秘密のあいさつ
空欄の場合は ミョウジ ナマエ になります。
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まどろみの中、携帯のアラーム音が遠くで聞こえ、ナマエはうっすらと瞼を開いた。
朝晩の冷え込みはまだ厳しく、タイマーをセットしていた暖房は効き始めたばかり、薄暗い部屋は寒々としている。
(まだ眠い…)
寝返りをうち、もぞもぞと体を丸めたところで、つま先が何かに当たりナマエは目を見開いた。
そして、布団に埋まった寝顔が視界に入るや否や、慌ててベッドのヘッドボードに手を伸ばした。鳴り続けていたアラームを速やかに停止し、恐る恐る様子を窺うと、変わらずゾンビマンは安らかな寝息を立てていた。
ほっと胸をなで下ろし、夜中に帰宅したらしい恋人の寝顔を見つめた。
心無し目元の隈が濃くなっているような気がする。
今回は汚染区域の調査と言ってたっけ、と出掛ける前に聞いた言葉を思い出した。
どんな仕事内容なのかわからないが、少なくとも落ち着いて睡眠を取れる環境ではないのだろう。
(やっぱり、ベッド分けた方が良いんじゃないかな)
生活サイクルが異なる為、一緒に住むにあたって寝室を、せめてベッドを分けた方が良いのではないか、とナマエは再三提案していたが、ゾンビマン本人によってその都度却下されていた。
曰わく、自分はどんな環境でも眠ることができるから、多少の物音は問題ではないということだったが、そうは言っても貴重な睡眠の妨げは、無いにこしたことはないだろう。
眉根を寄せ考え込んでいたところで、ナマエはハッと我に返った。
朝の時間は一分一秒でも惜しい。
早く身仕度をして出掛ける準備をしなくては。
携帯の時間表示は、毎朝のルーティンより僅かに進んでいる。
ナマエは振動を与えないようにそっとベッドを抜け出し、足早に洗面所へと向かった。
「『冷蔵庫の中のお惣菜の残りは食べてもいいです』と…」
身仕度と朝ご飯を済ませ、ついでに用意したもう一食分にラップをかける。
その傍に書き置きのメモを残し時計を見上げると、もうそろそろ出なければいけない時間になっていた。
コートを着て玄関まで行き、しかし靴を履かず、そのまま荷物を置き去りにしてナマエはUターンした。
寝室の扉を静かに開き、そろりそろりと足音を立てないように近づくと、ゾンビマンは未だ夢の中にいるようだった。
ベッド脇に膝を付き、穏やかな寝顔を眺める。
ゾンビマンを残して家を出掛ける際に、こうして様子を確認するようになったのは、彼が夜中に魘されているのに気づいてからの習慣だった。
深夜うなり声に目を覚まし、眉間にきつく皺を寄せ苦しげな表情をした恋人の姿を見た時には、思わず青ざめたものだった。
驚いて揺り起こすと、泣きそうになっているナマエを安心させるように、何でもない、夢見が悪かっただけだ、と彼は笑ってみせたが、その後再び眠りにつくまで、握りしめた指先は冷たいままだった。
非合法に行われた実験の被験体だったのだ、と以前彼は言葉少なに語った。
包括政府が成立するまでの軋轢を切欠として、サイボーグ化や超能力の開発といった、人間を兵器に仕立て上げる技術の研究が始まり、現在も秘密裏に続けられているらしいことは、知識として知っていた。
一般市民のナマエが、悪戯に首を突っ込んで良い事情ではないことは、理解している。
恋人として、何よりヒーローとしてナマエを守る立場にあるゾンビマンが、多くを話そうとはしないのも、仕方のないことだと受け入れている。
ナマエにできるのは、今のゾンビマンを信じることだけだ。
だから、彼の安らかな眠りが守られている光景は、ナマエをいつも安心させた。
静かに瞼を閉じた顔には、苦悶の色は欠片も見当たらない。
ぐずぐずしていると遅刻してしまう、と頭の片隅で考えながら、会えなかった間の恋しさもあって、ついそのまま見入ってしまう。
