9 最後の魔法

「え?」
「えっ……」
 レイとハルは同時に目を見開きました。
「行くって?」
「どこに?」
 ナサニエルは女性を立ちあがらせると、寂しげな目をしました。
「レイ、お前のおかげでこの国の魔力はすべて使い尽くされた。この塔の魔法も解けた。私を塔に縛りつける魔法も、母様を王冠に閉じこめる魔法もな。だからこうして出てこられた。だが、母様が帰る身体はない。私もついさっきの巻き戻しで力を使い果たした。もう、戻ることはできない」
「そ、そんな……」
 瞬間、レイの表情は氷のように冷たくなりました。ナサニエルはそっとレイの両肩に手を置きました。
「大丈夫だ。レイ、お前は強い子だ」
「嫌! 置いていかないで。お父様たちがいなかったら、私はもう生きていけない。ひとりになるくらいなら一緒に行くわ。連れていって」
「わがままを言うんじゃない、レイチェル・シースル・アワーズ」
 ナサニエルが低い声で叱ると、レイは静かになり、不満げに下を向きました。
「寂しいのはわかっている。これまで何もしてやれなかった上に、こうしてお前を置いていくことがどれほど酷いことかも承知している。だが、私たちはお前に生きてほしい。そして、幸せになってほしいんだよ」
「私、幸せよ。お父様とお母様がここにいるんだもの。もうひとりじゃないんだもの!」
「まだ気づかないのか。私たちがいなくても、お前はひとりではない」
「え……?」
「今、この時計塔に集まっている人たちは、どうしてここにいる? お前に関心を持ち、少なからずお前を心配している人たちではないのか?」
 レイは、ゆっくりと時計塔にいるバート、ギル、ノア、そしてアリーに目をやりました。
「お前はこれまで、本当にひとりきりで生きてきたのか? 支えてくれる人は誰もいなかったのか?」
 レイは、小さく首を横に振りました。
「これまで腕時計を通して、お前をずっと見守ってきたが、お前はすぐに人を遠ざけようとする。人に怯え、自分以外の者を信用しようとしていない。仕方のないこととはいえ、私はずっとそのことを心配していたんだ」
 そして、レイの肩に置いた手にぐっと力をこめました。
「身勝手に思うかもしれないが、どうかお前の情けない父親の、最期の言葉だと思って聞いてくれ。レイ、お前は愛されている。お前を助けてくれる人はたくさんいる。ひとりで抱えこむんじゃない。人を頼り、そして人に頼られる人間になれ。そうすれば、必ず幸せになれるはずだ」
 乾ききっていたレイの目から、再び、雫が一筋こぼれました。レイは胸の前でこれ以上ないくらい強く両手を握りしめ、聞こえるか聞こえないかの小さな声で囁くように「はい」と返事をしました。
 アリーはその光景を、どこか遠い世界の出来事であるかのように、遠巻きに眺めていました。ところが、突然その遠い世界にいたはずの黒髪の女性が振り返り、まっすぐにアリーを見据えたまま、こちらにやってきました。
「あなたがアリーね?」
 アリーは反射的にうなずきました。声をかけられたのがあまりに急だったので、驚きすぎて口がきけませんでした。
「私はサンディ。本名はアレクサンドラというの。あなたとおんなじね」
 そこでアリーはようやく思いだしました。赤いベレー帽の裏には「アレクサンドラ」という刺繍があり、それは帽子の前の持ち主の名前だったとギルのママは言っていました。
「あなたが、アレクサンドラさんだったんですね」
「ええ。あなたにこの帽子を見つけてもらえてよかった。私だけでは何もできなかったから。私の声にも耳を傾けてくれて、嬉しかったわ」
「声? それって、あのときの!?」
「ええ」
 アレクサンドラ──サンディは片目をつぶって見せました。あの大雨の中でアリーを呼んだ帽子の声の正体は、このサンディだったのです。
「それじゃあ、帽子が勝手に飛んだのも?」
「あなたとシーザー王をどうしても引きあわせたかったの。こんなチャンスはもうないと思ったから。驚かせてごめんなさいね。それと……レイのことをお願いできるかしら。あの子は、本当はとてもいい子なの」
「もちろん。私、レイのこと大好きよ。ずっと仲良くなりたいと思っていたの」
 するとサンディは心底ホッとした様子で、アリーの手を握りました。
「ありがとう」
 それから、ギルとノアの側へ行き、ふたりの手をとりました。
「あなたたちも、本当にありがとう。どうか、ハルとレイのことを支えてあげて」
 ギルとノアは、それぞれ力強くうなずきました。
「は、はい!」
「もちろん、できる限りのことをします」
