怪人少年と夏休み
空欄の場合は ミョウジ ナマエ になります。
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どこまでも続く長い石段を見上げ、ナマエは途方にくれていた。
強い日差しが照りつけ、蝉時雨が降り注いでいる。
「忘れてるのかな、バングおじさん」
今日この時間にナマエが来ることは連絡済みのはずだったが、長い石段を荷物を抱えたまま登らせるのは女の子の脚には酷だろうと、前もって迎えを寄越すと言われていたものが、一向に現れる気配は無かった。
バングの道場は市街地から外れたところにあり、先ほどタクシーで到着して以来通りがかる人もいない。
しばらく迷った末、ナマエは石段に一歩足を踏み出した。いつまでもこうしていても仕方ないし、登ってみれば意外とすぐ着くかもしれない。
しかし行程の三分の一もいかないうちに、ナマエは自分の選択を早くも後悔し始めていた。どこまで行っても終わりが見えない。更に次第に強くなる日差しは容赦なく体力を奪っていく。汗を拭いながら、木陰になっている石段の途中に座り込んだ。見下ろすと、かなり高いところまで登ってきたようだった。しかし先はそれ以上に長い。完全に甘く見ていた。スポーツバッグを背負っていた肩が痛い。さっき買ったペットボトルの中味も飲みきってしまい、これ以上自力で登るのは厳しそうだった。
どうしよう。喉渇いた。
ぼんやりと目の前の石段を眺めていると、陽炎の揺らめく中を誰かが登ってくるのが見えた。相手もこちらに気づいたのか怪訝な顔をしている。ナマエよりも少し年上に見えるその少年は、珍しい銀色の髪をしていた。日の光を受けて反射している。背中に驚くほど大きな荷物を背負った少年は、ナマエのいるところまで登ってくると立ち止まった。
「…お前ジジイの客か」
少年は金色に透き通った瞳で探るようにナマエを見つめている。警戒心の強い動物のようだった。ジジイ、と聞いて多分バングのことだろうと当たりをつけたナマエは頷いた。
「あ、うん」
「迎えの奴いないのかよ」
「わかんない…おじさん忘れてるのかも」
「だからって一人で登ろうとすんなよ」
少年はナマエの置かれた状況を一目で見てとったのか、呆れたような顔をしている。
実際その通りだったが、なんとなく悔しくなりナマエは言い返した。
「だって登ってみたらいけるかと思ったんだもん…あ、ちょっと」
「なんだよ」
言いながら少年はナマエの傍らに置かれていたスポーツバッグを担いだ。
「上まで持ってってやる」
「でも他にも荷物持ってるじゃん」
「別に…こんなの大した重さじゃねえ」
言葉の通り、少年は大量の荷物を物ともしていないのか、細面の顔には汗ひとつかいていない。反対にナマエがかなり消耗しているのを見て、少年は背負った荷物の中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、飲めよ、熱中症になんぞ、とこちらに投げてくれた。
思いがけない恵みに礼を言うのも忘れて喉を潤していると、ほら行くぞ、と促され慌てて礼を言いながらナマエは少年の後を追って石段を登り始めた。
「久しぶり、ナマエちゃん大きくなったな。すまん、迎えのことうっかりド忘れしとった…」
数年振りに会ったバングは、前回会った時から変わりないようだった。前回というかナマエが初めて会った小さい頃から、ずっと老人の姿のまま年を取っていないような気がする。畳敷きの客間に正座し、出してもらった麦茶のグラスに口をつけながら、ナマエはすまなそうに平謝りをするバングを制した。
「おじさん久しぶり。大丈夫だよ、あの人が助けてくれたから」
言いながら、入り口のところに寄りかかっている少年の方に目をやると、バングは今気づいたように少年の方を向き謝った。
「ああガロウ、すまんかったな」
「忘れてんじゃねーよジジイ」
少年はバングを半目で睨みながら悪態をついた。
