10 真実のお話
「バート、どうしてここに?」
「なに、ほんの挨拶に来ただけさ。明日にはここを発つんでね」
バートはなんでもなさそうに笑って肩をすくめました。
「発つってバート、どこへ行くの?」
「さあ、どこだろうな。だが、少なくともここにいる必要はなくなった。呪いも消えたことだし、死ぬまでは世界の景色を見て回るとするよ」
それから、レイの衣類の山を一瞥しました。
「こいつは今朝、俺が運んだ分だな」
「はい。お手伝いいただきありがとうございました」
「結局、扉が開いたのは、君の部屋だけだったのか?」
「いえ。あとから試してみたら、他の部屋も扉は開きました。でも、中が空っぽだったんです」
「なんだって、泥棒でも入ったのか? まいったな」
「違うと思います。床も壁も、全面が埃だらけでしたから」
「はて、そいつは妙だな。誰の仕業だろう」
バートはしばし考える仕草をしましたが、ふと思い出したように、ノアの背中を押しました。
「そうだ、こんなことをしている場合じゃない。挨拶をしに来たのは俺だけじゃなかったんだ」
バートに促され、ノアが一歩前へ出ました。ノアは俯いたまま、しばらく目を泳がせていましたが、やがてレイの前にやってくると、沈んだ声で話しかけました。
「身体は大丈夫か?」
「ええ。目線が低いのにも、ようやく慣れてきたわ」
「そうか」
ノアの目は明らかになにか言いたげでしたが、彼はなにも言わず、ふいとレイから目をそらしてしまいました。
「これから、どうするんだ?」
「え?」
ノアはレイではなく、部屋の窓を見つめたまま続けました。
「そんな身体で、仕事を続けるのは難しいだろう?」
「旦那様と奥様は、ここにいていいと言ってくださったわ。どうせ、私は裏方だもの。周囲には、病気で身体が小さくなったとでも言っておくわ」
「だけど、これまで通りにはいかないだろ。そのうち、変な噂が立たないとも限らない。それに、そんな小さな子供の姿じゃ、ひとりで外を歩くのだって危険じゃないか」
「でも……」
「なあ、レイ」
ノアは膝を折ってレイと目線を合わせ、彼女の手をとると、いつになく真剣な目をして言いました。
「一緒に来ないか。身体がもとに戻るまで、うちにいればいい。無理をして外国にいる必要はない。あの扉があるうちに、俺とデルンガンに帰ろう」
「え……?」
レイは右手をノアに握られたまま、あっけにとられていました。バートが後ろから続けました。
「実は、あの扉なんだが、今日限り閉鎖しようと思っているんだ」
「えっ!」
今度はアリーが驚く番でした。
「あの扉、なくなっちゃうの? どうして!」
「王国や俺の問題も片付いたし、区切りをつけようと思ってな。今は交通も便利になったし、俺はもうあの屋敷にはいない。どのみち、俺の魔力が尽きて俺が死ねば、あの扉はただの扉に戻っちまう。変に悪用される前に、余計なものは始末しておくことにしたんだ」
レイはどうしてよいかわからない様子で、ノアの顔をまじまじと見つめていました。
「ノア、本気で言っているの?」
「本気さ。俺も親父に大きな仕事を任されるようになったし、この国にだって簡単には来られなくなる。うちは広いし、事情を話せば家の人間だってうるさくは言ってこないさ」
「ノア……」
長い沈黙が流れました。
アリーは急に寂しくなりました。レイが海の向こうのデルンガンに行き、扉が封鎖されれば、再会することは難しいでしょう。
しかし、レイは悲しげに目を伏せて、首を横に振りました。
「ありがとう、ノア。今まで本当にありがとう。でも、行けない。あの町に戻っても、私の帰るべき家はもうないんだもの」
すると、ノアはみるみるうちに顔を曇らせ、そして激しい口調で怒鳴りました。