起きている間は引き締まっている表情が弛み、長い睫毛が頬に影を落とした寝顔は、端正なつくりでありながら、どこかあどけない印象をナマエに抱かせた。
(かわいい…)
成人男性に使うには似つかわしくない形容なので、胸の内にしまっていたが、こうして寝顔を見守る度にその感慨は強まっていった。
再生能力のためか肌荒れひとつ無いのが羨ましい。
ちょっとだけなら、と自分に言い訳をしながら、すべすべした頬に指先で触れる。僅かに弾力のあるそれを軽くつつくと、ゾンビマンは小さく呻り身じろぎをした。
「~~!!」
声を漏らさないように懸命にこらえながら、愛くるしい反応にナマエは悶えた。
こんなことしてないで出かけなくては、と立ち上がりかけたところで、ひとつの考えが頭に思い浮かんだ。
(…よく寝てるし、大丈夫だよね)
少し逡巡した後、化粧を施したばかりの唇をティッシュで押さえる。
ゾンビマンの熟睡っぷりに後押しをされたように、ナマエは穏やかな寝顔にゆっくりと顔を近づけた。
息を止め目を閉じて、頬にそっと触れるだけのキスをする。
「…」
再び目を開けると、先ほどと変わりなくゾンビマンは眠り続けていたが、何かとんでもなく恥ずかしいことをしたような気がして、ナマエは一人で真っ赤になった。
それと同時に差し迫った出勤時間のことを思い出し、慌てて立ち上がった。
掛け布団を速やかにかけ直し、足音を立てないように部屋を出て玄関まで進む。
そして、玄関を出て扉に施錠をするや否や、ナマエはマンションの廊下を走りだした。
本当ならば叫びだしたい気持ちだったが、流石に近所迷惑なのでそれは控えた。
もどかしい思いでエレベーターを待ち、エントランスを出てからも引き続き駆け出す。
時間的にはそこまで急がずとも間に合うのだが、後からじわじわ上がり出した熱に浮かされ足が止まらない。
やっちゃった、やっちゃった、と頭の中で繰り返しながら風を切って走る。
相手から触れられることにはもう慣れたものの、こちらから仕掛けるのはいまだに苦手だった。
たまにはお前からもしてくれよ、と言われ緊張しながら口付けたことはあるが、前もって目を閉じて欲しいと頼んでおいても、いつの間にか開いているので心臓に悪かった。
だからつい無防備な姿を見て、今なら何でもできると気持ちが大きくなってしまったのだが、我に返ってみると恥ずかしくてたまらない。
冷たい空気で熱くなった頬を冷ましながら、しかしその一方で、ナマエは今までにない感覚に戸惑ってもいた。
比較的落ち着いた状態で自分から恋人にキスをしたのは、多分これが初めてのことだったが、それは相手からされる時とはまた違った喜びナマエにもたらした。
慈しむような、温かくて優しい気持ち。
フワフワしたもので胸がいっぱいになり、緩んだ表情を周りの乗客に怪しまれながら、ナマエは朝の満員電車に揺られていた。
ちゅ、と押し当てた唇を離し瞼を開けると、ゾンビマンはいつも通りよく眠っていた。
随分と慣れっこになった秘密のあいさつを済ませると、行ってきます、と心の中で唱え、ナマエは部屋を後にした。
あれ以来、恋人の寝顔を見守るついでにキスをするのが新たな習慣になっていた。
衝動的だった最初の試みの後、家に帰ってゾンビマンと顔を合わせた際に、それとなく気付かれていないか探りを入れてみたが、全く感知した様子はなかった。
その後二回、三回と恐る恐るチャレンジを重ねるも特に気付いた素振りはなく、意外とバレないものなんだ、と勢いづいたこの頃は、ナマエ自身も信じられないことに、ほぼ平常心で恋人に触れることができている。
とは言っても、ゾンビマン本人は眠ったままなのだが。
(今日もかわいかった~)
えへへ、と一人デレデレしながら軽やかな足取りで出掛けるナマエは、誰もいなくなった部屋の中、微妙な表情で溜め息をつく恋人には気付くはずもなかった。