「こいつはガロウと言ってな、ちょっとひねくれとるが悪いやつじゃない。仲良くしてやってくれ」
「うるせーな誰がひねくれ者だよ」
ガロウはバングの門下生で、先ほどは物資の買い出し当番で市街地まで出掛けた帰りだったらしい。師範と門下生という間柄のはずだが、お互いに遠慮の無い様子の二人は、まるで祖父と孫のように見える。
「こないだ皆の前で話したじゃろ、家庭の事情で夏休みの間だけここで預かることになったナマエちゃんじゃ。お前は年も近いしいろいろ面倒見てやってくれ」
「やだよ面倒くせえ」
ガロウが嫌そうに言うのを聞きながら、ナマエはこっちだって好きで来たわけじゃないのに、とこれからの生活を思ってこっそりため息をついた。
ナマエが急きょバングの道場へくることになったのは、夏休みを目前に控えた先週の終わりに、母親の病状が悪化したことが原因だった。元々持病があり療養しながら在宅で仕事を続けていたのだが、母親が救急車で運ばれた、という知らせを学校で教師から聞いた時は生きた心地がしなかった。命に別状はなかったものの、そのまましばらく入院することになり、幼い頃父親が死別していたナマエをどうするか、親戚間でかなり頭を悩ませたらしい。もうすぐ夏休みに入るとはいえ、中学生が家で一人過ごすのは流石にまずい。しかし、唯一近場に住む親戚である叔母はまだ年が若く独身で、仕事で家を空ける時間が長い。姉であるナマエの母親の入院に関わるあれやこれやもしながら、ナマエと暮らすのは難しそうだった。
そこで助けを申し出たのが、遠戚のバングだった。
ナマエの母方の祖母の従兄弟にあたるのがバングとボンブの兄弟で、血のつながりは薄いものの、子どものいないバング達には小さい頃から可愛がってもらい親交があった。最近は学校や部活が急がしくなったことで直接会う機会がなかなか取れなかったが、バングならばナマエも馴染みがあり安心感がある。また、道場を経営しており常に人がいること、男所帯ではあるが格闘技界でひとかどの人物であるバングの門下生達なら信用がおけることなどを考慮し、当面の預け先は決まった。
ナマエの通う学校からは離れているので、夏休みが終わる頃になっても退院の目処が立たなければまた別の方法を考える必要があるが、それまでには親戚間で調整をして必ず何とかするということだった。
今は緊急事態であり、そんな中預かってもらえることは素直にありがたいと思う。
しかし、慣れない環境で友達とも会えない異例の夏休みを過ごすことを思うと、ナマエの気持ちは重くなった。病院からも離れているので、母親の様子が叔母からの連絡越しにしかわからないのも不安だった。
ナマエの思惑をよそにバングとガロウはしばらく言い合いをしていたが、そこへ門下生の一人が訪れ、バングに近づいて何事か耳打ちをした。それを聞いたバングは立ち上がり、ナマエに向かいすまなそうに手を合わせた。
「悪いな、ナマエちゃん。ちょっと急用で出ないといけなくなっちまった」
最近になって道場の経営以外にプロヒーローも始めたバングは何かと忙しいらしい。
その時ふと、ガロウが刺すような目つきでバングを見つめているのに気がついた。
先ほどまでの気安さから一転した視線の鋭さに驚いてナマエが目を見張っていると、その一瞬後にはガロウは元のつまらなそうな表情に戻っていた。
見間違いかな、とナマエが不思議に思っている一方で、バングは困った顔で思案している。
「これから住む場所やらの案内をしようと思っとったんじゃが…ああ、ガロウお前が代わりに案内してやってくれんか」
名指しで命じられたガロウは思いっきり顔をしかめた。
「これから組手稽古あんだけど」
「何、そう時間はかからん。泊まる場所はわしの部屋のある棟の客室じゃ、昨日掃除させてある。トイレと風呂も同じ棟の客用のものを使ってもらうから、一通り場所を教えてやってくれ」
ガロウは不服そうにしていたが、一応師範の言うことには逆らえないのか、しばらくしてため息をつくと、わかったよ、とだけ言って了承した。
