デモンズ・レター

 魔界の傑物集う悪魔学校バビルス。

 その5年生であるナベリウス・カルエゴにとって、その日は最悪の『悪周期』だった。

 悪魔の破壊衝動が高まり、本能が理性を塗りつぶそうとする、呪わしい期間。

「……くっ、これしきの……魔力……ッ!」

 私邸の奥深く、一人の時間を求めて自室にこもったカルエゴは、溢れ出す濃密な魔力を抑え込もうと椅子の背を激しく握りしめていた。

 ドクドクと脈打つ紫色の魔力の奔流が壁を揺らし、お気に入りの調度品を悲鳴のようにきしませる。

 ――そのときだ。

 部屋の隅に置かれていた、黒いオーク材の姿見が不気味に共鳴を始めた。

 枠に彫り込まれた蔦の紋様が彼の魔力を むさぼるように吸い取り、禍々しい輝きを放ち始める。

 扉は完全に閉じられているというのに、鏡面から溢れ出す未知のエネルギーが、内側から重厚な観音開きの扉を激しく叩いた。

 ――ガァン!!!

 乾いた爆音が響き、硬い扉が左右へと派手に弾け飛ぶ。

「なっ……!?」

 カルエゴは思わず目を見開いた。
 しかし、鏡の中に映っていたのは、悪周期で歪んだ己の顔でも、破壊された自室の光景でもなかった。

「……なんだ、これは……?」

 鏡の向こうに広がっていたのは、魔界のそれとは根本的に異なる、ひどく「薄い」光に満ちた世界。

 カルエゴの鋭い眼光が、限定的な四角い視界を鋭くねめつける。

 彼がよく知る重厚で おぞ ましい建築様式とは対照的な、白っぽくて平坦な壁紙。天井からは、魔石の灯りとも違う、簡素で妙に明るい円盤状の照明がぶら下がっている。

 あまりの異質さに、カルエゴは扉の枠に手をかけたまま、荒い呼吸を整えようと必死に目を閉じた。

「気のせいだ。悪周期による魔力の暴走が見せた、質の悪い白昼夢に過ぎん。……いや、そうあるべきだ」

 規律を重んじ、完璧を是とする彼の日常に、あのような脆弱で『不確定』な存在が入り込んでいいはずがない。

 カルエゴは忌々しげに、一度は乱暴に扉を閉ざした。

 だが、跳ね返った指先には、木材の冷たい感触以上に、あの瞬間に境界線を越えて流れ込んできた「異質な温もり」が焼き付いて離れなかった。

「はぁ……はぁ……っ」

 暗い書斎の中、一人で荒い息を吐き出す。
 しかし、内側から溢れ出る魔力は、彼の意思をあざ笑うようにいまだ鏡へと吸い寄せられ続けていた。

 理性が『見るな』と警報を鳴らし、悪周期の本能が『確かめろ』と甘く囁く。

 ――抗えない魔力の |みちび きに身を任せ、再びその扉を開いたとき。

 鏡の向こうは、打って変わって静まり返っていた。人間界では、すでに夜が深く更けていたのだ。

 天井の白い照明は消え去り、枕元にある小さなランプだけが、柔らかな光の溜まりを作っている。

 そして。その淡い光の輪の中に、一人の「生き物」が、無防備極まりない様子で眠りこけていた。

 魔界の危険な原生生物とも、ましてや獰猛な魔獣とも違う。乱れた毛布の隙間から覗く首筋は細く、寝息に合わせて心もとなく上下している。

「……いや、待て」

 カルエゴの鋭い眼光がんこうが、毛布から覗く生き物の姿を上から下へと冷徹になぞる。

 魔界の悪魔なら誰もが持つはずの、空を駆るための黒い羽がない。感情を語るための尾もない。長髪の隙間を探っても、己の身を守り、時に誇りを示すための角すらも、その頭部には見当たらなかった。

