9 最後の魔法

 ようやくアリーが両目を開いたとき、嵐の音はなくなっていました。びしょ濡れだった髪も服も、驚くほど綺麗に乾いていました。
 ノアとギルは、さっきまでと同じ場所にいました。床に散らばっていた服や骨はきれいになくなっていました。
「こいつは驚いたな」
 精霊は呆れたように笑って天を仰ぎました。
「お前の仕業だな、ナサニエル」
「ちょっと、これってどういう……」
 アリーが全てを言い終える前に、ゆっくりと背後の扉が開きました。アリーは反射的に振り返り、言葉を失いました。
 そこにあったのは人工的な草原ではなく、美しい庭園でした。丁寧に手入れをされた花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、そのすぐそばには小川がのんびりと流れていました。そして、その周囲には高い柵が張り巡らされ、門には古くさい鎧を着た兵士が直立していました。
 庭には幾人もの人々が行き来をしていましたが、そのうちの1人がこちらに気がついたのか、血相を変えて走りよってきました。
「誰ですか、あなたたちは。ここはクロックの国王がおわす城ですぞ!」
 その人は、執事らしき服装をした初老の男性でした。彼のあまりの剣幕に、アリーは何も答えられず、この人は誰なのだろう、いったいどこから来たのだろう、などと考えていました。
「問題ない、そこにいるのは俺の連れだ」
 ふと戸口の方を見ると、誰かが笑顔で立っていました。初老の男性もその声に反応して振り返り、意外そうな顔をしてそちらに向きなおりました。
「王子! 随分と探しましたよ。今までいったいどこに?」
 戸口に立っていたのは、立派な上着を着た青年でした。何が嬉しいのか、アリーの方をみては、やたらとニヤついています。アリーが気味悪く思っていると、青年はつかつかとアリーのそばまで歩みより、しゃがみこむと、物珍しそうにアリーの服を観察しました。
「やあ、アリー。いつの間にか服が変わっているな。どこで着替えたんだ?」
「だ、誰ですか?」
「悲しいことを言ってくれるなあ、アリー。もう俺のことがわからなくなっちまったのか?」
 青年はわざとらしく肩を落とし、悲しそうな表情をしてみせました。
「その喋り方……」
 アリーは青年の顔を、もう一度よく見てみました。ツヤツヤした髪に健康的な肌。アリーの知るあの人物とは似ても似つかない見た目でしたが、その声と喋り方、そして独特の表情には思いあたる節がありました。
「まさか、バートなの!?」
「ご名答。俺たちの絆は本物だったようだな」
 バートはそう言って、愉快そうに笑いました。この偉そうな笑い方も、少し耳障りな笑い声も、まさしくバートのそれでした。
「ティム、少し席を外してくれ。彼らに大事な話があるんだ」
 バートは先ほどの男性を外へ出すと、慣れた手つきで扉を閉めました。ギルがたまりかねたように叫びました。
「お前、バートなのかよ。前にあったときと別人じゃないか!」
「まあ、別人だな。ここにいるのはバートじゃない。バートになる前の俺なんだ。とにかく、ふたりとも元気そうでよかったよ」
 バートは笑いながらギルの髪を軽くかき乱すと、ノアの方を向きました。
「やあ、坊ちゃん。俺のことがわかるかい?」
 ノアは警戒しているようで、バートから少し距離をとって答えました。
「ああ。アリーから聞いてはいたが、こんな奴だとは知らなかった。本当に、あんたがあのアルバート・ペンバートンなのか?」
「その通りさ、ノア・ペンバートン。知らぬ間に随分大きくなったな」
 名前を呼ばれたことに驚いたのか、ノアはぎょっとして後ずさりました。
「どうして俺のことを?」
「家のニュースくらいはチェックしてるさ。時々、様子も見に行っていたしな。おまけに君はよく家を抜け出していただろう。何度か道端で町の子供と遊んでいるのを見かけたよ。どうやら、顔つきは幼い頃とそれほど変わっていないようだな」
「なんで知っているんだよ。気持ち悪い……」
 ノアは心底嫌そうな顔をしました。バートは焦った様子でアリーとギルに言いました。
「おい、あんな表情をされるとは思わなかったぞ。酷くないか?」
「いいえ。私もそれは気持ち悪いと思うわ」
「俺もそう思う」
「おいおい、嘘だろ!」
 ショックを受けて顔を歪ませるバートに、ふたりは思わずクスリと笑いました。
