デモンズ・レター

 その夜、鏡を開いたセリナは、いつもの罵声が飛んでこないことに違和感を覚えた。

 暗い部屋。
 デスクに突っ伏したまま、荒い息をついている人影がある。

「……ナベリウス、さん?」

 鏡を開いた瞬間、セリナの背筋に冷たい緊張が走った。

 いつもなら「また貴様か」「不躾に覗き込むな」と冷徹な罵声が飛んでくるはずの暗い書斎は、今夜は酷く静まり返っている。

 月光すら遮られたデスクの前に、ナベリウスが深く上着を着込んだまま、突っ伏すようにして倒れ込んでいた。

「ハァ、……ッ、……く、……」

 静寂を破るのは、彼の喉から漏れる、酷く苦しげで荒い呼吸の音だけだ。

 いつも一糸乱れぬ様子で整えられている黒髪が乱れ、机に投げ出された指先が、何かを耐えるように固く握り締められている。

「ちょっと、大丈夫ですか!? ナベリウスさん!」

 セリナは思わず画面に顔を寄せ、声を張り上げた。

「――何とかしなくちゃ」

 その一心だった。画面の向こうで苦しそうに呼吸を荒らげるナベリウスの姿に、セリナは気がつけば、鏡の表面へ縋り付くように両手を伸ばしていた。

 ただ、少しでも彼の状態を近くで確かめたかった。

 冷たいガラスの感触を覚悟した次の瞬間、手のひらが、あり得ない感触を捉えた。

 硬い障壁などそこにはなく、まるでぬるい水面に触れたかのように、指先がするりと鏡の向こうへ沈み込んだのだ。

「え……?」

 驚く暇すらなかった。

 水面へ真っ逆さまに落ちていくような、奇妙な浮遊感。

 引き摺り込まれるように、彼女の身体は一瞬にして鏡の境界線を越え、その冷たい暗闇へと吸い取られていく。

 視界が激しく歪み、反転した。

「――っ!」

 ドサリ、と重たい音がして、セリナの身体は固い床の上に投げ出されていた。

 咄嗟に床に突いた手のひらに、妙にひんやりとした感触が伝わる。

 慌てて顔を上げると、漂ってきたのは、人間界の自分の部屋には絶対にない、古びた紙と未知の香料が混ざり合ったような、重厚でどこか厳格な気配。

 目の前には、大きな木製のデスク。

 そしてその上には、先ほどまで画面越しに見ていた、荒い息を吐きながら突っ伏している黒い人影があった。

「嘘……」

 芹那は自分の手を、そして周囲を見回した。

 間違いない。ここは画面の向こう側――魔界だったのだ。

 ハッと我に返ったセリナは、すぐに床を蹴ってデスクの傍らへと駆け寄った。

「ナベリウスさん! 大丈夫ですか!?」

 応えはない。突っ伏したままの彼の肩に触れると、上着の上からでも信じられないほどの熱気が伝わってきた。

 まるで、肌のすぐ下で炎がパチパチと爆ぜているかのような尋常ではない高熱だ。

 慌てて周囲を見回したものの、魔界の書斎にあるものは、奇妙な形の薬瓶や不気味な模様の魔術書ばかりで、何が何だか正直よくわからない。

(悪魔の生態はわからないけど、この高熱を放置したら絶対に危ない……!)

 芹那が声をかけた瞬間、ナベリウスの背後の影がぐにゃりと歪み、巨大な異形が姿を現した。

 燦然たる金色の毛並みを持ち、三つの恐ろしい頭を持つ大きな魔獣――。

 それが、高熱で倒れた主人を守ろうとするかのように、獰猛な牙を剥き出しにしてセリナを激しく威嚇した。

 部屋の空気がビリビリと震えるほどの凄まじい圧迫感。並の人間ならその場にへたり込んで恐怖するような光景だ。

 しかし、セリナは怯まなかった。

 夜の街で狂暴な人間の本性を見慣れているタフさと、目の前の命を救おうとする真っ直ぐな意志が、彼女の足を一歩も引かせない。

「静かに。私はあなたの主人を助けたいだけ。だから、お願い、そこを退いて」

 芹那は魔獣の三つの鋭い眼光を正面から見据え、毅然とした声で言い放った。

 その一切の害意がない、しかし絶対に引かない強い瞳に気圧されたのか、あるいは主人の命を救うための行動だと理解したのか、巨大な魔獣はなおも低く唸り声を上げつつも、ゆっくりと、主人のベッドを譲るようにその巨体を引いた。

(よし、話がわかる子で助かった……!)

