1 王女の亡命

 イザドラのいつもの口調に、レイは少し落ち着きました。
「勝手に歩き回って、ごめんなさい。私、顔を洗おうと思っただけなの」
「まあまあ、そうですか。ああ、姫様は川以外に水のある場所をご存じなかったのでしたね。ご覧なさい、そこに洗面所があるでしょう。あそこの蛇口を捻れば、それですみますよ」
 言われるがまま、レイは「洗面所」の前まで来ました。そこには白い陶器の器と、鶴が首をもたげているような格好の、銀色の彫刻がありました。指示されるままに、取っ手を手前に引っ張って見ますと、鶴の頭から水が漏れだしてきました。
「凄い。とても面白いわね!」
 レイは水を手で受け止めました。そして、顔に運びました。
 顔に水が当たりました。でも、なんだかおかしいのです。水の量が少ないのです。汲んでも汲んでも、両手の隙間から、水がするりと抜けて行ってしまうのです。
 ぼんやりと両手を眺めていると、イザドラが取っ手を押して、水を止めました。そして、これまでと同じように、レイの顔を優しく拭いてくれました。
「後で呼びに行きます。着がえて部屋で待っていてくださいな」

 あの青いドレスを着てから、髪を梳いてもらい、レイは下の部屋に呼ばれ、食卓らしきテーブルにつかされました。
「お食事の前に、私の家族を簡単に紹介しておきましょう。まあ、それほど長い付き合いになるとは、とうてい思えませんが」
 目の前には、ついさっき出くわした金髪の女性と、大男が座っていました。男は髭を整え、清潔な服に着かえていました。
 イザドラはレイの隣で、二人の説明をしてくれました。
 金髪の女性は、ステイシー・ワトソンといって、イザドラの三人の娘のうちの、末っ子でした。この末娘は工場に勤めていましたが、凄まじい仕事の腕の早さで評価されていました。一方で、男癖が悪い上に家での態度はだらしなく、家事もろくにしないうえに、やたらと反抗的な態度でしたので、いつまで経っても結婚できずにいました。
 男の方は、アーノルド・ワトソンといいました。ステイシーの父親で、イザドラの夫でしたが、酒癖が悪く、横暴な性格でしたので、イザドラとは喧嘩が絶えず、もう何年もまともに口をきいたことがないそうです。
「夫と言っても、こんなのに愛情も何もありませんよ。だけど、嫁入り前の娘がいるのに、別れるわけにもいかないでしょう。だから私は家を出て、昔お世話になった、ナサニエル様の所へ行ったというわけですよ」
 イザドラは笑顔でそう教えてくれました。ナサニエルとは、レイのお父さんの名前です。レイはよく理解できぬまま、とりあえず頷きました。
「どっかの家で住みこみで働いてる、としか聞いてなかったよ? あたしたち。クリスマスでもないのに、どうして帰ってきたのよ。しかも、こんなちっさい子を引き連れて」
 椅子を揺らして伸びをしながら、退屈そうにステイシーが尋ねました。
「色々あって、いられなくなったのよ。私もこの子も。新居を探すまでの間いるだけよ。いいでしょう? 元はといえば、ここは、私の家でもあるのだから」
 イザドラはすまして答えました。ステイシーは眉を寄せました。
「本気で言ってるの? ママ一人、この子を連れてどこかへ行くの? 仕事はどうするのよ」
「親戚をあたってみるわ。仕方がないでしょう。こんなやつが家にいては、どうしようもないわ。わかるでしょう?」
「ママは本当に意地っ張りね。ねえ、パパ」
 それまで黙っていたアーノルドは、勢いよく椅子から立ち上がりました。
「お前と二人きりで過ごす子供が可哀想だな」
「まあ、腹立たしい!」
 アーノルドは部屋を出て行ってしまいました。
「あーあ。めんどくさいなあ……」
 ステイシーはちらりとレイを見ました。
「あなたの名前、まだ聞いてないわね」
 レイはその目力に首をすくめました。でも、また黙っていたら、今度は馬鹿にされるだけではすまないように思いました。
「レ、レイチェル……」
「レイチェルね。あなたは、ちょっとお外に行っといで」
 強引に背中を押され、レイも部屋の外へ出されました。ステイシーを咎めるイザドラの声が聞こえましたが、扉が閉まる音にかき消されました。
 知らないところを歩き回ることには、すっかり懲りていましたので、レイはそのまま扉の前で待っていることにしました。
「うちに置いとけばいいじゃない。あたし、あんな女の子が一人増えたところで、気にならないわ」
「あなたはそれでいいでしょうけど、姫様は繊細なの。ずっとあなたに怯えて暮らさなければならないなんて、あんまりだわ」
 二人ともよく通る声をしていましたので、扉越しでも会話がよく聞こえました。
「そんな事言ってどうすんの。学校は? 行かせない気? どこに行ったって、あたしみたいなのは必ずいるわよ。それよりも、いざというときにあなたしか頼る人がいないほうが、よっぽど可哀想よ」
「だったら、あいつはどうするの。アーノルドは、自分の子以外の子供を見ると、機嫌が悪くなるのよ?」
「それは……」
 レイは、だんだんイザドラに申し訳なくなってきました。この二人の会話を完全に理解しきれたわけではありませんが、自分の為にイザドラが言い争っていることはよくわかりました。
「立ち聞きか」
 突如、唸るような声がしました。そっと辺りを見回すと、廊下の突き当たりに、アーノルドがいました。
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