 笑うと、心の中が軽くなりました。ほんの少し前まで感じていたあの絶望感が、嘘のように消し飛んでいくのがわかりました。
「あなた、本当にバートなのね。でも、どうして?」
「ああ、俺もそれが知りたくてここへ来たんだ。目が覚めたら、昔の王国の光景が広がっていて、俺自身も昔の姿になっていた。アリーたちが何かしたんじゃないのか?」
「それは……」
 アリーは精霊のことを紹介しようとして、彼女がいないことに気がつきました。慌てて塔の中を見回すと、アリーの意図を汲んだのか、精霊はアリーの目の前にふっと現れました。
「私ではない。『彼』がやった。もう意識はないものと思っていたが、彼の意識はずっとこの時を待っていたらしい」
「彼って?」
「この塔で眠る国王だ。歪んだ形で継承された、『正しくない王』だよ」
 すると、バートがハッとした表情で吹き抜けの天井を仰ぎました。
「そうか。彼はまだ生きていたのか……」
「そういうことだな。彼のおかげで、また時間がめちゃくちゃになってしまった。歪みが元に戻るまで、私は失礼するよ」
 精霊はそう言い残すと、すうっと消えてしまいました。
「あっ。あいつ、逃げやがった!」
「いや、姿を保てなくなったのさ。あれは、この国の時間という概念が人間の形をしていただけだ。この国の時間の流れが変われば、いとも簡単に消え失せてしまう」
 バートはそれだけ言うと、時計塔のど真ん中に立ちました。
「昔は玉座や専用の道具なんかもあったんだが。まあ、仕方ないな」
 そして、アリーの方を振り返りました。
「赤い帽子は持っているか?」
「ええ。でも、なんだか色が暗くなってしまって……」
 アリーが帽子を差し出すと、バートはそれを二、三度ひっくり返して観察しました。
「随分とこの帽子を酷使したんだな。魔力が切れている。いったい誰が、何に使ったんだ? まあ、いいか」
「今から何をするんだ?」
 ノアが尋ねると、バートは上を指さしました。
「見ていればわかるさ」
 アリーがその指につられて上を見ると、塔の天井から何かが降ってくるのがわかりました。それがなんなのか理解した瞬間、アリーは反射的に叫んでいました。
「レイ! ハル!」
 ふたりは誰かに抱きかかえられているかのようにゆっくりと降りてくると、静かに床に倒れこみました。
「兄さん!?」
「レイ……!?」
 ギルとノアが駆け寄って声をかけましたが、ふたりは意識を失っているようでした。
「大丈夫。ふたりとも無事だ」
 バートがやってきて、ふたりの頭に手をかざしました。すると、はじめにハルの目が開きました。
「ギル……?」
「兄さん!」
「ハル!」
 アリーとギルは喜びいさんで、ハルを床から助け起こしました。ハルはぼんやりとギルの顔を見つめて、不思議そうに言いました。
「ギル、どうしてここに?」
「兄さんが心配だから来たんじゃないか!」
「心配? 僕のことが?」
 それから、アリーの方を見ました。
「アリー、さっきと服が違うね。いつの間に着替えたの?」
「『さっき』じゃないわ。あなたがいなくなってから、今まで大変だったのよ。でも、帰ってきてくれてよかった」
 すると、ギルが「あれ?」と大きな声をあげました。
「どうしたの?」
「ほら、この時計。黒いのが消えてる」
 見ると、あの黒く焦げついていた懐中時計が、元の綺麗な銀色に戻っていました。
「本当だわ。どうしてかしら」
 そのとき、弱々しいレイの声が聞こえました。
「……ここは……?」
「レイ、気がついたのか」
 急いでそちらへ向きなおると、ノアがレイを抱き起こしていました。
「レイ!」
 アリーが叫ぶと、レイは首をゆっくりと動かして、こちらを見ました。
「アリー……? 私は、いったい……」
 それから、ふとノアの存在に気づいて、言いました。
「あなたは?」
「俺だよ。ノア・ペンバートンだ。大丈夫か?」
「ノア……あなたが、あのノアなの? どうしてここに?」
「おいおい、なんだよそれ。こっちは必死に探していたんだぞ。まったく……」
 そう言いながらも、ノアの口元はほころんでいました。
「ようやく会えたよ、レイチェル王女」
 それまで黙っていたバートが、突然口を開きました。一同が驚いていると、バートはすっとレイの前にひざまづき、あの赤帽子をレイの前に差しだしました。
「今度こそ、王冠を受け取ってもらえるかい。俺と、この国の未来のために」
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