 徹底的に削ぎ落とされた、無防備の極みのような形態。その特徴の合致に、カルエゴの脳裏へある記憶が不意に過ぎる。

『羽も、尻尾も、角もない。だけど彼らには――』

 ――バビルスの同級生であり、普段からくだらない空想や伝承にばかり首を突っ込んでいるあの男が、以前、したり顔で語っていた戯言ざれごと
 
「……人間、だと?」

 カルエゴの眉間みけんしわが、さらに深く刻まれた。

 あり得ない。人間など、今や魔界においては古い絵本や伽話とぎばなしの中にしか存在しない、伝説上の生き物のはずだ。

 だが、現に目の前の鏡の向こうでは、その『伝説』と同じ特徴を持つ生き物が、泥のように眠っている。

 ――それからというもの、カルエゴは事あるごとにあの扉を開けては、鏡の向こう側に広がる人間の私生活をのぞき見るようになっていた。

 無論、彼にとっては知的好奇心を満たすための、極めて実用的な観察に過ぎない。

 その夜も、カルエゴは鏡の扉を半開きにしたまま、手元の文献を調べていた。だが、ふと鏡の中に『気配』が走った。彼は思わず顔を上げた。

 そこに、彼女が立っていた。

 何かを探すように、ふらふらと鏡へ近づいてくる。夜勤明けの疲れが滲む、あどけなくもどこか痛々しい横顔。

 カルエゴがいつものように書類に目を落とすよりも早く、彼女の視線が鏡面へと吸い寄せられた。

 反射的に上げた彼の視線と、彼女の瞳が鏡越しに――完全に、交差した。

「……ッ」

 思考が停止した。

 回避することもできたはずだ。しかし、あまりにも唐突に『異界の住人』と目が合ってしまった衝撃で、規律を重んじる彼としたことが、その場から動くことができなかった。

 鏡の中の彼女は、彼がそこにいることに気づき、驚愕に目を見開いている。

 果てしなく長い数秒の間。

 今、魔界の書庫と人間界の一室が、『視線』という一本の細い糸で繋がってしまった。

 理性が警鐘を鳴らす。――目をそらせ。即座に扉を閉じて、この不確定要素を遮断せよ。

 だが、その一度の『邂逅かいこう』が致命的だった。

 一度目が合ってしまってからというもの、彼女は事あるごとに鏡の扉の前へ立ち、その奥に潜む「何か」を探すように執拗にこちらをのぞき込んでくるようになったのだ。

(……ええい、図々しい。見世物ではないと言っているだろうが)

 カルエゴは鏡の向こうの無遠慮な視線を感じるたびに、不機嫌極まりない思いで、乱暴に手元の本を閉じるのだった。そして、鏡を避けるどころか、逆にその至近距離へと歩み寄った。

「……ッ」

 鏡の向こうで、彼女が息をむのが分かった。

 相変わらず、彼の耳には彼女の言葉が耳障りなノイズとしてしか響かない。理解不能な異界の言語。本来なら、無視して扉を閉めるのがナベリウス・カルエゴとしての正解だ。

 だが、彼女の瞳が、その「声」が、彼の脳裏にこびりついて離れない。何を言っている。自分に向かって、その脆弱な喉を震わせて、何を伝えようとしている。

 これ以上、あの正体不明の脆弱ぜいじゃくな生き物に調子を狂わされるのは我慢ならなかった。

 カルエゴは一度鏡の扉を乱暴に閉ざすと、その足で本家ほんけ――ナベリウスの実家じっかへと戻っていた。

 代々、魔界の警備長を輩出してきた名門ナベリウス家。その屋敷の奥深くに存在する書庫には、一般の悪魔では立ち入ることすら許されない、膨大な魔術の文献ぶんけんが眠っている。

 カツ、カツ、と冷徹な足音が、薄暗い回廊に響く。

 カルエゴが向かったのは、書庫のさらに最奥。頑丈な鎖と幾重もの封印魔術によって厳重に管理された、いわゆる『禁忌書』の蒐集エリアだった。

「……ここか」

 パチン、と指を鳴らして障壁しょうへきを解除し、重い鉄の扉を開ける。

 部屋の中に立ち込めるのは、何百年もの間、誰の目にも触れぬままよどんでいた濃密な古書の匂いと、微かな呪詛の気配だ。普通の悪魔なら肌を焼かれるような不快感を覚える空間だが、カルエゴはまゆ一つ動かさず、本棚の背表紙へと鋭い視線を走らせた。

「時空転移、次元の歪み、あるいは……古の契約けいやく魔道具……」

 手当たり次第に黒ずんだ革張りの禁忌書を引き抜き、乱暴にページをっていく。

 見つけた記述を片っ端から手元の紙に書き留めていく。羽ペンを走らせる音だけが、静まり返った禁忌書庫にせっかちに響いた。

 言語の壁を越えるため、あるいは異界とのパスを安定させるための魔術。どれも発動条件が苛烈かれつであったり、相応の魔力を要求されるものばかりだが、今の彼にとっては些細な問題でしかなかった。

