9 最後の魔法

 バートは遥か遠く、うっすらと見える大量の木々を指さしました。そう、あれは王国を囲っていた森ではなく、アリーの町を呑みこんだ大量の樹木でした。
「あれが残ったままだ。そして、あれに巻きこまれた人々も、そのままだ」
「あ……」
 アリーはふと、両親のことを思いだしました。そう、町の人は皆あの木々の中にいるのです。
 バートはすたすたと歩いてアリーの横をすり抜け、床に転がっていた赤い目覚まし時計を拾いあげました。
「ずっと持っていてくれたんだな」
「え? あっ……」
 アリーは急いでスカートに手を当てました。そういえば、目覚まし時計をポケットのスカートに押し込んだままでした。おそらく、さっきの地震の衝撃で転がり出たのでしょう。
「やっぱりな。もうほとんどエネルギーが残っていない。まあでも多分、大丈夫だ」
「その時計……」
 レイが、おずおずとバートのそばまでやってきました。バートはため息をついて笑いました。
「『ティムに似てる』って言いたいんだろう? これは、意図的にあいつに似せて作ってあるからな」
「あなたは彼を知っているの?」
「人間だったときはよく知っている。時計になってからは、あまり知らないな。すぐに国を出てしまったもんでね……さて」
 バートは、屈みこんでじっと目覚まし時計を見つめるレイの頭に手をやると、そっと指先を王冠に触れさせました。すると、王冠は金属とは思えない柔軟さで何度か伸び縮みした挙句、二つに分裂しました。片方はレイの頭上で王冠の姿を保っていましたが、もう片方はするっと長く伸びて、王冠と同じ金色の杖へと変化しました。バートは無言でそれをレイによこすと、いつになく神妙な顔をして、声を落として言いました。
「ひとつ、とても無茶な願いかもしれないが、聞いてほしい」
「『願い』?」
 そんなバートに、レイは警戒した様子で杖を握りしめました。
「どうか、この国を終わらせてくれないか」
「終わらせる?」
「この国の歴史に、終止符を打ってほしい。女王であるあなたの手で」
 そう告げるバートは、いつになく険しい顔をしていました。
「今からあなたに、俺たちの持つ、あらゆる力を託す。この時計も、俺の持つ魔力も、ハロルドくんの力も、この国に残されたエネルギーも、すべてだ。それを用いて、あの町の時間を戻してほしい」
「『時間を戻す』? 私が……?」
「バート、それってどういうこと?」
 アリーはいてもたってもいられず、ふたりの間に割りこんでしまいました。これはアリーの悪い癖でした。いつもなら急いで引きさがるところですが、今回ばかりはそうはいきません。
「町を元に戻せるの?」
「それはこれから答える」
 バートはそれだけ言うと、アリーに小さく手招きしました。アリーがそれに従ってバートの隣へ行くと、バートはあらためてレイの方に向きなおりました。つまり、バートはレイに話をするために邪魔だったアリーをどかしたのでした。
 この間、バートの顔は彫刻のように同じ表情をしていました。眉ひとつ動いていません。とても、あの表情豊かな男性と同一人物だとは思えませんでした。
「知ってのとおり、あの町の時間は二百年も進んでしまっている。住んでいた人間も含めてな。だから、元に戻すためには、あの町の時間を200年巻き戻す必要があるんだ」
「そんなの、バートがやれば……」
 アリーはそこまで言いかけて、慌てて口を押さえました。これ以上彼の邪魔をしたら、この場から追いだされるかもしれません。
「いや、そうはいかないんだ」
 しかし、以外にもバートはアリーの言葉に反応してくれました。バートは赤い目覚まし時計を持ちあげて、レイに見せました。
「まず、この時計は、特別に時間を巻き戻せる時計だ。作るのには随分苦労したよ。元の時計を作ったあと、長年かけて俺の魔力を少しずつ貯蓄して、つい数ヶ月前、ようやく完成したんだ。本来なら、この時計でこの国の時間を戻そうと思っていたんだ。だが、想定外のトラブルが多すぎて、だいぶ中身がなくなってしまった」
 レイは時計に視線を向けたまま、なにか考えこんでいる様子でした。
「つまり、簡単に言うと、あなたには時間が巻き戻せないということですか?」
「完全に不可能ではないが、さすがに二百年は無理だ」
「でも、さっきは時計塔の時間が巻き戻りました。あれは?」
「だが、こうして時計塔は元の時間に戻ってしまった。基本的に、巻き戻しというのは『できないこと』なんだよ、女王陛下」
「そんなに難しいことなのか?」
 ギルがこちらにやってきました。彼は、仏頂面のバートのことは特になんとも思っていないようでした。
「バートは俺たちのために、時間を巻き戻してくれたじゃないか。俺には簡単そうに見えたけど」
「それは、君たちと取引をするためさ」
 バートはふっと、自嘲気味に笑いました。
「あれくらいしないと、俺の話なんて信じてもらえないと思ってな。まあ、少々やり過ぎてしまったかもしれん」
 そして、アリーとギルの方を向いてしゃがみこむと、いつものバートの表情で、諭すように言いました。
「いいか、本来王族にできるのは、時間を『止める』ことと『進める』ことだけだ。『戻す』というのは不可能なことなんだ。もし、進んだ時間を戻そうと思ったら、ただではすまない、大きな代償が必要になる。進めたときよりもはるかに膨大なエネルギーがいるからな。俺の場合は、他の人間より長く生きていたから、巻き戻せるだけのエネルギーを貯蓄しておけたのさ。これは、例外中の例外だ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
