デモンズ・レター

「……遅い、人間」

 開口、飛んできたのは冷徹な声音だった。罵声というよりは、規律を破った部下を厳しく追及するような、いつもの彼らしいトーンだ。

「あはは、すみません。仕事がちょっと長引いちゃって。……でも、もうすっかり元気そうですね、ナベリウスさん」

 芹那はカバンを床に置き、いつもの事務的な、けれどどこかタフな余裕を感じさせる笑みを浮かべて鏡に顔を近づけた。

「ふん。悪魔の強靭な肉体を、貴様のような貧弱な人間の基準で測るなと言ったはずだ」

 ナベリウスはフンと鼻を鳴らし、これ見よがしに指先をパチンと鳴らした。

 彼の背後の影から、あの金色の三つ首の魔獣が音もなく姿を現す。

 数日前のような衰弱は見られず、燦然とした金色の毛並みを取り戻した魔獣は、セリナを一瞥すると、今度は威嚇することもなく、主人の足元で静かにその巨体を伏せた。

「……あ、そう言えば、サイドテーブルに置いておいたもの、ちゃんと全部片付いてましたけど。お口に合いました?」

 セリナが淡々と、しかし確実な事実を確認するように問いかけると、ナベリウスは一瞬だけ、嫌そうな顔で眉間を深く寄せた。

「……貴様が勝手に置いていった、あの得体の知れない白い泥のようなものと、すり潰した果実のことか。
……魔界の食物とは似ても似つかぬ、実に締まりのない、ふやけた味だった」

「手厳しいなぁ。あれ、人間界では定番の看病食なんですよ? まぁ、エネルギー補給にはなったみたいで良かったです」

「黙れ。不届き者が。……他者の域に無断で立ち入り、あろうことかこの私にあのような軟弱な真似を施したのだ。その不遜な態度、到底見過ごせるものではない」

 ナベリウスは腕を組み、冷徹な視線をセリナに突き刺す。その奥底には、いつもの「規律」を重んじる厳格な大悪魔としてのプライドが、完全に守られた状態で存在していた。

「人間の物差しで私を測るな。……だが」

 彼はそこで一度言葉を切り、ふいと視線を書類へと戻した。

「……貴様が持ち込んだ、あの額に貼る奇妙な冷たい紙切れの機能性だけは、……認めんこともない」

 ぶっきらぼうに、しかし極めて事務的に事実だけを告げるその口調。

 芹那は「それは光栄です」と、感情を挟まないいつもの冷静な笑みを返し、夜の街での厳しい戦いを終えた後の、短い休息の時間を鏡の向こうの悪魔と共有し始めるのだった。

「あれ、まだ人間界の自室にストックがありますから。次にまたその『周期』とやらで倒れることがあれば、鏡越しにでも投げ込んであげますよ」

「……断る。二度も不覚を取るつもりはない。貴様の世話になるなど」

「まぁ、そう言わずに。また無様な姿を見せられたら、私だって後味が悪いですからね。
……それじゃ、私は明日も早いので、今夜はこれで失礼します」

「……ふん。疾く去れ、二枚舌」

 ナベリウスは顔を上げることすらなく、ただペンを動かしたままぶっきらぼうに告げた。

 その徹底して突き放した態度が、むしろ彼にとっての「日常」が完全に戻った証拠だった。

「はいはい。おやすみなさい、ナベリウスさん」

 セリナが鏡から離れようとしたその時、主人の足元に伏せていた金色の三つ首の魔獣が、ふっと三つの頭を同時に持ち上げた。魔獣は鏡の向こうのセリナをじっと見つめ、喉の奥で、威嚇ではない、どこか静かな地鳴りのような音を一度だけ鳴らす。

 まるで、去りゆく人間に対して、彼らなりの奇妙な礼を告げるかのように。

芹那はそれに気付き、魔獣にだけ、小さく手を振った。


 カリカリと書類を捌く音が、夜更けの部屋に虚しく響く。

 カルエゴはついにペンを置くと、椅子から立ち上がり、重い足取りで寝室の奥へと向かった。

 一糸乱れぬ漆黒の衣服が並ぶ衣装棚。そのすぐ隣に、重厚な装飾が施された、観音開きの鏡が静かに佇んでいる。

 普段の彼であれば、用もないのに他界へ繋がる境界を開くなど、規律に反する行為として絶対に許さない。だが、あの夜から数日、鏡の向こうからの気配は完全に途絶えたままだ。

