5 兄の真実

 その日、帰宅したギルは部屋に戻り、何度も懐中時計のゼンマイを巻いてみましたが、手を離しても時計が動きだすばかりで、フローの姿はおろか、声すらも聞こえてきませんでした。
 やっぱり、あの夜の出来事は夢だったのでしょうか。しかし、森の奥にあった不気味な時計塔やアリーの帽子、そしてあのバートが使った不思議な術のことを考えると、とてもそうは思えません。
 そういえば、とギルは顔を上げました。そもそも、この時計をギルに譲ってくれたのは、兄のハルでした。ハルに聞けば、何か教えてくれるかもしれません。
 ギルはすぐさま席を立つと、駆け足で隣の部屋へ向かいました。


「妖精?」
 ベッドに腰掛けて読書をしていたハルは、本に視線を落としたまま、訝しげに聞き返してきました。
「そうなんだよ。フローっていう、変な頭した妖精が出てきて、王子がどうとか、森に来てほしいとか……」
「森だって?」
 ハルは眉をひそめると、本を閉じてギルを見上げました。
「まさか、隣町の森かい? あそこへ行ったのか」
 ギルはぎくりとして固まりました。こういうとき、とっさにうまく立ち回れないのが、ギルの悪いところでした。図星であることを見抜くと、ハルは怒ってベッドから立ち上がりました。
「あれほど止められていたのに、また行ったのか! だからローレンスさんの家にいたんだな。どういうつもりなんだ」
「ご、ごめんなさい。だけど俺、行かなきゃいけなかったんだ」
 ギルは慌てて謝りました。そして、懐中時計を取りだして、ハルに見せました。どうせ叱られるなら、今日あったことを全て聞いてもらってからにしようと思ったのです。
「聞いてよ、あの森に行くと、不思議なことがたくさん起こったんだ。突然時計が光ったり、針が回りだしたり。それから……」
「やめろ、それ以上言うんじゃない」
 ハルがぴしゃりと言いました。普段なら絶対に見せない、冷たい表情でした。
「森には行くな。関わるんじゃない。余計なことを知る必要はない」
「でも、フローが来てほしいって言ったんだ。助けてほしいって、俺に言ったんだ」
「あんな奴らの言うことを聞くな! 僕はもう、くだらない奴らに関わるのはたくさんなんだ。これ以上、僕を惑わさないでくれ!」
 その凄まじい剣幕に、ギルは言葉を失いました。とても何かを言い返せる状況ではありません。しかし、ハルの言葉には違和感を感じました。まるで、今日までのギルの体験を知っているかのような言い方です。
「何を言い争っているの、やめなさい!」
 騒ぎを聞きつけたお母さんが部屋の扉を開けて入ってきました。お母さんはとっさに扉のそばにいたギルの肩を抱くと、不安げにハルの方を見ました。
「ハル、どうしたの。そんなに大声を出したりして。まるでギルみたいよ」
 すると、ハルはお母さんに向かってこう吐き捨てました。
「そうだよ、僕は大声を出して喧嘩をしたりしない。勉強だってさぼらないし、誰かを怪我させたりもしない。僕はそういう子供だった。そういう子供でいないと、誰にも育ててもらえないんだ。だって僕は母さんたちの家族じゃないからね!」
 そうして、近くの机に置いてあった封筒と財布だけを取ると、そのままお母さんを押しのけて、出ていってしまいました。
 ギルは何が起こったのかが理解できず、その場から一歩も動けませんでした。お母さんも呆然とその場に立ちつしていましたが、しばらくすると、ふっと糸が切れたように、その場に座りこんでしまいした。
「母さん!?」
 ギルが慌てて立ち上がらせようとすると、お母さんは俯いたまま、呻くように呟きました。
「どうして……? 私は、ずっとあの子を可愛がってきたはずなのに……」


 それから、十分が経過しましたが、ハルは帰って来ず、お母さんは床に座りこんだままでした。ギルはいても立ってもいられず、ハルを探しに行こうと玄関の扉を開けました。すると、ちょうど誰かが扉の向こうに立っていました。それは、ギルのお父さんでした。
「やあギル、ただいま。どこかへ行くのか? もう日が暮れているぞ」
「父さん、大変なんだ。兄さんがどこかに行っちゃったんだよ」
「なんだ、そんなこと。あのハルが夜遊びをするはずはないし、大丈夫だろう。じきに帰ってくるさ」
「違うんだよ。俺にもよくわかんないけど、大変なんだよ」
 どんなにギルが説明しても、お父さんは冗談でも聞いているかのように笑い飛ばすばかりでした。ところが、ギルの後ろから目を真っ赤にして憔悴しきったお母さんがやってきたのを見て、ようやくただ事ではないことに気がついたようでした。
「おい、おい。一体どうしたんだ」
「知らないよ。とにかく、俺、兄さんを探してくるから」
 ギルは、お父さんたちが何か言う前に、家を飛び出し、全速力で走りました。


 ハルは、拍子抜けするほど簡単に見つかりました。家の近くの駅の薄明かりの下、人混みに紛れてぼんやりと汽車を眺めていました。ギルはすぐさま駆けよって声をかけました。
「こんなところで何やってるのさ」
 ハルは答えませんでした。代わりに、ため息まじりに薄く笑ってみせました。
「参ったなあ、やっちゃったよ。これでもう、僕は家には帰れない」
「何、めちゃくちゃなことを言っているんだよ。家なんかすぐそこじゃないか。帰ろうよ」
 ギルはハルの腕を引っ張りましたが、びくともしませんでした。普段のハルなら、何回かお願いすればすぐに折れてくれていたのですが、今日に限っては随分と頑固でした。
「ギル、九年前のことを覚えてる?」
 不意に、ハルが尋ねました。視線は相変わらず、改札やプラットフォームの方を向いていました。ギルは驚きつつも、答えました。
「九年前じゃ、俺はまだ二歳だよ。何にも覚えてないや」
「そうだ。そして僕は七歳だった。九年前に、僕らはローレンスさんに招待されて、隣町に家族で遊びに行った。大人たちは楽しそうに話していたけれど、僕はつまらなかった」
 ハルはずっと、改札の方を向いたままです。ギルに話しかけているのか、独り言を言っているのか、ギルにはよくわかりませんでした。
「しばらくして、大人たちはギルがいなくなっていることに気がついた。僕はひとりで窓の外を眺めていたから、ギルのことなんか見ていなかった。家中探したけれど、ギルは見つからなかった。それで、大騒ぎになったんだ」
 そして、おもむろに駅の窓口に近づくと、窓の隙間から現金を差しだしました。
「コードルクまで。二枚ください」
 コードルクというのは隣町の名前です。ギルは仰天しました。辺りはすっかり暗くなっているのに、こんな時間に隣町へ何をしに行くのでしょう。
「どういうつもりだよ、兄さん」
 すると、ハルは口元に穏やかな笑みを浮かべて振り返りました。
「いい子でいるのは、今日限りもうやめたよ。それよりもギル、あの森について知りたいんだろ? 知りたいのなら、黙ってついてくればいい」
 その有無を言わさぬ気迫に、ギルはただ頷くしかありませんでした。
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