「家くらい、どうとでもしてやるさ! 遠慮なんかいらない。俺が言えばたいていのことはどうにかできるんだ。それに、おまえがこの国にいたら、次に会えるのはいつになるか……」
「ありがとう。ずっと心配してくれていたことも、アリーから聞いたわ。私のことを忘れないでいてくれて、すごく嬉しい。でも私、ここにいたいの。私は、私を必要としてくれる場所にいたい」
「そんなの、俺だって……!」
ノアは強くレイの手を握りしめ、まだなにかを言おうとしました。けれど、相変わらず頑なな表情のレイを見て、静かにその手を離しました。
「……わかった。無理にとは言わない。けど、その気になったらいつでも連絡してくれよ」
ノアはそれきり、後ろを向いてしまいました。レイは申し訳なさそうに、だけど、少し安堵した表情で微笑みました。
「ごめんなさい。でも、ありがとう、ノア。また今度、手紙を送るわ」
「じゃあ、まあ、そういうことで。俺は彼を送るついでに、今から扉を閉じに行くよ」
バートはノアの肩を叩くと、部屋の外へと足を向けました。
「じゃあな、おふたりさん。俺は明日、朝一の汽車で旅立つよ」
「はい。ノア、どうか元気で」
レイは満足げにノアの背に向かって手を振りました。アリーは少し考えて、扉が閉まったあと、わざと遅れてふたりを追いかけました。
「ノア」
ふたりが建物の外へ出たのを見計らって、アリーはノアに声をかけました。ノアは無言でこちらを振りかえりましたが、その表情は暗く、沈んでいました。
「おっと、まだ言い残したことがあったのか。じゃ、俺は先に行くとしよう」
バートは何かを察したように、ささっとふたりから距離をとると、先に行ってしまいました。ノアはけわしい顔でアリーを睨みつけました。
「なんだよ」
「ねえ。私がこんなこと聞くのはおかしいかもしれないけれど……もしかしてノア、レイのことが好きなの?」
ノアは、アリーから目線をそらして、地面を見つめました。
「どうして、そう思った?」
「だって……ずっと探していたんでしょう? 写真だって大切にとってあったし、それに、うまく言えないけど、さっきのノアはノアらしくなかった」
するとノアは、地面に視線を落としたまま、ふっと微笑みました。
「なるほどな。けど、仮にそうだとしたら、どうするんだ?」
「あのね……レイも、ノアのことは嫌いじゃないと思うの。だから、きちんと伝えれば、もしかしたら来てくれるかもしれないと思って」
「それじゃ、本末転倒じゃないか」
ノアはぽすんとアリーの頭に手を乗せました。
「レイはやっと自由になれたんだ。やっと、過去に縛られずに生きることができるようになった。それなのに、俺が余計なことを言ったら、また足かせが増えてしまう。俺は、あいつが幸せならそれでいいさ」
「でも……」
すると、ノアは屈んでアリーに視線を合わせ、まっすぐにアリーの目を見て訴えかけました。
「アリー、レイは繊細なんだ。俺が余計なことを考えていると知ったら、きっと自分より俺のことを優先してしまう。それじゃ、駄目なんだ。どうかレイには何も言わないでくれ。それが、レイのためなんだ。頼む」
静かだけれど迫力のある科白に、アリーはただ、頷くことしかできませんでした。そんなアリーを見たノアは、ほっとした様子で立ちあがりました。
「ありがとな、アリー。ああ、それと、レイに伝えておいてくれ。『あの場所のことは任せてくれ』って」
「え?」
アリーはノアの言葉の意味がわからずにノアを見上げました。が、ノアはそれ以上は何も言わず、いたずらっぽく笑ってウインクしました。その表情は、やっぱりバートにそっくりでした。
「じゃあ、アリー。元気でな」
少し寂しげな彼の背中が遠ざかっていくのを、アリーは立ちつくしたまま、いつまでも、いつまでも見送っていました。