「……チッ」

 不機嫌極まりない顔のまま、カルエゴは衣装棚の隣に立ち、その観音開きの扉に手をかけた。

 他者に「借り」を作ったままにされるなど、ナベリウスのプライドが許さない。

 ただ、きっちりと不本意な清算をするために、相手の生存を確認するだけだ――己にそう厳格な言い訳をしながら、彼は迷いなく扉を左右に引き開けた。

 現れた鏡の水面を、紫の瞳で鋭く睨みつける。

 しかし、映し出された人間界の自室は、ひっそりと静まり返っていた。

 主の姿はない。

 それもそのはず、セリナは今、欲望の渦巻く夜の街で、ホステスとして男たちを相手に大金を稼ぎ出している時間帯なのだから。ふいと視線を落とした。

 デスクの上には、魔界の厳選された最高級の茶葉や、滋養のある品が、いつでも投げ込めるように無造作に置かれている。

 これを持たせて「二度と無断で立ち入るな」と言い渡してやるつもりだったのに、肝心の相手は、悪魔のことなど頭の片隅にも置いていない。

 完全に、調子が狂う。

 カルエゴは苛立ちを隠さぬまま、勢いよく観音開きの扉を閉め、パタンと硬い音を響かせた。

 これほどまでに己の規律とプライドを揺さぶってくる人間の女を、彼は忌々しく思いながらも、どうしてもその動向を気にせずにはいられないのだった。


 その翌々日の深夜。

 パタン、と重い音を立てて、芹那は玄関を開ける。

 ホステスとしての完璧な「優しそうな笑顔」の仮面を外した彼女の顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。昼の事務作業からそのまま夜のシフトへなだれ込む生活が数日続き、体力は限界に近かった。

「……さすがに、ちょっと働きすぎたかな」

 小さく息を吐きながら、衣装棚の前へ歩み寄る。

 コートのファスナーに手をかけたその時、ふと、隣にある観音開きの鏡の前に、見慣れない「物」が転がっているのが目に留まった。

 フローリングの床の上に、ぽつんと置かれた、魔界特有の禍々しくもどこか厳かな装飾が施された小さな漆塗りの箱。

「……あれ?」

 芹那は眉をひそめ、膝をついてそれを拾い上げた。

 蓋を開けると、中には見たこともないほど深く美しい、しかしどこか怪しい光沢を放つ茶葉と、小瓶に詰められた怪しげな、けれど妙に澄んだ琥珀色の液体が入っている。

 それを見た瞬間、セリナはすべてを察した。

 あの頑固で厳格な大悪魔が、わざわざ自分の部屋の衣装棚の隣にある観音開きを開け、誰もいないこの部屋にこれを放り込んできたのだ。

「ふふ……本当に、どこまでも……」

 芹那の口元に、ほんの少しだけ心からの呆れが混じった笑みが浮かんだ。

『これで貸し借りなしだ、二度と立ち入るな』

 そんなぶっきらぼうな小言が、その箱から透けて聞こえてくるようだった。扉を閉めたカルエゴの、苦虫を噛み潰したような顔がありありと目に浮かぶ。

 その箱を大切に机の上に置くと、少しだけ心が軽くなったのを感じながら、クローゼットへと向かった。

 芹那はふっと息を吐き、机の上の漆塗りの箱をもう一度見つめた。

 あの悪魔が、誰もいない人間界の部屋にわざわざこれを放り込んできた。その光景を想像するだけで、彼の持つ「規律」の頑固さと、妙な生真面目さが伝わってくる。

(わざわざ私のいない時間を狙って開けたのかな……)

 いつもの「優しそうな笑顔」の裏で、芹那の頭はどこまでも冷静に、そして現実的に回っていた。

 カルエゴが鏡の向こうでどれほど苦虫を噛み潰していようと、彼がわざわざ自分の世界の境界を開き、この箱を落としていったという事実は変わらない。彼なりの、徹底的に不器用でプライドの塊のような「清算」の形。

箱をクローゼットの棚の奥へと静かに仕舞い込んだ。

「さて、明日も朝からデータ入力だし。……寝よ」

 ドレスをハンガーにかけ、いつもの地味なスウェットに着替える。

 ベッドに潜り込み、部屋の明かりを消すと、一瞬で深い静寂が部屋を満たした。

 魔界の大悪魔から届いた、禍々しくも確かな配慮。それすらも過密な日常の背景へと仕舞い込み、芹那は明日もまた、昼のオフィスと夜の街を生き抜くために、泥のような眠りへと落ちていくのだった。


「……あ、美味しい」

 少しだけ早く帰宅できたセリナは、さっそくあの禍々しい漆塗りの箱を開けていた。

 小瓶の琥珀色の液体を一滴垂らした水は、驚くほど身体の芯に染み渡り、ここ数日の泥のような疲労を一瞬で吹き飛ばしてくれた。

 さらに、恐る恐る淹れてみたあの怪しげな光沢の茶葉は、人間界のどんな高級茶にもない、深く、それでいてすっきりとした極上の味わいだった。

「すごいな。普通に、ものすごく良いものじゃない」

 芹那は温かいカップを両手で包みながら、ふふ、と喉の奥で笑った。最後の一滴までお茶を飲み干すと、身体も心も驚くほど軽くなっていた。

 おっとりとした「優しそうな笑顔」の奥で、芹那はふっと、クローゼットの横にある重厚な扉を見つめる。鏡の向こうの不器用な悪魔に、次に会ったらなんて言ってやろうか――そんなことを考えながら
6/8ページ
スキ