 そうして古びた羊皮紙をっていくうち、彼の指が、ある一冊のノートの頁でぴたりと止まる。

 それは、周囲の禍々まがまがしい禁忌書たちとは明らかに毛色の違う、比較的新しいと思われる記録だった。

「……『間の詩:ヒューマリング』、か」

 その比較的新しい紙に記されていたのは、まさに先ほど彼が目をつけた魔術の、より具体的かつ実践的な応用記録だった。

 カルエゴはその頁を指先でなぞる。

 古い禁忌書に載っていた曖昧な儀式とは違い、そこには魔力の緻密な回路図や、発動時に生じるリスク、そして『異界の言語を悪魔の脳へ直接翻訳する』ための具体的な術式が、恐ろしいほどの精度で組み立て直されて書かれていた。

 誰がこれを書き残した。
 脳裏をよぎる顔はいくつかあるが、今はそれを突き止めることよりも、目の前の確実な収穫の方が重要だった。

「……試す価値はある」

 カルエゴは羽ペンを置くと、書き写したメモを乱暴に懐へと仕舞しまい込んだ。

 用は済んだ。長居する理由のない実家の書庫に背を向け、彼は翻した黒いマントの裾を揺らしながら、自室へと戻るべく鋭い足取りで歩き出した。一瞬の躊躇ちゅうちょもなく黒いオーク材の姿見の前に陣取った。

 懐から取り出したメモを机に広げ、羽ペンをインク壺へと深く浸す。脳内では、先ほど頭に叩き込んだばかりの『間の詩:ヒューマリング』の術式をみて、カルエゴが鏡から片手を離すと、その指先から、ふわりと何かがかび上がった。

それは、カルエゴの魔力が形を成した、淡く発光するハートのような形をしたものだった。

不機嫌な彼にはおよそ似合わないその愛らしい形は、まさに『間の詩』の魔術が完成し、互いの精神の回路が繋がった証拠でもあった。

カルエゴの手元で、そのハートの形をした魔術の結晶が、鏡の表面の光と同調どうちょうするようにして一緒につよく輝いた。

 ――刹那せつな

 それまで耳障りな雑音でしかなかった鏡の向こうの音が、一瞬で霧散むさんする。

 次の瞬間、カルエゴの脳内へ、そして静まり返った書庫の中へと、はっきりとした人間の声が聞こえてきた。

「――だ、誰……!? そこに、誰かいるの……っ!?」

 それは、ハッキリとした意味を持つ、混じり気のない彼女の言葉だった。

「……ようやく、まともな会話が成立するか、人間」

 突然、目の前の空間に現れた不気味な紫色の光と、手元に浮かぶ奇妙なハート。そして何より、鏡の中から確かに響いてきた『男の声』に、彼女は息を呑んで硬直している。

『しゃ、喋った……? え、嘘、幻聴……?』

 混乱し、怯えながらも、彼女の視線はまっすぐに鏡の中のカルエゴを捉えていた。

 言葉が通じたことで、今まで一方通行だった歪な関係が、今この瞬間に完全に噛み合ったのだ。

「幻聴なものか。耳をふさぎたくなるような無遠慮なノイズを散々響かせておいて、今更あきれた物言ものいいをするな」

 カルエゴは腕を組み、不機嫌極まりない態度で鏡の中の人間をにらみ据えた。

『ひっ……!』

 鏡の向こうの彼女は、今度こそ完全に腰を抜かしたようにベッドへとしがみついた。

 無理もない。ただのアンティークだと思っていた鏡の奥から、禍々しい紫色の光とともに、自分を冷酷に見下ろす男の顔と、その威圧的な声がはっきりと届いたのだから。

『な、なんなの……これ……。私、いよいよ仕事のストレスでおかしくなっちゃったの……?』

 彼女はパニックに陥りながら、震える手で頭を抱え、ぶつぶつと自問自答じもんじとうを始めた。


 その口から漏れ出た「ストレス」や「仕事」という単語。カルエゴの脳内に直接翻訳されたその意味は、悪魔の社会とはまた違う、ひどく現実的で泥臭どろくさい人間の営みを感じさせるものだった。