「なに、ほんの挨拶に来ただけさ。明日にはここを発つんでね」
バートはなんでもなさそうに笑って肩をすくめました。
「発つってバート、どこへ行くの?」
「さあ、どこだろうな。だが、少なくともここにいる必要はなくなった。呪いも消えたことだし、死ぬまでは世界の景色を見て回るとするよ」
それから、レイの衣類の山を一瞥しました。
「こいつは今朝、俺が運んだ分だな」
「はい。お手伝いいただきありがとうございました」
「結局、扉が開いたのは、君の部屋だけだったのか?」
「いえ。あとから試してみたら、他の部屋も扉は開きました。でも、中が空っぽだったんです」
「なんだって、泥棒でも入ったのか? まいったな」
「違うと思います。床も壁も、全面が埃だらけでしたから」
「はて、そいつは妙だな。誰の仕業だろう」
バートはしばし考える仕草をしましたが、ふと思い出したように、ノアの背中を押しました。
「そうだ、こんなことをしている場合じゃない。挨拶をしに来たのは俺だけじゃなかったんだ」
バートに促され、ノアが一歩前へ出ました。ノアは俯いたまま、しばらく目を泳がせていましたが、やがてレイの前にやってくると、沈んだ声で話しかけました。
「身体は大丈夫か?」
「ええ。目線が低いのにも、ようやく慣れてきたわ」
「そうか」
ノアの目は明らかになにか言いたげでしたが、彼はなにも言わず、ふいとレイから目をそらしてしまいました。
「これから、どうするんだ?」
「え?」
ノアはレイではなく、部屋の窓を見つめたまま続けました。
「そんな身体で、仕事を続けるのは難しいだろう?」
「旦那様と奥様は、ここにいていいと言ってくださったわ。どうせ、私は裏方だもの。周囲には、病気で身体が小さくなったとでも言っておくわ」
「だけど、これまで通りにはいかないだろ。そのうち、変な噂が立たないとも限らない。それに、そんな小さな子供の姿じゃ、ひとりで外を歩くのだって危険じゃないか」
「でも……」
「なあ、レイ」
ノアは膝を折ってレイと目線を合わせ、彼女の手をとると、いつになく真剣な目をして言いました。
「一緒に来ないか。身体がもとに戻るまで、うちにいればいい。無理をして外国にいる必要はない。あの扉があるうちに、俺とデルンガンに帰ろう」
「え……?」
レイは右手をノアに握られたまま、あっけにとられていました。バートが後ろから続けました。
「実は、あの扉なんだが、今日限り閉鎖しようと思っているんだ」
「えっ!」
今度はアリーが驚く番でした。
「あの扉、なくなっちゃうの? どうして!」
「王国や俺の問題も片付いたし、区切りをつけようと思ってな。今は交通も便利になったし、俺はもうあの屋敷にはいない。どのみち、俺の魔力が尽きて俺が死ねば、あの扉はただの扉に戻っちまう。変に悪用される前に、余計なものは始末しておくことにしたんだ」
レイはどうしてよいかわからない様子で、ノアの顔をまじまじと見つめていました。
「ノア、本気で言っているの?」
「本気さ。俺も親父に大きな仕事を任されるようになったし、この国にだって簡単には来られなくなる。うちは広いし、事情を話せば家の人間だってうるさくは言ってこないさ」
「ノア……」
長い沈黙が流れました。
アリーは急に寂しくなりました。レイが海の向こうのデルンガンに行き、扉が封鎖されれば、再会することは難しいでしょう。
しかし、レイは悲しげに目を伏せて、首を横に振りました。
「ありがとう、ノア。今まで本当にありがとう。でも、行けない。あの町に戻っても、私の帰るべき家はもうないんだもの」
すると、ノアはみるみるうちに顔を曇らせ、そして激しい口調で怒鳴りました。