 セリナは内心でホッと息を吐くと、すぐに人間界の自室から抱えてきた救急セットを広げた。

 まずはナベリウスの額に冷えピタをパッと貼り付ける。

 悪魔の強靭な身体にどこまで効くかは未知数だったが、冷たさに安らぐように、彼が微かに「……ん、……」と息を漏らしたのが分かった。

「……貴様、……なぜ、ここに……」

 熱に浮かされた濁った瞳が、至近距離にいるセリナを捉える。自分の域に人間を入れ込んでしまった動揺でナベリウスの手が微かに震えたが、セリナはそれをものともせず、手際よく衣服を緩めていった。

「お喋りは後です。ほら、上着を脱いでください。汗を吸って冷えちゃいますから」

「待て……、私に、触る、な……ッ」

「頑固なこと言わないの! ほら、動かないで!」

 いつもなら一睨みで周囲を恐怖に陥れるナベリウスだが、今の高熱ではセリナのタフな押しに抗う力は残っていない。

 セリナは人間界から持ってきたお湯でタオルを絞ると、彼の額や首筋、汗ばんだ身体をホットタオルで手早く、しかし丁寧に拭っていった。

 衣服を清潔なものへと着替えさせ、乱れたベッドへ彼をなかば強引に横たわらせる。

「……不遜な、人間め……。私を、誰だと、思って……」

 ベッドに沈み込みながらも、なお消え入りそうな声で規律を保とうとするナベリウス。

 セリナはそんな彼の額の冷えピタを軽くトントンと整えてから、ふっとお姉さんのような笑みを浮かべた。

「知ってますよ。真面目なナベリウスさんでしょう? ……ちょっと、キッチン借りますね。大人しく寝ててください」

 さすがに悪魔の食材を使う勇気はなかったので、人間界のキッチンから持ってきたリンゴを丁寧にすり下ろし、念のために用意したおかゆと一緒にベッド脇のサイドテーブルにそっと備え付けた。

 いつでも水分が補給できるよう、スポーツドリンクを入れたグラスを枕元に置き、セリナは一息ついて彼の寝顔を見下ろした。

 いつも厳格に周囲を威圧していたあのナベリウスが、今は人間界の冷えピタを額に貼って、小さく息を立てて眠っている。

 足元では、先ほどの巨大な魔獣が、主人の容態が落ち着いたことに安心したのか、三つの頭を丸めるようにして静かに伏せていた。

 芹那はそれらを一瞥すると、「よし、これでとりあえずは一安心ね」と、一つの仕事をやり遂げた後のような冷静さで、小さく息を吐き出すのだった。

 芹那はベッドの脇にある椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。

 静まり返った書斎に、規則正しい、けれどまだ少し高めの寝息が響いている。

 額の冷えピタは、彼の尋常ではない熱を吸ってすでに温かくなり始めていた。

 芹那は手際よくそれを剥ぎ取ると、人間界の救急箱から新しいシートを取り出し、手早く貼り替える。その一連の動作に、一切の躊躇も無駄もない。

 足元に目を向けると、三つ首の巨大な魔獣が、貼り替えられた冷えピタを三つの頭でじっと見つめていた。 
 先ほどのような狂暴な敵意は薄れ、今はどこか、主人の看病をする芹那の出方を観察しているようだった。

「これ、冷たくて気持ちいいみたいだから。もうしばらく、そのまま寝かせてあげて」

 芹那が魔獣に向かって淡々と言い含めると、三つの頭のうち中央のものが、理解したように小さく上下に揺れた。

(……よし、これで当面は大丈夫そうね)