 それから、ナサニエルがやってきて、三人にお辞儀をしました。
「皆さん、ありがとう。これでもう、思い残すことはありません」
 それから、バートを振り返って言いました。
「シーザー王、あなたも。あなたがいなければ、こうして子供たちと話すことはできなかったでしょうから。それと、この国の魔法に巻きこまれた気の毒な兵士たちがいたでしょう。彼らは時間を巻き戻したついでに元の場所に帰してあげましたから、ご心配なく」
 そして、ナサニエルはそっと、サンディの手をとりました。
「さあサンディ、時間だ」
 そう言うと同時に、ふたりの身体はふわりと宙に浮きました。そして、そのまま塔の吹き抜けの天井へと向かいました。
「お父様……お母様……」
 レイが力なく呟きました。サンディが目を細めて言いました。
「大丈夫よ、レイ。父様も母様も、ちゃんとあなたのことを見守っているわ」
 それが最後の言葉でした。ふたりの身体は塔の天井をすり抜け、消えてしまいました。アリーは急いで塔の外に駆けだして天を仰ぎましたが、そこにはただ、まばらに雲が浮かんだ紫とオレンジが入り混じった、夕方の空があるだけでした。
「……まだ、夕方?」
 足元の草は乾いていて、サワサワと風に吹かれて踊っていました。
 アリーは咄嗟に時計塔の大時計を見ました。時計塔はもう、あの美しいツヤツヤした大理石でできた塔ではなく、古くて壁がひび割れた、土色の塔になっていました。肝心の時計は、相変わらず十二時を指していました。仕方がないので帽子で時間を確認しようと頭に手をやりましたが、帽子はありません。それもそのはず、帽子は王冠となってレイの頭に載せられたのですから。アリーは慌てて塔の中に戻りました。
 塔の内部も、いつの間にかすっかり汚くなっていました。中は埃だらけで薄暗く、あの神秘的な美しさは見る影もありません。レイは、塔の中央でひとり、王冠を手に持っていました。ところが王冠は、あっという間に元の帽子に戻ったかと思うと、そのまま火にあぶられたかのように真っ黒になり、黒い粉になって、ざらざらとレイの手からこぼれおちてしまいました。あの綺麗な杖も、どこにもありませんでした。
「レイ……」
 アリーはレイに歩みより、そこでようやく、レイが自分より小さいままだということに気がつきました。いつかは元の姿に戻ると思っていたのに、レイは相変わらず、見慣れない水色のドレスを着た、小さな子供のままなのです。
「力を使いすぎたんだな」
 いつの間にか、アリーのすぐ隣にバートがいました。バートは低い声で教えてくれました。
「町ひとつの時を進めて、それを巻き戻して元に戻したんだ。相当なエネルギーを使ったんだろう。元に戻るまでは時間がかかるだろうな」
「そんな。レイ、小さいままなの?」
 アリーがバートに元に戻す方法を聞こうとした瞬間、レイがぽつりと呟きました。
「いいの。これが私への罰なのよ。お父様が言うとおり、私は周りを見ていなかった。きっと、最初からやり直せということなのよ」
「でも……」
 アリーが言葉を紡ごうとしたとき、どこからともなく、聞き覚えのある声が飛んできました。
「アリー!」
「ギル、ハル! バートさんも、どこにいるの?」
 アリーが時計塔の戸口から外を覗くと、アリーのパパとママ、それにギルの両親が息を切らせてこちらへやってくるのが見えました。
「げえ、母さん!?」
「父さん……!」
 ギルとハルが先に外へ出ていきました。一同は塔から出てきたギルとハルに気づくと、「いたぞ!」と叫びながらこちらへ走ってきました。
「ローレンスさんまで、どうしてここに?」
 ハルが尋ねると、アリーのパパが、肩で大きく息をしながら答えました。
「なかなか君たちが来ないものだから、心配してな。アリーやレイの姿も見えないし。そうしたらアーロン……君の父さんが、もしかしたら、みんな森のほうに行ったんじゃないかと言いだして。どうやら正解だったみたいだな。なぜか森は消えていたが。どうなっているんだ?」
 パパとママの元気な姿を見て、アリーは胸がいっぱいになりました。すべて元通りです。アリーはまた、家族に会えたのです。
 アリーは今にも走りだそうとしましたが、ふと足をとめて、レイの方を振り返りました。アリーの家族はすぐそこに、目の前にいます。でも……
 しかし、アリーの視線に気がついた小さなレイは、予想に反してにこりと微笑みました。
「いいのよ。さあ、行って。ご両親を心配させてはいけないわ」
12/12ページ
いいね