番外編 湘のお話 人魚と船頭の悲恋の過去
あれから5年の月日が経った。真鶴と凪沙の間に、湘という、4歳になる聡明な男の子が生まれた。
「父ちゃん!!僕も船頭になって世界中を旅したいよ!!」
湘は瑠璃色の瞳を輝かせながら、父と母に言った。
「ははは!!世界の海なら航海士を目指さないとな」
真鶴は湘の小さい頭をくしゃくしゃと撫でた。
「その為にも、今からお勉強ね」
凪沙は湘に読み書きの本を渡した。湘は少し残念そうな顔をした。
昼になり、真鶴は船頭の仕事で城ヶ島に行った。凪沙は湘に字を教えていた。いつも通りの親子仲の良い光景だった。しかし・・・
「う!?・・・うぐぅ・・・ああ・・」
凪沙は突然胸が苦しくなり倒れた。湘は急いで布団を敷き、母を寝かした。
「母ちゃん!!大丈夫?今直ぐ、お医者さんを呼んでくるよ!!」
湘が玄関を出ようとした時、大柄な男の足にぶつかった。湘は男の顔を見上げると、褐色の肌に長い金髪、南国の民族衣装のようなヒラヒラとした着物姿、そして深海のような瑠璃の瞳には気高さと厳格さが表れていた。
「その必要はない。凪沙は海洋族の宮殿に連れ戻すからな」
「え・・・かいよう族って何?連れ戻すって?」
湘は意味も分からず男に質問をした。男は少年の背丈に合うように屈みながら言った。
「まだ童には話すのは早すぎる。事は急だ、どいてくれないか?」
男は問答無用で湘の制止を無視し、畳で横たわっている凪沙を抱きかかえた。
「やはり・・・人の姿でいられるのは5年が限度だったか。これで分かっただろう。海洋族は人間とは結ばれぬのだよ」
「い・・・いすみ・・様・・・」
いすみは険しい顔で、弱っている凪沙を見据え、小屋から出て行こうとした。湘は彼のふくらはぎに必死にしがみついた。
「母ちゃんを何処に連れて行くんだ!!母ちゃんを返せ!!」
いすみは鬼のような形相で、幼い湘を叱った。
「黙れ小僧!!」
湘はいすみの恐さに泣き崩れてしまった。そこに仕事から戻って来た真鶴が彼の前に立ちはばかった。
「何か胸騒ぎがすると思って、早めに切り上げたんだが、これは随分と礼儀がなってない客人だな・・・いいや、半魚人といったところか?」
「貴殿が真鶴か。今日まで凪沙が世話になったな」
真鶴はいすみの高圧的な態度に腹を立て反論した。
「あんたがいすみサマかい?凪沙があんたの事を厳格で優しいと言っていたが、小さい子供を泣かす程、大人気ないとは思わなかったぜ」
真鶴の言葉にいすみは全く動じず、即急に凪沙を連れ海に向かおうとした。しかし真鶴は護身用の短銃を構え、いすみに向けた。
「力づくでも凪沙を連れ戻してやる!!大切な妻と子を引き離させない!!」
いすみは凪沙を柔らかい砂浜に寝かせ、自身も攻撃体制に入った。
「・・・愚か者め。この間にも凪沙の命が危ういと言うのに」
真鶴はいすみ目掛け、短銃を撃った。しかし、いすみはいとも簡単に弾を手で受け止め、粉々に砕いた。
「この程度か小童が!!落花生を砕くより容易いわ!!」
いすみは真鶴の短銃を奪い、握りつぶし破壊した。そして、彼の腹部に鉄拳を喰らわせ、真鶴は苦しさにうずくまった。
「まだ・・まだだ・・凪沙と湘と約束したんだ・・頑張って働いて、いつかは家族で航海の旅に出ると・・・」
真鶴は希望を捨てない瞳でいすみを睨んだが、彼は弱っている真鶴に追い打ちの言葉を放った。
