デモンズ・レター

 深夜。パタン、と重い音を立てて玄関の扉が開いた。

 カルエゴは文句の一つでも言ってやろうと、不機嫌極まりない顔で観音開きの鏡を開いたところだったのだが――自室に足を踏み入れてきた芹那の姿を見た瞬間、その紫の瞳が大きく見開かれた。

 いつもなら、締まりのない地味なスウェット姿で帰ってくるはずの人間。
 だが、今夜は違った。いろいろと事情が重なり、お店のドレスを着たまま帰宅した彼女の姿は、いつものおっとりした雰囲気とは一変して、息を呑むほど鮮やかに着飾られていた。

 夜の光に映えるエレガントなタイトドレス。綺麗に整えられた髪と、どこか隙のない完璧なメイク。

 いつもの「脆く頼りない小娘」とは全く違う、ピリッとした夜のオーラを纏った芹那を前に、カルエゴは思わず言葉を失い、据わった目で彼女を凝視した。

「……人間。貴様、その悍ましくも装飾された格好は一体何だ。……まさか、人間界の『デビラム』にでも行ってきたのか」

 カルエゴの口から出たのは、大真面目で、どこか警戒を含んだトーンだった。

 ドレスのファスナーに手をかけようとしていた芹那は、鏡の向こうからの声に気づき、いつもの「優しそうな笑顔」を浮かべて首を傾げた。

「デビラム? なにそれ」

「……とぼけるな。高位の悪魔たちが集う社交界、貴族会のことだ。己の力を誇示し、虚飾と謀略を競い合う悍ましい夜会。貴様のような脆弱な者が、そんな場所に赴けば一瞬で喰い尽くされると言っている」

 カルエゴのあまりにも壮大で物々しい勘違いに、芹那はストッキングを脱ぎかけたままで、ふっと吹き出しそうになった。

「ふふ、そんなのないし。私の国に貴族はいないよ」

「何……? 貴族がいないだと?」

 カルエゴが信じられないといった風に眉間を深く寄せる。魔界において家系や位階、名門の血統は何よりも絶対的なステータスだ。それが存在しない国など、彼には想像すらつかない。

「さて、お喋りはここまで。私、これから着替えるから」

 芹那はそう言うと、ドレスの背中のファスナーに手をかけながら、クローゼットの横にある重厚な観音開きの扉へと歩み寄った。

 そして、カルエゴが何かを言いかけるよりも早く、迷いのない手つきで扉をパタン、と、完全に閉まりきらない程度に「軽く」狭めた。

 芹那はメイク落としのシートを手に取りながら、鏡の向こうの厳格な大悪魔をじっと見つめ、ごく自然な疑問として問いかけた。

「ねえ、そういうのを聞くってことは……あなた、貴族なの?」

 その問いに、カルエゴは腕を組み直し、心底不愉快そうに冷鼻を鳴らした。

「……ハッ、一緒にするな。我がナベリウス家は、魔界の秩序を守る厳格なる番犬の家系。有象無象の有爵悪魔どもとは格が違う。……だが、魔界の歴史に名を連ねる名門であるという意味では、貴様らの言う『貴族』に該当するだろうな」

 自身の血統に対する絶対的な誇りを、ぶっきらぼうに、しかし流れるような正論で口にするカルエゴ。

 芹那はシートでリップを拭き取りながら、「へえ、やっぱり本当にお坊っちゃんなんだ」と、どこか楽しそうにコクコクと首を振った。

 そんな芹那の、全く畏れを抱かない態度に、カルエゴはふっと目を細める。

 貴族がいない世界。そして、名門ナベリウスの威光を前にしても、怯えるどころか「お茶が美味しい」と笑う人間の女。

 カルエゴは組んだ腕に少しだけ力を込め、鏡の向こうの、完璧なドレスの下に隠された彼女の本質を見透かすように、低く、しかし明確な好奇心を宿して問いかけた。

「……なら、お前はなんの仕事をしているのだ」

 完璧なドレスの下に隠された彼女の本質を見透かすように、カルエゴが低く問いかける。魔力も持たない脆弱な人間が、一体どんな手段でこの過酷な夜の気配を生き抜いているのか。