そのまま部屋の隅に置かれていたナマエのスポーツバッグを持ち、行くぞ、と促すガロウの後を追う。
バングの道場は住み込みの門下生がいる為か、稽古場以外の住居スペースもけっこうな広さがあるようだった。長い廊下を足早に歩きながら、ナマエはまだ成長途中らしい線の細さを残したガロウの背中を見つめた。
石段のところで会った時は他人を寄せ付けない雰囲気があったが、先ほどバングと話していた時はずいぶん砕けた態度だった。もしかしたら、仲良くなれるかもしれない。慣れない環境で、話し相手ができるのに越したことはなかった。
ナマエは黙ったまま前を歩くガロウに明るく声をかけた。
「ねえ、ガロウくんって年いくつ?」
「16」
ガロウはこちらを振り向くことなく声だけで答えた。
自分より年上だろうなと思っていたが、やっぱりそうだったらしい。
バングの話ではガロウも住み込みということだったが、高校生活の合間に修行もして道場の手伝いもしているんだろうか。生活ぶりが気になり、ナマエは更に続けた。
「私中二だから二個上だね。高校はどこ行ってるの?ここから通うの大変じゃない?」
「…行ってねえ」
「え?」
「だから学校行ってねえ」
「あ…そうなんだ」
取り付く島もない。
明らかに心を閉ざされているのを感じナマエは口を噤んだ。
これでは仲良くなるのは無理そうだな、と思っていると、長い廊下を抜けて別の棟に入った。先ほどの門下生用の生活スペースよりも、周りの意匠などが凝っている。
「ここがトイレと風呂。門下生が一日一回掃除してる。あとこっちがジジイの寝る部屋。この部屋は物置になってるから中入るなよ」
周りが男性ばかりなので洗濯や風呂が心配だったが、全て分けてもらえるらしく安心した。洗濯機のスイッチを押して干すくらいならナマエにもできる。
ぶっきらぼうな口調で生活に必要な場所を案内され、最後にナマエの為に用意された部屋に通された。バングの言う通り掃除されていて埃っぽさはなく、居心地良さそうな部屋だった。部屋の隅にナマエの荷物を置くと、ガロウはさっさと稽古場の方へ向かおうとしている。一人で残されて手持ちぶさたになりそうなナマエは、慌てて声をかけた。
「あ、ねえ待ってよ」
「…なんだよまだ何かあんのか」
無愛想に返され挫けそうになるがナマエは食い下がった。
「修行するとこ見にいってもいい?」
「部屋でおとなしくしてろよ」
心底鬱陶しそうな顔をされ、ナマエはムッとした。
そんなに邪険にしなくてもいいのに。
「いいじゃん別に。見ちゃ駄目なの?」
口を尖らせて拗ねたような顔をしているナマエを見て、ガロウは黙った。
そのまましばらく睨みあっていたが、やがてガロウは根負けしたように大きく息をついた。
「…師範代に訊いてみる」
広い稽古場に、掛け声、地面に体が打ち付けられる音が響いている。
その日の師範代であるニガムシという青年の隣で、ナマエは大勢の門下生達が組み手をする様子を見学していた。
「ここで修行してるのって大人ばかりなんですね」
「ああ、今ここにいるのは実戦にも出られる実力上位の門下生ばかりだからな。まだ技術の浅い者達や、基本的な護身術のみ習いたいという者の中は、ナマエちゃんくらいの年齢や女性の門下生もいるぞ」
ニガムシはいかつい見た目に反して気のいい人物らしく、ナマエの質問にも丁寧に答えてくれる。
「ガロウくんは?まだ16歳なんですよね」
大人達に囲まれまだ体の出来上がっていないガロウは小さく見えるが、先ほどから自分よりも体格の良い相手に、次々と勝利を収めていた。
ナマエの言葉を受けてニガムシは唸った。
「あいつは入門してきた時から物が違った。更に恐ろしい早さで成長している。天性のセンスがあるんだろうな、今にここにいる誰よりも強くなるだろうと俺は思っている」
ナマエの視線の先で、ガロウはまた一人相手を打ち倒している。その横顔には勝利への喜びはなく、それよりももっと先にある何かを見据えているような切実さがあった。
(ガロウくんは、何のために強くなりたいんだろう?)