「それは叶わぬ夢だな。凪沙はこのまま陸で過ごせば、海洋族の生命が絶たれ・・・泡になるぞ。それに、凪沙は貴様と同じ歳に見えるが、これでももう100年以上は生きている。そもそも、人間や他種族と生きている時間が違いすぎるのだ」
その言葉に真鶴は真実を突きつけられて呆然とした。人魚は人間と結ばれれば人間になれるのでは無かったのかと・・・。
真鶴はうつむき涙を流した。しかし、いすみは彼に何も言葉をかけずに、凪沙を連れて帰ろうとした。
そこを真鶴が止めた。
「待ってくれ!!それならせめて湘も連れて行ってくれ!!息子を母さんと離れ離れにさせたくない!!それに、湘にも海洋族の血が・・・」
「それはならぬ!!海洋族の宮殿に混合種が暮らすのは認めん!!」
遠くで見ていた湘は、僕は海洋族なの?と戸惑っていた。真鶴は最後の悪あがきで、いすみに殴りかかろうとしたが、容易に受け止められ再び拳を受けた。いすみは倒れている真鶴の胸ぐらを掴み持ち上げ、海王の力を見せつけようとしたが、凪沙に止められた。
「もう止めて下さい!!いすみ様・・・私、宮殿に戻りますから・・お願いします、これ以上、真鶴さんと湘を傷つけないで・・・」
いすみは無言で真鶴を離した。凪沙は傷ついた真鶴に人魚の力で回復させた。そして最後に、真鶴を深く抱きしめ、泣いている湘の涙をぬぐい、額に口づけをした。
「ごめんなさい・・・真鶴さん・・湘。私は人間にはなれなかった。人魚と人間は結ばれぬ者同士だった・・・でも、これだけは分かって欲しいの。私は心から真鶴さんと湘を愛していました。だから、2人には幸せになって欲しい・・・」
凪沙は涙を流しながら、いすみにもう行きましょうと促した。
「さようなら・・・湘、真鶴さん・・もう私のことは忘れて・・・・」
いすみは何も言わずに、足元が覚束ない凪沙を抱きかかえ海に潜った。湘は『母ちゃん!!行かないで!!』と追いかけようとしたが、真鶴に止められた。
「離してよ!!父ちゃん。母ちゃんが行っちゃうよ!!!!」
「湘!!ごめんな・・・父ちゃんが弱くて、母さんを海に行かせてしまった。だけどこれだけは約束する。お前には絶対に苦労を掛けさせない。俺がお前を護るから」
真鶴は湘を深く抱きしめながら涙を流した。白昼の海は虚しく潮騒の音だけが鳴り響いていた。
その後、真鶴は湘を連れ三崎から相模国北部(現相模原市緑区)の津久井で暮らした。真鶴は海を離れたかった。湘にこれから先苦労をかけまいと、近くの学び舎で勉強させ、自分は朝から晩まで津久井城や八王子城で慣れぬ土木作業をしていた。しかし真鶴は心身喪失していた。いすみに妻を奪われた事、先祖を滅ぼした北条家の城で惨めに働く事。そして大好きな海を離れた事。さらに湘に可哀想な思いをさせてしまった罪悪感を抱き続けていた。
そして11年後、35歳の真鶴は疲れ果てていた。ある日、津久井城周辺の沼を掃除していた時に、人魚の姿の凪沙の幻を見た。真鶴は冬の寒い沼に飛び込んだ。15歳の立派な青年となった湘は沼に潜り父を助けた。
「湘・・すまない。お前を護ると決めたのに、こんな不甲斐ない父で申し訳ない。ただ、お前は賢くて強い。だから1人で生きていかれる。だけど、もし何かあったら北条家を頼れ。三浦一族の子孫は俺で終わったから・・・」
湘は父の最期に深く涙を流した。そして一言つぶやいた。
「慣れぬ事に無理して体を壊して・・・父さんは決して不甲斐ないとは思わないよ」
湘は父の墓を西湘の細長い半島に作った。父の大好きだった広大な海の見える岬に。