 芹那はメイクを落とす手を一度止めると、鏡の向こうの厳格な大悪魔へ、いつものおっとりとした笑顔を向けた。

「昼は事務です。まぁまぁ高給なほうかもね、いい企業だから夜はホステスとして働いてるの」

「ほすてす……?」

 またしても聞き慣れない人間界の単語に、カルエゴがピクリと眉を動かす。

 姿の見えない扉の向こうで、芹那はスウェットの袖に腕を通しながら、実にあっさりとその職業を説明し始めた。

「んー、簡単に言うとね、おめかしして、お酒を飲みながら男の人の話し相手をする仕事。愚痴を聞いてあげたり、おだてて気持ちよくさせてあげたりして、その対価として高いお金をもらうの。」そういう施設、魔界にもあるの?」

「……ないわけがないだろう」

 カルエゴは心底不愉快そうに、しかし事実として淡々と吐き捨てた。

「悪魔の本質は欲だ。己の承認欲求や支配欲、色欲を満たすために、金や魔力を支払って他者を傅かせる(かしずかせる)淫らな店など、魔界の夜の街には掃いて捨てるほどある。……もっとも、私はそのような時間の無駄に一切の興味はないがな」

「ふふ、やっぱり生真面目。あなた、そういうお店に行っても、女の子にずーっと説教してそうだもんね」

「貴様……!!」

 パタン、と小気味いい音を立てて、観音開きの扉が再び左右へと大きく引き開けられた。

 そこに立っていたのは、バチバチに決まっていたドレス姿から一転、髪を無造作にまとめ、すっかり見慣れた薄グレーのスウェット姿に戻った、いつものゆるい芹那だ。完璧なメイクだけがまだ顔に残っているのが、どこかアンバランスで私生活のリアルさを醸し出している。

「……そこまでして、何のために二つも仕事を掛け持っている」

カルエゴの低い声が、静まり返った部屋に響いた。

 魔界の悪魔であれば、複数の仕事をするのは己の野心や地位、飽くなき欲を満たすためだ。しかし、目の前の人間がやっているのは、己の身を削り、精神を擦り減らすような過酷なダブルワーク。どう見ても、贅沢や娯楽のために稼いでいるようには見えなかった。

 お湯が沸騰するシュンシュンという音が響く中、芹那はマグカップに魔界の茶葉を落とし、ゆっくりとお湯を注いだ。深く厳かな香りが、人間界のキッチンに広がっていく。

 芹那はカップを両手で包み込むと、鏡の前に戻り、ふっと視線を落とした。

「お金のため、かな。……恩返しをしたい人がいるの」

「恩返し……?」

「そう。私の大切な人でね。その人のためにお金を貯めてるんだ」

 いつものおっとりとした「優しそうな笑顔」ではない。メイクの残る顔に浮かんだのは、どこか遠くを愛おしそうに見つめる、一人の人間としてのひたむきで静かな横顔だった。

 カルエゴは腕を組んだまま、フンと鼻を鳴らした。

 悪魔にとって「恩」や「情」による行動など、弱さの証明でしかない。誰かのために己を擦り減らすなど、彼の持つ規律と合理性の物差しでは、到底理解できない愚行のはずだった。

「下らん。他者のために己の生存領域を脅かすなど、脆弱な人間の分を弁えん自殺行為だ。その恩返しとやらを果たす前に、貴様が擦り切れて倒れては元も子もないだろう」

 冷酷に言い放つカルエゴの言葉は、正論だからこそ鋭く芹那の胸に刺さる。

 けれど、芹那は傷ついた風でもなく、温かいカップから立ち上る湯気越しに、クスリと微笑んだ。

「手厳しいなぁ。でもね、だからこそ、ナベリウスさんがくれたこのお茶が本当にありがたいの。これがあるから、明日もまた頑張れるんだもん」

「……チッ」

 自分の不器用な贈り物を言い訳に遣われ、カルエゴはバツが悪そうに顔を背けた。

「ふん、勝手にしろ」

「はいはい。わかってますよ。……それじゃ、お茶が温かいうちに、今夜はもう寝ますね」

 芹那は一口、極上のお茶を口に含むと、身体の奥からじわじわと力が湧いてくるのを感じながら、鏡の向こうの偏屈な大悪魔に手を振った。
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