稽古場の隅に寄り汗を拭う背中を見つめたが、ナマエには何もわからなかった。
強い日差しが照りつけ、蝉時雨が降り注いでいる。
「忘れてるのかな、バングおじさん」
今日この時間にナマエが来ることは連絡済みのはずだったが、長い石段を荷物を抱えたまま登らせるのは女の子の脚には酷だろうと、前もって迎えを寄越すと言われていたものが、一向に現れる気配は無かった。
バングの道場は市街地から外れたところにあり、先ほどタクシーで到着して以来通りがかる人もいない。
しばらく迷った末、ナマエは石段に一歩足を踏み出した。いつまでもこうしていても仕方ないし、登ってみれば意外とすぐ着くかもしれない。
しかし行程の三分の一もいかないうちに、ナマエは自分の選択を早くも後悔し始めていた。どこまで行っても終わりが見えない。更に次第に強くなる日差しは容赦なく体力を奪っていく。汗を拭いながら、木陰になっている石段の途中に座り込んだ。見下ろすと、かなり高いところまで登ってきたようだった。しかし先はそれ以上に長い。完全に甘く見ていた。スポーツバッグを背負っていた肩が痛い。さっき買ったペットボトルの中味も飲みきってしまい、これ以上自力で登るのは厳しそうだった。
どうしよう。喉渇いた。
ぼんやりと目の前の石段を眺めていると、陽炎の揺らめく中を誰かが登ってくるのが見えた。相手もこちらに気づいたのか怪訝な顔をしている。ナマエよりも少し年上に見えるその少年は、珍しい銀色の髪をしていた。日の光を受けて反射している。背中に驚くほど大きな荷物を背負った少年は、ナマエのいるところまで登ってくると立ち止まった。
「…お前ジジイの客か」
少年は金色に透き通った瞳で探るようにナマエを見つめている。警戒心の強い動物のようだった。ジジイ、と聞いて多分バングのことだろうと当たりをつけたナマエは頷いた。
「あ、うん」
「迎えの奴いないのかよ」
「わかんない…おじさん忘れてるのかも」
「だからって一人で登ろうとすんなよ」
少年はナマエの置かれた状況を一目で見てとったのか、呆れたような顔をしている。
実際その通りだったが、なんとなく悔しくなりナマエは言い返した。
「だって登ってみたらいけるかと思ったんだもん…あ、ちょっと」
「なんだよ」
言いながら少年はナマエの傍らに置かれていたスポーツバッグを担いだ。
「上まで持ってってやる」
「でも他にも荷物持ってるじゃん」
「別に…こんなの大した重さじゃねえ」
言葉の通り、少年は大量の荷物を物ともしていないのか、細面の顔には汗ひとつかいていない。反対にナマエがかなり消耗しているのを見て、少年は背負った荷物の中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、飲めよ、熱中症になんぞ、とこちらに投げてくれた。
思いがけない恵みに礼を言うのも忘れて喉を潤していると、ほら行くぞ、と促され慌てて礼を言いながらナマエは少年の後を追って石段を登り始めた。
「久しぶり、ナマエちゃん大きくなったな。すまん、迎えのことうっかりド忘れしとった…」
数年振りに会ったバングは、前回会った時から変わりないようだった。前回というかナマエが初めて会った小さい頃から、ずっと老人の姿のまま年を取っていないような気がする。畳敷きの客間に正座し、出してもらった麦茶のグラスに口をつけながら、ナマエはすまなそうに平謝りをするバングを制した。
「おじさん久しぶり。大丈夫だよ、あの人が助けてくれたから」
言いながら、入り口のところに寄りかかっている少年の方に目をやると、バングは今気づいたように少年の方を向き謝った。
「ああガロウ、すまんかったな」
「忘れてんじゃねーよジジイ」
少年はバングを半目で睨みながら悪態をついた。
「こいつはガロウと言ってな、ちょっとひねくれとるが悪いやつじゃない。仲良くしてやってくれ」
「うるせーな誰がひねくれ者だよ」