「おい、人間。人の話を幻聴や精神異常で片付けるな。不愉快だ」

 カルエゴは不機嫌そうに眉間みけんしわを深くした。

「そっちが勝手に私の領域を覗き込み、散々耳障りな声を響かせていたのだ。私はただ、その鬱陶しい雑音の正体を突き止め、規律を正すためにこの魔術を使ったまでにすぎん」

「――あ、あなたは……人間、なの……?」

 彼女は震える声をしぼり出し、鏡の奥に佇むカルエゴを恐る恐る見つめてきた。

 そのあまりにも的外まと外れで、無知極まりない問いかけに、カルエゴのまゆが不快そうにピクリと跳ね上がる。

「……ハッ、人間だと?」

 カルエゴはあざけるように鼻で笑うと、組んでいた腕をほどき、ゆっくりと鏡の表面へと顔を近づけた。カルエゴは冷徹な声を、明確な『音圧』として彼女の部屋へと響かせた。

「よくその耳にきざんでおくがいい。私はナベリウス・カルエゴ。お前たちのような矮小な存在とは根底から異なる――悪魔だ」

「……ナベリウス・カルエゴ、さん……」

 彼女は、噛みしめるように私の名を呼んだ。その響きには、まだ恐怖と混乱が色濃く混じっている。だが、彼女は震える膝を押さえつけるようにして、まっすぐにこちらを見据えた。

「私は芹那といいます」

 名乗ると同時に、彼女は小さく息を吐き出した。

「さっきの質問……変なことを聞いてすみませんでした。でも、私は……」

 芹那と名乗った彼女は、自分の胸元をぎゅっと掴むようにして言葉を続ける。

「私は、人間です」

 知っている。そんなことは、この魔術の回路を通じて嫌というほど伝わってくる彼女の脆弱な魂の波形が証明していた。

「フン……名乗れなどと言った覚えはない。それに、わざわざ己が人間だと主張せねばならんほど、お前たちの種族は己の存在に自信がないのか」

「というか、初対面なのにそんな言い方はないでしょう。でも、悪魔は本当にいたんですね……」

 芹那は、恐怖を通り越して呆れたような、あるいは諦めたような、奇妙にわった目をカルエゴに向けて不満をこぼした。

「悪魔祓いの効果があるって、おばあちゃんは言っていたのに……。これじゃ、逆に引き寄せる鏡じゃないです」

 芹那は鏡の奥のカルエゴを交互に見つめながら、やるせなさそうに溜め息を吐いた。

「なるほど、どうやらこちらとそちらを繋げているのはこの鏡のせいらしい」


 カルエゴは納得がいったようにそう呟くと、組んでいた腕の指先でトントンと自身の二の腕を叩いた。不機嫌さは隠さないものの、その明晰な頭脳はすでにこの奇妙な現象の構造を冷静に見抜き、整理し始めている。


「人間風情の考える気休めの悪魔祓いなど、高等な悪魔の前では塵芥に等しい。お前の身内は、自分から悪魔を招き入れるための媒介を、ご大層に魔除けと信じ込んでいたわけだ。愚かで呆れた勘違いだな」


 カルエゴは冷酷に事実を突きつけながら、鏡の表面を爪の先で軽く弾いた。チィン、と硬質な音が響き、鏡面の紫色の光が波紋のように揺れる。

「空間を繋ぐこの鏡が、お前という脆弱な人間の存在をこちらの領域へ映し出し、私の神経を逆撫でするノイズを届けていた……。すべての元凶はこの歪な魔道具か」

「人間界、魔界?」

「我々悪魔が住んでいる世界だ。そちらは人間界だ」

「その、こういう魔術具ってよくあるんですか」

「いや、ないな。人間界にわたることはまず禁止されている」

カルエゴは即座に、そして断固とした口調で否定した。魔術具が人間界に流出するなど、魔界の法と規律に照らし合わせても絶対にあってはならない異常事態だ。



 当然の常識を教え込むように、カルエゴは冷たく、しかし明確に言葉を返した。

 鏡の向こうの芹那は、その言葉の意味を頭の中で咀嚼するように、しばらく呆然と口を開けていた。自分の部屋にある古びたアンティークの鏡が、文字通り「異世界」と繋がっているという事実。そして目の前にいるのが、ファンタジーの住人ではなく、本物の「悪魔」であるということ。