 アリーがそう呟くと、バートはすっと立ちあがり、ふたたびレイの方を向きました。
「ひとつ、残念なお知らせがある。この国は今、滅亡しかかっている。結界は消え、止まっていた時のエネルギーは暴走しつくした。もうじき、この国にかかった魔法は完全に解けてしまう。この時計塔の魔力もなくなるだろう」
「滅亡って?」
 レイは怯えたようにバートを見あげました。バートはレイの視線を避けるように、遠くの方を見つめて答えました。
「国ではなくなるということさ。時の力も作用しない、王族も存在しない、何もないただの土地になる。いずれ誰かに発見されて、おそらくは、セミラ共和国の国有地になるだろう。俺たちは関係なくなる」
 アリーとギルは同時に叫びました。
「そんな!」
「この国、なくなっちゃうの?」
「女王次第だ」
 バートはすっとレイを指さしました。
「この時計と女王の力があれば、もう一度この国の周囲に結界を張り、国を存続させるくらいのことはできるかもしれない。しかし、そちらを選択すれば、アリーの町は二度と元には戻せない。だが、アリーの町の時間を戻す方にエネルギーを使えば、この国は間違いなく滅びる」
「そんな、それじゃあ……!」
 さすがのアリーも、その先を言うことはできませんでした。バートはなんと恐ろしく、残酷な選択を突きつけるのでしょう。
 レイは目を伏せ、唇を噛みしめたまま、黙りこんでいました。その両手の細い指は、強く強く、杖にくいこんでいました。
 これまで、どれだけバートやノアの話を聞いても、レイがこの国と関係あるなんて、アリーには信じられませんでした。でも、女王様としての姿を見た今なら、わかります。レイは紛れもなくこの国の人なのです。この国こそが、レイが本来いるべき場所なのです。
「大丈夫か?」
 ノアがやってきて、レイの肩に手を置きました。レイは黙ったまま、一瞬だけノアのほうを振り返りました。そのときの彼女は、怒りとも悲しみとも困惑ともとれる、切羽詰まった表情をしていました。
「ええ」
 レイはぼそりと答えると、さっと顔を背けてしまいました。
 アリーはレイに声をかけようとしましたが、何を言えばいいのか、まったく頭に浮かびませんでした。それはノアも同じだったようで、ただ、そばで心配そうにレイを見つめているだけでした。
「大丈夫」
 長い沈黙のあと、レイはぽつりとそう言いました。
 それから、顔をあげて、まっすぐにバートを見つめて言いました。
「やります。それで、あの町が元に戻るのなら」
「レイ……」
 アリーは思わずレイに話しかけましたが、なんと続けてよいのかわからず、そこで言葉が途切れてしまいました。やめてほしい、という気持ちと、どうかそうしてほしい、という気持ちが胸の中でぶつかりあっていました。どうしようもない気持ちのまま、アリーはとっさにこう言いました。
「ここは、あなたの故郷なんでしょう?」
 一瞬だけ、レイの目が泳ぎました。しかし、レイはすぐにこう答えました。
「元はといえば、すべて私のせいだもの。私のせいで、あの町の人たちの時間は奪われた。なんとしてでも、あの人たちの時間を取りもどさないと」
「レイだけのせいじゃないわ。私が何も考えずに、余計なことをしたからこうなったの」
 そう、それは町がおかしくなってから、アリーがずっと後悔しつづけていたことでした。いたずらにレイに余計なことを話さなければよかったのです。そうすれば、彼女もあれほどは取り乱さなかったでしょう。
「いや、直接の原因は俺だ」
 バートがアリーの肩に手を置き、すっとレイの前に出ました。
「アリーが帽子に興味を持ったのは、俺がこの国の話をしたからだ。そして、俺はあなたの事情を知らなかった。随分と無神経なことを言ってしまったと思う。責任は俺にある」
「ありがとう。でも、いいんです」
 レイは薄く笑って、目を伏せました。
「たとえこの国や時計塔が残ったって、もう私の家族は帰ってこない。だけど、アリーの家族は帰ってくる。アリーにはまだ、故郷に帰る道がある。なら、私がすべきことは決まっている」
 そしてレイは、さっきまでとはうってかわった力強い足取りで、時計塔の中央部に立ちました。
「やりましょう。あまり時間は残されていません。こちらへ来てください。やり方は王冠が教えてくれています」
 そして、ハルに向かって呼びかけました。
「あなたもこちらへ来て、ハル」
 まるで、舞台役者のような、はきはきとした張りのある声でした。
「は、はい」
 突然「ハル」と呼ばれたことに驚いたのか、ハルは目を丸くして上半身を硬直させたまま、ぎこちない動きでやってきました。レイはバートとハルを自分の前に立たせ、堂々とした態度で命令しました。
「目を閉じて。何も考えないで。全身の力を抜いてすべてを私に委ねなさい。何があっても今の姿勢を崩さないこと。効果があるのは一度きりですから」
 そして、腕を伸ばし、持っていた金の杖を高く掲げました。
「第18代女王としてここに命ずる。あらゆる時の力を私に捧げよ」
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