香りに纏わる2篇
空欄の場合は ミョウジ ナマエ になります。
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<シガレット>
『その煙草って、変わった匂いがしますね』
そう言われたのは、まだ彼女がただの隣人であった頃だったか。
晩秋の夜空に紫煙が溶け込んでいく。
街中でもこの季節にはけっこう星が見えるものだ。
空気は冷たく澄みわたり、控えめな灯りがまたたいていた。
以前住んでいたアパートとは違い、ちゃんと人が住んでいる集合住宅とあって、ベランダであっても喫煙できる時間帯は限られていた。
もう日付が変わりつつある今なら、住民の大半は寝静まっている。
面倒なトラブルに巻き込まれることもないだろう、と口腔内に旨味を吸い込みながら、ゾンビマンは恋人と出会ったばかりの頃のことを回想した。
あの頃は独りでいることが身に染みついていたから、時間など気にせず好きなようにふかしていたのだが、たまたまベランダへ出てきたナマエが、その匂いに気を留めたのだった。
「ああ、すまん。気になるか」
ゾンビマンがそう言って揉み消そうとすると、ナマエは慌てたように言った。
「あっ、そうじゃないんですけど…なんだか懐かしいような…どこかで嗅いだことがあるような気がして」
愛飲している黒煙草は堆肥臭、口の悪い者には馬ふんの臭いだなどと言われる独特の匂いをしている。
まさか馬ふんが懐かしいのかと訝しく思っていると、考え込んでいたナマエは、あっ、と声をあげた。
「思い出した、課外授業で行った牧場の匂いに似てる!」
「…そうか」
当たらずとも遠からずのその返答に納得しつつ、ゾンビマンはこっそり煙草の火を消した。
なんとなく、彼女にはこの毒を孕んだ煙が似つかわしくない気がした。
それからも、ナマエが傍にいる時には自然と煙草を控えるようになり、一緒に暮らし始めてからも、必ずベランダで喫煙するようにしている。
けっこうなヘビースモーカーだという自覚はある。
その内禁断症状とやらに悩まされはしないかと懸念していたが、それは取り越し苦労に終わった。
思えば埋められない虚しさをごまかしたくて、半ば捨て鉢な気持ちで手を出した習慣だった。
依存していたのは身体ではなく精神の方だったらしい。
十年来取り込んでいる有害物質も、人知を越えた再生力の前には何の影響ももたらさず、ゾンビマンの肺は綺麗なままだ。
無意味と知りながら今も続けているのは、単なる惰性だろうか。
それとも、生きる指針が見つからず荒んでいたあの頃が懐かしいのだろうか。
ぼんやりと物思いに耽っていると、ベランダの掃き出し窓が開く音がした。
反射的にまだ火のついたままの煙草を握り込む。
振り向くと、眠そうに目を擦る恋人が立っていた。
ゾンビマンの格好を見るや否や、ナマエは顔をしかめた。
「ゾンビマンさんったら、またそんな薄着で外に出て…」
彼女が小言を言うのも無理はなかった。
シャツを羽織っただけの裸の上半身は夜風に吹きさらしで、下半身に至っては下着のみだ。
そういうナマエは、眠りに落ちる寸前に着せたTシャツの上にパーカーを着込み、もこもこした暖かそうなルームパンツを穿いている。
困った人ですね、と眉根を寄せるナマエは、少し寝癖がついている以外、至っていつも通りの顔をしていた。
もう何度も情を交わしているのに、彼女は出会った頃と変わらず、どこか少女めいた無垢さを纏っている。
生まれつきその人が持つ雰囲気というものだろうか。
その健やかさを感じる度に、なにか後ろめたい気持ちになる自分を、ゾンビマンは否定できなかった。
本来ならばごく平凡な生涯を送っていたであろう彼女を、数奇な事情に付き合わせているような引け目かもしれない。
もちろんナマエ自身が選択したことだとわかっているし、それを聞けば彼女は間違いなく怒るだろうから、口には出さないのだが。
寒くないように隣に並んだナマエの肩を抱き寄せると、シャンプーの香りと混ざり合った彼女の匂いがした。
「服がヤニ臭くなったら困るだろ」
「別に気にしませんよ、そんなの」
「俺が気にするんだ。早死にされちゃ困るんでな」
その言葉を聞くと、ナマエは微妙な笑みを浮かべた。
ナマエのいるところで喫煙をしない理由を初めて聞いた時、彼女は呆れたような、拍子抜けしたような顔をしていた。
ゾンビマンさんって本当に心配性ですね、としらじらとした目をしていたナマエは、相変わらず自身の危なっかしさに今ひとつ無自覚な様子だった。
そりゃあ私は弱っちいけど絶滅動物じゃないんですから、と唇を尖らせる彼女に、初めて出会った頃なにかと声をかけていたのは、放っておいたら死にそうだと思ったからだと裏事情を明かすと絶句していたのを思い出す。
今はこうして恋人と共にいることを選んだが、胸の底に澱のようにわだかまる恐れは、ゾンビマンが不死身でいる限り永遠に解けない呪いのようなものだった。
ナマエもそのことはわかっているのか、それ以来このことについて何か言ったことはない。
こいつも面倒な男に捕まったもんだな、と他人事のように同情していると、ねえゾンビマンさん、とナマエが不意に口を開いた。
「前にテレビで見たんですけど、人が死んでから生まれ変わるまでの期間は、平均で四年半くらいなんだそうですよ」
いきなり何を言い出すのかとゾンビマンが目を瞬いていると、ナマエは視線をベランダの外に向け、少し声のトーンを落とした。
「だから、私が死んで…もし次に好きな人ができなくて、どうしても寂しかったら、」
彼女が自分が居なくなった後のことを、具体的に話すのは初めてのことだった。
思わず息を詰めていると、ナマエは再び顔をあげてまっすぐにこちらを見た。
「…四年半経ってから、私のこと探して見つけて下さいね」
星明かりが映り込んだ大きな瞳が笑いかける。
「生まれ変わっても、きっと私はまたゾンビマンさんのことを好きになりますから」
笑い返そうとして、うまく笑える自信がなくて、ゾンビマンはナマエを胸元に抱き込んだ。
僅かに力加減を間違ってしまい、ふぎゃ、と潰れたような声がする。
気付かない内に体が冷えていたのか、ナマエは陽だまりのように温かかった。
「…それはまたずいぶん骨の折れそうな話だな」
存在を確かめるように抱きしめると、もぞもぞと居場所を調節しながら、ナマエはゾンビマンの言葉に小さく笑った。
「根気よく探してくださいね。もしかしたら人間じゃないかもしれないし」
「できるだけ見つけやすいのにしてくれ。万一ミジンコなんかになってた日には、顕微鏡を買ってこなきゃならなくなる」
ゾンビマンの冗談にナマエは噴き出し、可笑しそうに声を立てて笑っている。
クスクスという吐息が裸の胸にくすぐったかった。
根拠のない空理空論に縋る気にはなれない。
それでもこれからずっと後になって、煙草の匂いと共に思い出すのは、今夜の星空になるだろうとゾンビマンは思った。
その時の自分が、どのような心境かはわからないが。
サラサラとした髪に唇を寄せると、僅かに煙の残り香が移ってしまっていることに気付いた。
しかし、影を落としていたはずのほの暗い感情は、ゾンビマンの中から跡形もなく消え去っていた。
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