その日は、朝目を覚ますとつい先ほど帰宅したらしいゾンビマンが起きていた。
ナマエに気付くと、リビングで銃の手入れをしていたのを中断し、シャワーを浴びたら一眠りすると言う。
「朝ご飯は要らないんですか?」
「変な時間に晩飯食ったから腹は減ってないんだ。それより、今すぐにでも布団に直行したい…眠くてたまらん」
そうぼやきながら浴室へ向かうゾンビマンは、確かにひどく眠そうに目を瞬いている。
ナマエが朝食をとっている最中、どうにかシャワーを終えフラフラと出てきた後も、頭を乾かすのもそこそこにベッドに倒れ込んでいる。
「頭が濡れたままですよ、風邪ひきますよ」
「うーん…」
声をかけて揺さぶるも、ゾンビマンはもう夢の国に旅立ちつつあるのか生返事しか返ってこない。ナマエは溜め息をつきながら布団をかけ直した。
よっぽど疲れているようだからそっとしておいてあげよう、と朝の情報番組の音量を小さくし、途中になっていた食事を再開したところで、ナマエはふと考えた。
(今日はどうしようかな…)
まだ布団に入って間もないが、さっきの感じだと出掛ける頃には熟睡しているだろう。
なら大丈夫か、と例の習慣は決行することにする。
今まで一度もバレたことがないという自信が、ナマエの気を大きくしていた。
朝食と身仕度を終え、慣れた様子で寝室に足を忍ばせる。
ベッドには先ほどと同じ体勢でゾンビマンが就寝していたが、ナマエは僅かな違和感を覚えた。
何となく、寝相が綺麗過ぎるような気がした。
しかし近づいてみると、ゾンビマンは静かに寝息を立てている他は微動だにせず、やっぱり気のせいか、と思い直したナマエは目を閉じ顔を近づけた。
頬にキスをし、瞼を開ければ眠ったままのゾンビマンがそこにいる。
そのはずだった。
(あれ…?)
ばっちり開かれた赤い瞳と至近距離で視線がかち合い、ナマエの思考は一時停止した。
起きてる。
誰が?
ゾンビマンさんが。
次の瞬間、声にならない悲鳴をあげ跳ね起きたナマエは、すかさず繋ぎ止められた手によってあえなく逃亡に失敗した。
もんどり打ってベッドに倒れ込み、せめてもの抵抗で突っ伏して顔を隠す。
その一部始終を冷静に観察していたゾンビマンは、拘束した手はそのままに、笑いをこらえながら話しかけた。
「おい、大丈夫か」
「…ナンデオキテル」
「いい加減気付かない振りするのも邪魔くさくなってな。因みに、さっきやたら眠い眠いと言ってたのはウソだ」
「…イツカラ」
「最初に気付いたのは先月の初め頃だったかな」
何ということだ、とナマエは羞恥心で消え入りたくなった。
その話が本当ならば、もう片手では足りない回数の秘密の行為が、筒抜けだったことになる。
ますます小さくなってうずくまる頭を撫でながら、何でさっきから片言なんだよ、とゾンビマンは面白そうにその様子を眺めている。
「別に隠すことないだろ。俺もよくやる」
聞き捨てならない台詞だったが、それに突っ込もうとする前に、ゾンビマンは言葉を続けた。
「尤も、お前はいつもぐっすり寝てて気付かないけどな」
そこで一つの可能性に思い当たりハッとなった。
ナマエだっていつも、ゾンビマンを起こさないよう細心の注意を払ってはいた。
それなのに気付かれたということは、その前の起床時の物音で、彼の眠りが浅くなっていたということではないのか。
大事な休息時間を邪魔していたことに、ナマエは申し訳ない気持ちになり、ゆっくりと顔をあげた。
「どうした、変な顔して」
ナマエがしょげているのを見て、ゾンビマンは怪訝そうに尋ねた。
「…やっぱり、ベッド分けた方が良いですよ」
ぽつりと呟いた言葉の意味を、察しの良い恋人はすぐに理解したらしい。
何事か思案していた後、どう説明したものか考えている様子で、ゾンビマンは話し始めた。
「そのことだが…俺が物音を気にせず眠れるっていうのはな、基本的に眠りが浅いからなんだ」
「眠りが浅い?」