「……じゃあ、本当に、世界が違うんだ……」



 芹那は自分の手のひらを見つめ、それから再び鏡の中のカルエゴへと視線を戻した。恐怖が完全に消えたわけではない。

 しかし、あまりにも壮大で現実離れした説明をされたことで、逆に彼女のどこか張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩んだようでもあった。

「納得したならさっさと答えろ、人間。その鏡は、なぜお前の手元にある」

 カルエゴは少しも態度を崩さず、早く規律に則った説明をせよと、促すように冷徹な視線を彼女に注ぎ続けた。

「知らないです。おばあちゃんにもらったものです。倉庫から、出てきたとは聞いてますが詳しいこともあまり知らないようです」


 芹那は困惑したように眉を下げ、正直にそう答えた。嘘を言っているようには見えない。ただ本当に、その古びた鏡がなぜ実家の倉庫に眠っていたのか、その経緯を知らないのだろう。

「……知らない、だと?」

 カルエゴは不快そうに目を細め、鼻から深くため息をついた。

「出所も分からぬ得体の知れない代物を、よくもまあ平然と自室に飾り、あまつさえその前で無防備に醜態を晒していたものだな。人間の危機管理能力はどうなっている」

 呆れ果てたと言わんばかりに吐き捨てられた言葉に、芹凪は少しだけバツの悪そうな顔をした。

「そんなこと言われたって、ただのアンティークの鏡だとしか思わないじゃないですか……」

「言い訳をするな」

 カルエゴはピシャリと彼女の言葉を遮ると、組んでいた腕を解き、鏡の木枠に触れていた右手の指先を小さく動かした。

「理由はどうあれ、魔界の物品が人間界に流出し、現にこうして私との間に歪な回路が形成されている。これは重大な規律違反であり、放置していい案件ではない」

 規律を重んじる彼にとって、この「繋がってしまった鏡」は、一刻も早く対処すべき不確定要素でしかなかった。

「じゃあ、壊しちゃうの。やっとあなたと話せたのに」

 芹那の口から零れ出たその言葉に、カルエゴはピキリと不快そうに額の青筋を立てた。

「やっと?だと」

 低く、地を這うようなカルエゴの声に、芹凪は己の失言に気づいたようにハッと息を呑み、慌てて両手を振って弁明を始めた。

「ごめんなさい、実は何度かあなたの姿を見たことがあって。その、疲れている幻覚とかかなと思ってたんだけど」

「幻覚だと……?」

 カルエゴは完全に据わった目を芹凪へと向けた。

 つまりこの人間は、魔術の回路が完全に繋がる前、まだ鏡の向こうがノイズだらけだった段階から、こちらの様子を視認していたということになる。

 悪魔の姿を目撃しておきながら、それを「日々の疲れによる幻覚」として片付け、事もあろうに放置していたのだ。

「どこまで危機感の薄い人間だ。こちらの姿が見えていたのであれば、その時点で警戒し、鏡から離れるのが当然だろう」

「そうなんですけど、でも気になるじゃないですか」

 芹那は怒鳴られた恐怖に縮こまりながらも、どこか開き直ったように口を尖らせた。その態度からは、悪魔という人智を超えた存在への畏怖以上に、人間の持つ妙な図太さと旺盛な好奇心が透けて見えている。

「幻覚にしろ何にしろ、鏡の向こうにずっと誰かがいるのを見過ごせるほど、私は図太くありません。それに……」

 そこまで言って、芹凪は少しだけ視線を泳がせた。

「不審者にしては、いつもすごく真面目そうに難しそうな本を読んでるし、睨まれるのは怖かったですけど、悪い人――じゃなくて、悪い悪魔には見えなかったから……」

「黙れ、人間」

 カルエゴは心底不愉快そうに、氷点下の声を突き刺した。悪魔に向かって「真面目そう」だの「悪そうに見えなかった」だの、どれほど舐め腐った口を叩けば気が済むのか。

「お前が私をどう評価しようが知ったことではない。私の静寂を侵した事実に変わりはないのだ。お前のその『気になる』という下らん好奇心のせいで、どれほど私の規律が乱されたと思っている」

 カルエゴは腕を組み直し、鏡の向こうの芹凪を上から見下ろすように、冷徹な眼光をいっそう鋭くした。

「いいか、私の警告を忘れるな。この鏡の解除方法を突き止めるまでは、私から呼びかけぬ限り、お前側から余計なノイズを響かせることは一切禁ずる。……これ以上私の作業を邪魔するな」
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