1 王女の亡命

 いつまで経っても、イザドラは帰ってきませんでした。これには、いいつけを守って小屋で本を読んでいたレイも、さすがに淋しくなりました。
レイは、イザドラのいいつけを破ったことがありません。でも、どうしても、外の様子が気になって仕方なくなりました。
「外を見よう。見るだけなら、小屋の外に出たことにならないわ」
 扉は、外から鍵がかけられていましたが、窓の鍵は、内側からかけられていました。レイは側の椅子を引きよせると、それに登り、窓の外を覗きました。
 小屋は丘のてっぺんに建てられていましたから、町の様子もよく見えました。時計たちが住むための小さな家が、きれいに並んでいるのがわかります。外に出ている人……いえ、時計はいないようでした。
「誰も外にいないのね」
 レイは、鍵を外して、固い窓をこじ開けました。そして、窓から身を乗り出すと、おかしなことに気が付きました。
 青空の中を太陽がぎらぎらと光っているのに、外の空気はひんやりしていました。風もありません。
「どうして、こんなに寒いのかしら。それに、さっきまで夕方だったはずなのに」
 辺りはしいんと静まりかえっていました。レイの呟きも、空気にとけて消えてしまいました。レイは怖くなって、慌てて窓を閉め、鍵をかけなおして、椅子から飛び降りました。それでも怖くてたまらなかったので、窓から目を離さないようにしながら、じりじりと後ずさりしました。(今から思えばばかばかしい行動ですが、当時のレイは真剣でした。)
 そのとき、ごつん! という鈍い音がして、肘に痛みが走りました。振り返ると、そこは壁でした。でも、レイが肘をぶつけたのは、壁ではありませんでした。
「まあ! ただの壁に、ドアノブがあるわ」
 もしかして、扉でしょうか。さっそく回してみましたが、ノブは、うんともすんともいいませんでした。
 やっぱりただの壁のようです。
 レイはその場にへたりこみました。
「姫様」
 頭の上から声がして、レイは顔を上げました。そこにいたのはイザドラでした。なんだか重苦しい表情をしています。
「おかえりなさい。お父様たちは、どちらにいらっしゃったの?」
 何気ない問いかけでしたが、イザドラは答えてくれませんでした。口元を手で隠したまま、俯いているだけです。
「ねえ、イザドラ」
 レイは、イザドラのジャンパースカートの裾を引きました。
 イザドラは黙ったまま、ひとつのトランクをさし出しました。レイ一人では抱えきれないくらい、大きなトランクでした。開けてみると、そこにはレイのお気に入りのドレスや肌着、上着にぬいぐるみ、本などがぎっしりと詰めこまれていました。
「これは、何?」
「できる限り、持ち出してきました。あなたの荷物です。これから私たちは、国の外へ行かなければなりません。よいですね」
「なんですって?」
 レイは、自分の耳を疑いました。国の外へ行く?
「どうして、行く必要があるの。私たちの家は、ここにあるのに」
「なくなりました。もう、ここでは生きていけませんよ。時が止まったのですから」
「『時が止まった』?」
 理解が追いつかないまま、レイはイザドラの言葉を繰り返しました。イザドラは、ポケットから小さな、錆びた鍵をとりだして、壁から生えていたドアノブに差しました。
「今はわからないと思います。でも、そのほうがいい」
 鍵を回すと、何もしていないのに、ピシッという音とともに、壁に亀裂が入りました。イザドラはノブを回しました。今度はちゃんと回りました。
「森のほうは、外の人間だらけです。こちらから脱出しましょう……その前に」
 イザドラは振り返って、レイに何かを差し出しました。それは金色に光る、少し大きめの腕時計でした。腕輪の部分も文字盤も針も、何もかもが金でできていました。文字盤には美しい王冠が刻まれていました。レイはそれを、つくづくと眺めました。
「これは、お父様が持っていたものじゃない。どうして、ここにあるの?」
「あなたに差し上げると、あなたのお父様は仰っていました。大切になさってください」
 最後まで言い終わらないうちに、イザドラはレイの手を引きました。レイは、トランクを引きずりながら、それに従いました。
 グギギギギ、という嫌な音をたてて、「扉」が開きました。
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