ガロウはバングの門下生で、先ほどは物資の買い出し当番で市街地まで出掛けた帰りだったらしい。師範と門下生という間柄のはずだが、お互いに遠慮の無い様子の二人は、まるで祖父と孫のように見える。
「こないだ皆の前で話したじゃろ、家庭の事情で夏休みの間だけここで預かることになったナマエちゃんじゃ。お前は年も近いしいろいろ面倒見てやってくれ」
「やだよ面倒くせえ」
ガロウが嫌そうに言うのを聞きながら、ナマエはこっちだって好きで来たわけじゃないのに、とこれからの生活を思ってこっそりため息をついた。
ナマエが急きょバングの道場へくることになったのは、夏休みを目前に控えた先週の終わりに、母親の病状が悪化したことが原因だった。元々持病があり療養しながら在宅で仕事を続けていたのだが、母親が救急車で運ばれた、という知らせを学校で教師から聞いた時は生きた心地がしなかった。命に別状はなかったものの、そのまましばらく入院することになり、幼い頃父親が死別していたナマエをどうするか、親戚間でかなり頭を悩ませたらしい。もうすぐ夏休みに入るとはいえ、中学生が家で一人過ごすのは流石にまずい。しかし、唯一近場に住む親戚である叔母はまだ年が若く独身で、仕事で家を空ける時間が長い。姉であるナマエの母親の入院に関わるあれやこれやもしながら、ナマエと暮らすのは難しそうだった。
そこで助けを申し出たのが、遠戚のバングだった。
ナマエの母方の祖母の従兄弟にあたるのがバングとボンブの兄弟で、血のつながりは薄いものの、子どものいないバング達には小さい頃から可愛がってもらい親交があった。最近は学校や部活が急がしくなったことで直接会う機会がなかなか取れなかったが、バングならばナマエも馴染みがあり安心感がある。また、道場を経営しており常に人がいること、男所帯ではあるが格闘技界でひとかどの人物であるバングの門下生達なら信用がおけることなどを考慮し、当面の預け先は決まった。
ナマエの通う学校からは離れているので、夏休みが終わる頃になっても退院の目処が立たなければまた別の方法を考える必要があるが、それまでには親戚間で調整をして必ず何とかするということだった。
今は緊急事態であり、そんな中預かってもらえることは素直にありがたいと思う。
しかし、慣れない環境で友達とも会えない異例の夏休みを過ごすことを思うと、ナマエの気持ちは重くなった。病院からも離れているので、母親の様子が叔母からの連絡越しにしかわからないのも不安だった。
ナマエの思惑をよそにバングとガロウはしばらく言い合いをしていたが、そこへ門下生の一人が訪れ、バングに近づいて何事か耳打ちをした。それを聞いたバングは立ち上がり、ナマエに向かいすまなそうに手を合わせた。
「悪いな、ナマエちゃん。ちょっと急用で出ないといけなくなっちまった」
最近になって道場の経営以外にプロヒーローも始めたバングは何かと忙しいらしい。
その時ふと、ガロウが刺すような目つきでバングを見つめているのに気がついた。
先ほどまでの気安さから一転した視線の鋭さに驚いてナマエが目を見張っていると、その一瞬後にはガロウは元のつまらなそうな表情に戻っていた。
見間違いかな、とナマエが不思議に思っている一方で、バングは困った顔で思案している。
「これから住む場所やらの案内をしようと思っとったんじゃが…ああ、ガロウお前が代わりに案内してやってくれんか」
名指しで命じられたガロウは思いっきり顔をしかめた。
「これから組手稽古あんだけど」
「何、そう時間はかからん。泊まる場所はわしの部屋のある棟の客室じゃ、昨日掃除させてある。トイレと風呂も同じ棟の客用のものを使ってもらうから、一通り場所を教えてやってくれ」
ガロウは不服そうにしていたが、一応師範の言うことには逆らえないのか、しばらくしてため息をつくと、わかったよ、とだけ言って了承した。
そのまま部屋の隅に置かれていたナマエのスポーツバッグを持ち、行くぞ、と促すガロウの後を追う。