鸚鵡返ししながら、ナマエは首を傾げた。
眠りが浅いなら、逆に物音が気になるものではないか。
どういうことか判らずナマエが考え込んでいると、ゾンビマンは続けた。
「長期間の任務中は何かと気が抜けないからな。睡眠を取る時も周囲の状況をすぐに察知できるように、半分覚醒したような状態でいるんだ」
それが習い性となってしまったのか、任務中以外でも眠りが浅くなってしまったのだという。
「だから、厳密には物音に気付くことはある。ただ、それに構わず眠り続けることができるってことだ」
瓦礫の間で寝たこともあるしな、と何てこと無さそうに言うのを聞いて、ナマエは胸の奥が小さく痛んだ。
安心してゆっくり眠ることができないなんて。
仕事の都合上仕方ないことなのかもしれないが、どうも不憫に思えてならない。
ぎゅっとシーツを握りしめたナマエの手を、大きな手で包み込みながら、ゾンビマンは困ったように笑った。
「別にそれで睡眠不足になったりはしてないぞ。たまには熟睡することもあるしな…それに、敵地でピリピリしながら眠るのは確かにいい気分じゃないが、夢うつつの中で間抜けな誰かさんの気配を感じるのは、なかなか悪くないもんだぜ」
ナマエはしばらくゾンビマンの言葉を咀嚼していたが、間抜けな誰かさん、と繰り返して呟き、やっとその真意に気付いた。
「ちょ、ちょっと、誰が間抜けなんですか」
若干のタイムラグの後、勢いよく手を払いのけて憤慨し始めたナマエに、ゾンビマンはちらっと時計を見やりながら告げた。
「それよりお前、こんなにのんびり無駄話してていいのか。いつも家を出る時間をもう過ぎてるようだが」
その言葉に倣って時計に目をやったナマエは、サッと青くなった。
慌てて立ち上がり、こけつまろびつ玄関へ向かう。
後ろから、鍵は後で閉めておくから開けて行け、と言う声が聞こえるのにおざなりに返事しつつ、靴を履き玄関扉を飛び出した。
「行ってきます!!」
「途中で転ぶなよー」
その後、どうにか乗り込んだいつもの電車の中で、改めて自らの秘密がスッパ抜かれたことを思い出したナマエは、またしても周りの乗客に怪しまれながら一頻り悶えたのだった。
爽やかな朝の光の中、ナマエは恋人の寝顔と睨み合っていた。
相手は目を閉じているのだから、睨み合うというのは語弊があるかもしれないが、少しの違和感も見逃さないよう、眼光鋭くゾンビマンの様子を観察する。
その時、ピクリと目元が痙攣した。ような気がした。
ほんの僅かな動きだが、ナマエはそれを目にした。
(…やっぱりやめておこうっと)
諦めたナマエが静かに立ち上がるが早いか、閉じていた赤い瞳がカッと見開かれた。
「おい、結局しないのかよ」
「キャアアアー!」
絹を裂くような悲鳴をあげて飛び退いたナマエは、だまし討ちをしようとした恋人を糾弾した。
「やっぱり起きてたんじゃないですか!」
「ああ、起きてるぞ。ほらキスでもなんでも好きにしろよ」
半身を起こして両腕を広げ、来いよ、というようなジェスチャーをしているゾンビマンから逃げるように、ナマエは踵を返した。
「も、もうしません!」
赤い顔をして慌ただしく寝室を出ていく恋人に、ゾンビマンは、逃げられたか、と小さく舌打ちをした。
もうバレてしまったのだから、寝ていようが起きていようがやりたいようにすれば良いと思うのだが、筋金入りの照れ屋ではそうはいかないらしい。
こんなことならもうしばらく気付かない振りをしておくんだったか、と少し後悔する。
しかし、戦況に応じて柔軟に出方を変えるのが火力の足りない自分のやり方である。
(…なら向こうが騙されてくれるまで、狸寝入りの精度を上げるまでだ)
その後、努力の甲斐あって寝たふりが成功するようになったのか、はたまたやっぱり面倒になったゾンビマンが本当に寝入ってしまうようになったのか。
ともかくこの『朝のあいさつ』は、公然の秘密として、二人の間で静かに続けられた。