 セリナは腕時計に視線を落とした。人間界の時間を見ても、夜の街へ出勤するまではまだ数時間の余裕がある。

 しかし、いつまでも魔界の、それも他人の寝所に居座り続ける趣味はない。熱が下がり始めるのを確認したら、すぐに自分の部屋へ引き上げるつもりだった。

 にしても暇なので、机上の本を読んでいた。時に、ケルベロスに近づき頭を撫でていた。

 それからさらに一時間が経過した頃。

「……ん……っ」

 ベッドの中から、小さな呻き声が聞こえた。

 ナベリウスの長い睫毛が微かに揺れ、ゆっくりと、その紫の瞳が姿を現す。

 先ほどまでの濁った熱は引き、そこにはいつもの、冷徹で聡明な光が戻りつつあった。

「あ、気が付きました?」

 芹那が上から覗き込むと、ナベリウスは自分の額にある「奇妙な冷たい物体」に不快そうに触れ、それからはっきりと目の前のセリナを視界に捉えた。

「貴様……、まだ、いたのか……」

 声はまだ掠れていたが、言葉の芯にはいつもの厳格さが戻っている。

 彼はそのまま身を起こそうとしたが、セリナに肩を冷徹な力加減で押さえつけられた。

「ダメですよ、まだ動いたら。悪魔の『周期』がどれくらいで治るものか知らないですけど、まだ体内に熱がこもってます。大人しくしててください」

「ふん……。他者の寝所に居座り、あろうことかこの私に指図するとは、どこまで不遜な人間だ。……それに、これは何だ」

 ナベリウスが額の冷えピタを剥ぎ取り、忌々しげにそれを見つめる。

「人間界の冷却シートです。それから、そこのサイドテーブルに『すりおろしたリンゴ』と『おかゆ』を置いてあります。口に合うか分からないですけど、水分とエネルギーは補給した方がいいですよ」

 ナベリウスは、セリナと、机の上の白い食べ物を交互に見つめた。

「だって、目の前で動けなくなってる人を放っておくほど、私、非効率な人間じゃないですから。冷たいままで処理を終えた方が、後味が悪くないでしょう?」

 セリナは悪びれもせず、淡々と言い返した。

「…………」

 まただ。

 ナベリウスは、己の喉がふっと詰まるのを覚えた。

 昼の事務職の無害な顔の裏に、夜の街のタフさを隠し持ち、そして今、こちらの『厳格さ』の奥底にある本質を、あまりにも真っ直ぐに、冷徹なまでの確信を持って肯定してくる。

 完全に、調子が狂う。

 ナベリウスはふいと視線を逸らし、苦虫を噛み潰したような顔のまま、ぶっきらぼうにすりおろしたリンゴの器へ手を伸ばした。

「……チッ。やはり貴様とは、会話の前提が成立せん。ふやけた頭で、他者の都合を勝手に美化するなと言っている。……不愉快だ」

 そう吐き捨てて、彼はスプーンを口に運んだ。

 初めて口にする人間界の食べ物のはずだが、眉間によった深い皺はそのままに、淡々と、しかし確実にそれを咀嚼し、飲み込んでいく。

 セリナはその様子を、感情を挟まない事務的な視線で見届けていた。

 スプーンが器とぶつかる小さな金属音だけが、静かな書斎に響く。高熱のわりには食欲も落ちていないようで、これならもう自分がここに残って手を貸す必要はなさそうだと判断する。

「口に合ったなら良かったです。ポカリスエットもそこに置いておくので、後でちゃんと飲んでくださいね」

 セリナは立ち上がり、持ってきた救急箱の手際よい片付けを始めた。使ったタオルや余った冷えピタをカバンへと収めていく。
 その無駄のない動作を、ナベリウスはスプーンを動かす手を止めぬまま、冷徹な紫の瞳で見つめていた。

「……もう帰るのか」

「ええ。熱のピークは過ぎたみたいですし、私も夜の仕事の準備がありますからナベリウスさんも、お大事に。次は元気なときに、またいつもの小言を聞かせてください」

「ふん……」

 ナベリウスはそれ以上言葉を返さず、器をサイドテーブルに置くと、酷く不機嫌そうにベッドの背へ深く寄りかかった。余計な口を利く余裕など、まだ彼には残っていないのだろう。

 セリナは「じゃあ、失礼します」とだけ言い残し、迷いなく鏡の水面へと足を一歩踏み出した。

 身体が再び人間界の自室へと吸い込まれていく感覚の中、最後に振り返った魔界の部屋では、金色の三つ首の魔獣が、主人のベッドの脇で静かに、けれど確実にセリナの去り際を見送っていた。


 カラン、と静かな音を立てて、セリナの身体は自分の部屋の床へと戻ってきた。

 さっきまでのひんやりとした重厚な空気は消え、見慣れた人間界の自室の匂いが鼻をくすぐる。手元に残ったのは、少し軽くなった救急箱と、片付け忘れた空のペットボトルだけだ。

「よし、切り替え、切り替え」

 パン、と両手で自分の頬を叩き、セリナはクローゼットへと向かう。

 昼間の事務職としての「無害な顔」はもう終わりだ。これからは、欲望が渦巻く夜の街で、したたかに、そしてハングリーに金を稼ぐホステルとしての時間が始まる。

 鏡に映る自分の顔は、さっきまで魔界で大悪魔を看病していたとは思えないほど、いつも通りに冷静で、大人の男をあしらうための笑みを浮かべ始めていた。
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