1 王女の亡命

 レイが五歳のときでした。
 ハルは、あと二カ月で一歳になろうとしていました。
 サンディが、森の向こうへ出かけてゆきました。
 それを、誰も止めませんでした。
 あのとき、止めておけばよかった、とレイは今でも思っています。
 夕方になって、サンディは帰ってきました。
 その二時間後のことでした。日は、今にも沈もうとしていました。
 固くて丸い制帽を被り、深緑色の生地に金糸を縫い付けた軍服をかっちりと着こんで長靴を履いた男の人が、何十人も、何百人もやってきました。
 彼らは、門番の柱時計たちを蹴散らして、堂々と城の中へ入ってきました。
「この場所はなんだ。時計塔か?」
「建物は古いが、手入れされている。こんな場所があったとはな」
 地鳴りのような大量の足音に混じって、ぼそぼそとした呟きが聞こえました。寝室にいたレイは、イザドラに手を引かれ、裏口から外へ引っぱり出されました。このとき、レイは今までにないほど、強い力で手を握られました。
 イザドラは息を切らせながら、しかし落ち着いた声でレイに語りました。
「よいですか、ここに居てはいけません。あれはおそらく、森の向こうの人間です。まったく、どこから入りこんだのか! やつらが姫様を見つければ、きっと、あなたが何者であるかを問いただすでしょう。そうすると、長い間隠されていたこの国の秘密がばれてしまう。あいつらはこの場所のことを、役人に報告するでしょう。そんなことになったら、この国は、もはや国ではなくなってしまう」
 当時のレイには、それがどういうことかわかりませんでした。ただ、何か恐ろしいことが起きている、ということだけは、はっきりとわかりました。
「お父様は、お母様は? ハルはどうしているの?」
「大丈夫です。とにかく、早くこちらへ! 後のことは、あのアールが、なんとかしてくれるでしょう」
 レイは、言われるがまま、抱き上げられて、時計たちの住む町へと連れて行かれました。
 城の向こうの町には、時計たちが住む、小さな家が並んでいました。その一番すみっこに、ひとつだけ、人間の大人が入れる高さの小屋がありました。二人がそこへ辿りつくと、扉が開いて、赤いめざまし時計が、ひょこっと顔を出しました。イザドラは、彼を見るやいなや、こう捲し立てました。
「ティム、緊急事態よ。この国の存在がばれそうなの。今、城に何百人もの人間がやってきているわ。『大時計のほう』はアールが見ていてくれているはず。すぐに行って頂戴」
 ティムというのは、クロックを守る兵士の一人でした。たまに王様のもとへ挨拶に来ていたので、彼のことはレイも知っていました。彼は国の見張り番で、普段は城下町のはずれの見張り小屋にいる、ということも、イザドラから聞いていました。でも、それがどこにあるのかは知りませんでした。
「イザドラ、ここは見張り小屋なの? 小屋というわりに大きいのね。イザドラが頭をぶつけずにすむのだもの」
「ええ、見張り小屋ですよ。こんなときの為に、大きめに造られているのです……さあ、入って。しばらくはここから出てはいけませんよ。私はこのティムと、城の様子を見てきます」
 イザドラは早口でまくしたてると、目を白黒させているレイを小屋に押し込んで鍵をかけ、どこか――きっとお城でしょう――へ行ってしまいました。
「どうして、私はここにいなければならないのかしら」
 一人、取り残されたレイは、ぽつりと呟きました。
 幼いレイには、事の重大さがわかっていませんでした。
 当然、両親にはすぐに会えると思っていたのです。
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