「家くらい、どうとでもしてやるさ! 遠慮なんかいらない。俺が言えばたいていのことはどうにかできるんだ。それに、おまえがこの国にいたら、次に会えるのはいつになるか……」
「ありがとう。ずっと心配してくれていたことも、アリーから聞いたわ。私のことを忘れないでいてくれて、すごく嬉しい。でも私、ここにいたいの。私は、私を必要としてくれる場所にいたい」
「そんなの、俺だって……!」
ノアは強くレイの手を握りしめ、まだなにかを言おうとしました。けれど、相変わらず頑なな表情のレイを見て、静かにその手を離しました。
「……わかった。無理にとは言わない。けど、その気になったらいつでも連絡してくれよ」
ノアはそれきり、後ろを向いてしまいました。レイは申し訳なさそうに、だけど、少し安堵した表情で微笑みました。
「ごめんなさい。でも、ありがとう、ノア。また今度、手紙を送るわ」
「じゃあ、まあ、そういうことで。俺は彼を送るついでに、今から扉を閉じに行くよ」
バートはノアの肩を叩くと、部屋の外へと足を向けました。
「じゃあな、おふたりさん。俺は明日、朝一の汽車で旅立つよ」
「はい。ノア、どうか元気で」
レイは満足げにノアの背に向かって手を振りました。アリーは少し考えて、扉が閉まったあと、わざと遅れてふたりを追いかけました。
「ノア」
ふたりが建物の外へ出たのを見計らって、アリーはノアに声をかけました。ノアは無言でこちらを振りかえりましたが、その表情は暗く、沈んでいました。
「おっと、まだ言い残したことがあったのか。じゃ、俺は先に行くとしよう」
バートは何かを察したように、ささっとふたりから距離をとると、先に行ってしまいました。ノアはけわしい顔でアリーを睨みつけました。
「なんだよ」
「ねえ。私がこんなこと聞くのはおかしいかもしれないけれど……もしかしてノア、レイのことが好きなの?」
ノアは、アリーから目線をそらして、地面を見つめました。
「どうして、そう思った?」
「だって……ずっと探していたんでしょう? 写真だって大切にとってあったし、それに、うまく言えないけど、さっきのノアはノアらしくなかった」
するとノアは、地面に視線を落としたまま、ふっと微笑みました。
「なるほどな。けど、仮にそうだとしたら、どうするんだ?」
「あのね……レイも、ノアのことは嫌いじゃないと思うの。だから、きちんと伝えれば、もしかしたら来てくれるかもしれないと思って」
「それじゃ、本末転倒じゃないか」
ノアはぽすんとアリーの頭に手を乗せました。
「レイはやっと自由になれたんだ。やっと、過去に縛られずに生きることができるようになった。それなのに、俺が余計なことを言ったら、また足かせが増えてしまう。俺は、あいつが幸せならそれでいいさ」
「でも……」
すると、ノアは屈んでアリーに視線を合わせ、まっすぐにアリーの目を見て訴えかけました。
「アリー、レイは繊細なんだ。俺が余計なことを考えていると知ったら、きっと自分より俺のことを優先してしまう。それじゃ、駄目なんだ。どうかレイには何も言わないでくれ。それが、レイのためなんだ。頼む」
静かだけれど迫力のある科白に、アリーはただ、頷くことしかできませんでした。そんなアリーを見たノアは、ほっとした様子で立ちあがりました。
「ありがとな、アリー。ああ、それと、レイに伝えておいてくれ。『あの場所のことは任せてくれ』って」
「え?」
アリーはノアの言葉の意味がわからずにノアを見上げました。が、ノアはそれ以上は何も言わず、いたずらっぽく笑ってウインクしました。その表情は、やっぱりバートにそっくりでした。
「じゃあ、アリー。元気でな」
少し寂しげな彼の背中が遠ざかっていくのを、アリーは立ちつくしたまま、いつまでも、いつまでも見送っていました。