バングの道場は住み込みの門下生がいる為か、稽古場以外の住居スペースもけっこうな広さがあるようだった。長い廊下を足早に歩きながら、ナマエはまだ成長途中らしい線の細さを残したガロウの背中を見つめた。
石段のところで会った時は他人を寄せ付けない雰囲気があったが、先ほどバングと話していた時はずいぶん砕けた態度だった。もしかしたら、仲良くなれるかもしれない。慣れない環境で、話し相手ができるのに越したことはなかった。
ナマエは黙ったまま前を歩くガロウに明るく声をかけた。
「ねえ、ガロウくんって年いくつ?」
「16」
ガロウはこちらを振り向くことなく声だけで答えた。
自分より年上だろうなと思っていたが、やっぱりそうだったらしい。
バングの話ではガロウも住み込みということだったが、高校生活の合間に修行もして道場の手伝いもしているんだろうか。生活ぶりが気になり、ナマエは更に続けた。
「私中二だから二個上だね。高校はどこ行ってるの?ここから通うの大変じゃない?」
「…行ってねえ」
「え?」
「だから学校行ってねえ」
「あ…そうなんだ」
取り付く島もない。
明らかに心を閉ざされているのを感じナマエは口を噤んだ。
これでは仲良くなるのは無理そうだな、と思っていると、長い廊下を抜けて別の棟に入った。先ほどの門下生用の生活スペースよりも、周りの意匠などが凝っている。
「ここがトイレと風呂。門下生が一日一回掃除してる。あとこっちがジジイの寝る部屋。この部屋は物置になってるから中入るなよ」
周りが男性ばかりなので洗濯や風呂が心配だったが、全て分けてもらえるらしく安心した。洗濯機のスイッチを押して干すくらいならナマエにもできる。
ぶっきらぼうな口調で生活に必要な場所を案内され、最後にナマエの為に用意された部屋に通された。バングの言う通り掃除されていて埃っぽさはなく、居心地良さそうな部屋だった。部屋の隅にナマエの荷物を置くと、ガロウはさっさと稽古場の方へ向かおうとしている。一人で残されて手持ちぶさたになりそうなナマエは、慌てて声をかけた。
「あ、ねえ待ってよ」
「…なんだよまだ何かあんのか」
無愛想に返され挫けそうになるがナマエは食い下がった。
「修行するとこ見にいってもいい?」
「部屋でおとなしくしてろよ」
心底鬱陶しそうな顔をされ、ナマエはムッとした。
そんなに邪険にしなくてもいいのに。
「いいじゃん別に。見ちゃ駄目なの?」
口を尖らせて拗ねたような顔をしているナマエを見て、ガロウは黙った。
そのまましばらく睨みあっていたが、やがてガロウは根負けしたように大きく息をついた。
「…師範代に訊いてみる」
広い稽古場に、掛け声、地面に体が打ち付けられる音が響いている。
その日の師範代であるニガムシという青年の隣で、ナマエは大勢の門下生達が組み手をする様子を見学していた。
「ここで修行してるのって大人ばかりなんですね」
「ああ、今ここにいるのは実戦にも出られる実力上位の門下生ばかりだからな。まだ技術の浅い者達や、基本的な護身術のみ習いたいという者の中は、ナマエちゃんくらいの年齢や女性の門下生もいるぞ」
ニガムシはいかつい見た目に反して気のいい人物らしく、ナマエの質問にも丁寧に答えてくれる。
「ガロウくんは?まだ16歳なんですよね」
大人達に囲まれまだ体の出来上がっていないガロウは小さく見えるが、先ほどから自分よりも体格の良い相手に、次々と勝利を収めていた。
ナマエの言葉を受けてニガムシは唸った。
「あいつは入門してきた時から物が違った。更に恐ろしい早さで成長している。天性のセンスがあるんだろうな、今にここにいる誰よりも強くなるだろうと俺は思っている」
ナマエの視線の先で、ガロウはまた一人相手を打ち倒している。その横顔には勝利への喜びはなく、それよりももっと先にある何かを見据えているような切実さがあった。
(ガロウくんは、何のために強くなりたいんだろう?)
稽古場の隅に寄り汗を拭う背中を見つめたが、ナマエには何もわからなかった。