1 王女の亡命

 じりじりと照りつける陽光に顔をあぶられて、レイは目を覚ましました。ふと近くにあった腕時計を見ますと、十一時でした。
「大変、五時間も余計に寝てしまったのね」
 レイは慌てて上半身を起こしました。そして、自分のいる場所がいつもの寝室でないことに気が付きました。
 部屋の窓からは、舗装された道路に灯の消えた街灯、それに、見たこともないほど沢山の人々が行きかう様子でした。
 扉を開けると、そこは、古びた木の床にくすんだ色の壁で彩られた、廊下でした。左手に見える階段を降りますと、濃い金髪をきちんと結いあげ、深緑のワンピースを着た、若い女性がいました。彼女は、レイをじろりと睨みました。
「あら、おはよう。ようやく起きたの、おちびさん」
 レイは、びっくりして、口がきけませんでした。それを見て女性は大げさに溜息をつきました。
「いやあね、朝の挨拶もできないの? まあ、もうすぐ昼だものね。『おはよう』ってのもおかしいか」
 つかつかと女性は去って行きました。レイは静かに、元いた部屋に戻りました。
 部屋には、昨日引きずりまわしたトランクがありました。持ち上げきれずに何度も地面にこすってしまった跡が、くっきりと残っています。
 その跡を撫でながら、レイは昨日のことを思い返しました。
 まるで、うつつから夢の中へと入りこんでしまったかのような、奇妙な体験でした。
 トランクを開けると、少し左に寄っていましたが、昨日見たときと同じように荷物が詰められていました。もちろん、その中には、お気に入りの青いドレスもありました。レイはそれを着ようとしてから、まだ顔を洗っていないことに気づき、もう一度階段を下りました。今度は足音をたてないように。

 でたらめに歩いていると、台所のような場所に着きました。その側には裏口なのか、小さな出入り口が設けられていましたので、レイはそこから外に出ました。
 これまで、レイが顔を洗うときは、庭の近くを流れている川で水を汲んで洗っていました。桶や壺は必要ありません。川の中に水を入れると、手の周りの水だけがゼリーのように固まって浮かび上がってくるので、そのまま洗うのです。でも、イザドラにはこれができないようでした。
「いいですねえ、あなたがたは。自由に時間を止めたり、動かしたりできるのですから。私なんてどうです、水の時間ひとつ止められませんから、顔を洗うのだって、もう必死ですよ。手のひらに掬える水なんて、ごくごく僅かなのですからね!」
 レイの身支度を整えるとき、イザドラはいつもこのような文句を言っていました。
 ところで、この家の庭には、川も流れていませんし、井戸もありませんでした。隣の家との間には垣根があり、レイの身長では、とても越えられそうにありませんでした。
 レイはがっくりと肩をおとしました。そして、あることに気が付きました。
「そういえば、イザドラがいないわ。どこかしら」
 イザドラを探そうと思ってレイは踵を返し、そのまま、ひっと息を呑んだまま、立ちつくしてしまいました。
 いつのまにか、レイの背後には、ぼさぼさの灰色い髭をもった、大男が仁王立ちしていたのでした。でっぷりとしたお腹で頭ははげ、皮膚はがさがさで黒ずんでいました。大男は、レイをぎろりと一瞥し、がらがらの声で怒鳴りました。
「なんだあ、お前は。人んちの庭にぃ、入るんじゃあねえぞ」
 レイの奥歯は、震えて音をたてていました。体中の毛という毛が逆立ったかのような寒気を覚え、今にも卒倒しそうになりました。
 そのときです。
「あんた! 何をぼおっと、立ちつくしてんだい!」
 噛みつかんばかりの勢いで、家の中から太った女性がどたどたと出てきました。よくよく見ると、それはイザドラでした。イザドラと比べても、男のほうが頭三つ分、背が高いようでした。
イザドラは、男のまん前で凍りついているレイに気づくと、急に表情を和らげました。
「おや、姫様。こんな所で何をなさっているのです?」
 レイは、無我夢中でイザドラに抱きつきました。言いたいことは山ほどありましたが、恐怖のあまり、うまく言葉を紡げませんでした。イザドラは、右手でレイの頭を撫でると、男を払いのけるかのように左手を振りました。
「あんたみたいな下品な男が、姫様にちょっかいをかけるんじゃないよ。ご覧、こんなに怯えてしまっているだろう。おまけにあんたは酒臭いよ。どうせ、昨日も酔いつぶれて寝たんだろうね。とっとと風呂にでも入ってきな」
 イザドラは、レイに話しかけるときとも、先程の女性のときとも違う、恐ろしく荒々しい口調で怒鳴りつけ、男を追っ払いました。レイは思わず、イザドラを掴んでいた手を離しました。
「はあ。姫様、ねえ」
 男は舌打ちすると、どすどす、と荒い足音をたてて、家の奥へ消えて行きました。
「大丈夫でしたか、姫様。あれは、ろくでなしのばか男です。何を言われたのかわかりませんが、気にすることはありませんよ」
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