ出ていた。

「いえ、仕込むだなんて滅相もないです。ただ、このワンちゃん、カルエゴさんがお仕事でいなくて寂しそうだったので。ちょっとお肉をあげて、触れ合っていただけです」

「ワンちゃんと言うなァ!!! そして触れるなど万死に値する!! これはナベリウスの血統たる誇り高き上位魔獣だ! 貴様のような脆弱な人間の二枚舌に、おねだりして尻尾を振るような駄犬では……おい、こら、止めんか! 尻尾を振るな! 誇りを持て!!」

 カルエゴが激昂する傍らで、ケルベロスは怒られているにもかかわらず、セリナの方をチラチラと見ては嬉しそうに尾をブンブンと振っていた。完全に形勢を逆転され、人間の女に胃袋も心も掴まれた愛犬(魔獣)を前に、大悪魔のプライドは完全にへし折られかけている。

「これ、今日のお肉の代金……あ、いえ、お邪魔した分の『等価の清算』です。どうぞ」

 セリナはカルエゴの怒声を涼しい顔で聞き流しながら、手に持っていた残りのジャーキーの包みを、鏡の水面を越えて彼の足元へと、すっと綺麗に滑り込ませた。

「貴様……! どこまで傲慢で不遜な……っ」

「ふふ、おやすみなさい、ナベリウスさん」

 カルエゴが足元の包みを睨みつけ、怒りで顔を逆上させた瞬間、セリナは流れるような動作で観音開きの扉をパタン!と閉めた。
硬い音が響き、人間界の自室に極上の静寂が戻る。

「……ふう。やっぱり、カルエゴさんに見つかるとちょっと騒がしいな」

 最後まで尾を振り続けていた巨大なワンちゃんの姿を思い出しながら、彼女は夜の街へと出勤するために、そっとバッグを持ち上げるのだった。
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