2 懐かしい故郷

 レイは、内気な子供でした。学校へ通ってもそれは変わらず、むしろ悪化していました。何も話さないし、授業中の発言もほとんどせず、先生に指されると蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯でした。
 そんな彼女に興味をもつ人はいませんでした。先生ですら、うっかりレイの存在を忘れかけていました。
 イザドラは、そんなレイを何かと心配し、彼女に関するあらゆることに口を出してきました。
「もう少しはっきりとお話しなさい。私は、あなたの将来のために言っているんだよ」
 もう、レイは昔のように敬語を使って話されることもなくなりました。イザドラも、ステイシーと口げんかするときよりは、ずっと優しい話し方でしたが、レイにとっては十分にショックな出来事でした。
 また、先生も言いました。
「なんですか、そんな声では聞こえませんよ。そんな話し方をされては授業が進みません。もう少ししゃきっとしなさい」
 穏やかな両親と、丁寧な態度のイザドラしか知らなかったレイにとって、このようにやかましく叱られるのは、とてもつらいことでした。 
 そんな彼女を、ステイシーは慰めてくれました。
「大丈夫、大丈夫。ママは心配性で気が短いだけよ。どうにかなるって! ネガティブになるのが一番よくないのよ」
 しかし、彼女の荒っぽい言葉は、繊細なレイにとって、あまり頼りになりませんでした。
 こんな調子ですから、学校でレイはひとりぼっちでした。
 授業が終わってから急いで家に帰っても、イザドラとステイシーはいません。二人とも仕事で、日が暮れるまで帰ってこないのです。
 代わりに、アーノルドがソファの上に横倒しになっていました。大抵は寝ているので、レイは毎日、彼を起こさないようにしてリビングを横切るのでした。
 家族が集まる夕食時でさえ、それは同じでした。一週間のうち三日は必ず、アーノルドやステイシーの何気ない行動にイザドラが怒り狂うか、ステイシーが仕事の愚痴を言うか、レイがイザドラに延々と説教されそうになるのをステイシーがたしなめるか、のどれかでした。そんなとき、レイは静かに寝室へ戻り、イザドラに渡されたお父さんの腕時計を眺めて、ぼんやりと昔のことを思い出すのでした。
 レイが唯一安らげるのは休日でした。イザドラは家事にあけくれてレイを放っておいてくれるし、ステイシーはどこかへ出かけて行きました。その隙を狙って、レイはよくアーノルドと散歩へ行きました。正確には、家にいたくないアーノルドが外をぶらついているのに付き添っていました。日曜の礼拝も好きでしたし、何より学校がないので、せかせかと「時間に縛られること」がなかったのです。
 アーノルドの散歩ルートは決まりきったものでした。まず、いつもの雑貨店へ行って煙草を買ってから、さらに一キロ離れた公園へ歩いて行き、そこで日が暮れるまで一服してから、わざわざ遠回りをして帰ってくるのでした。レイが側にいるとき、アーノルドは決まって独り言のように長々と愚痴を呟きました。それらのほとんどは、家族に対するものでした。
「俺だって、昔はまともに仕事をしていたんだ。だけど、先の不況で会社は傾き、社長は急死するし。ほぼ社長が一人で会社を回していたから、どうしようもなくなってな。おかげでこうして毎日嫁に嫌味を言われる毎日になったよ。新しい仕事を探せつったって、どこにも雇ってもらえないのだから、どうしようもない。だが、あいつは小遣いを俺によこしてくれるんだ。てっきり善意だと思っていたんだが、あの女、なんて言ったと思う。『煙草欲しさにあたしの金をくすねられるくらいなら、はじめからやってしまったほうがましだからね』だとさ。人をなんだと思ってやがるんだ。ああ、せっかくあいつが出稼ぎに行って、もう顔を合わせずにすむと思ったのに。まったく、世の中全て、クソ食らえだ……いや、お前に話したところで、どうにもならないことはわかっているさ。俺の話が理解できないこともな」
 話がよくわからなくても、レイにとっては、穏やかな楽しい時間でした。
 そんな、ある週末の散歩の途中、珍しくアーノルドは、レイにもわかる話をしてくれました。
「俺は、子供が嫌いなんだ。お前のような聞き分けの良い、大人しい子供は別としてな。騒がしいし、生意気だし、おまけにそこらじゅう走り回って、ものは壊すわ……特にあのノア・ペンバートンはひどかった。あんなにモラルのないがきんちょも珍しいぞ」
「お父さん、『ノア』をご存知なの?」
 レイも、その名前は聞いたことがありました。学校のみんなが事あるごとに口にしていたからです。とてもお金持ちで、家庭教師をつけてもらっているお坊っちゃまで、よく町の広場へ来ては色んな物をくれるそうです。アーノルドが言う通り、傍若無人なふるまいで大人には嫌われているそうですが、町の子供たちからしたら、彼は大人に立ち向かうヒーローらしいのです。
「知っているとも。どれほど裕福なのか知らんが、ありゃひどい。町中のガキを集めては噴水広場でうろちょろして通行の邪魔をするし、ここら一帯の人間にかたっぱしからいたずらを仕掛けるし。俺もこの間、公園で寝ているとき、服の中に大量のカエルを詰め込まれた。気持ち悪いなんてもんじゃねえぞ、ありゃ。とんでもねえ悪ガキだ」
 身体中にカエルがまとわりつく感触を想像して、レイは気味が悪くなりました。アーノルドは、また話を続けました。一度喋り出すと止まらない、それがアーノルドの癖でした。
しばらくすると、突然アーノルドが足を止めました。
「見ろ、レイ」
レイは驚いて、顔を上げました。
いつの間にか、ふたりはいつものルートを外れて、人気のない石畳の通りへやってきていました。
「途中で道の色が変わっているのがわかるだろう。ここから先は、高級住宅街なのさ」
なるほど、石畳は途中から色や材質が変わっており、脇に立つ街灯の装飾も豪華になっています。あちら側が特別な場所なのだということは、レイにもはっきりとわかりました。
「昔はあそこに住む子供たちは、皆小さな王族のようなふるまいをしていたもんだが、今じゃそこらのガキと変わんねえ。それもこれも、その『ノア坊や』のせいだよ。で、あれがペンバートン家だ」
 アーノルドが指差した先にあったのは、高い塀に囲まれた、大きな煉瓦造りの立派な屋敷でした。
レイは、なんとなく、その屋敷に覚えがありました。暗い夜道をふらふらになって歩いたときの遠い記憶と、なんとなく重なるのです。
「さて、そろそろ帰らねえと、またイザドラにどやされる。行くぞ」
 アーノルドに促され、レイはやむなくその場を後にしました。
 そのときこそ何とも思いませんでした。しかし、レイの心はひどく動揺していました。あの屋敷のことが頭に張り付いてとれないのです。夜、ベッドに入ってから、レイはぼんやりと考えました。
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