9 最後の魔法

 あのクロックを囲っていた黒い森が、延々と地平線の向こうへと伸びていた森が、この場所の風景に当たり前のように溶けこんでいた森が、見事に消え去っていたのです。代わりにあるのは、あのだだっ広い草原だけでした。しかし、そこに生えている草は、以前のような青い芝生ではなく、枯れてボロボロになった、まばらな雑草でした。
 その間にも、空はどんどん黒く染まっていきました。しかし、おかしいのです。これはアリーが知っている夕方の空ではありません。消えゆく夕日を追いかけるように黒い雲が現れ、あっという間に空を飲みこんでしまったのです。 その黒さは普段見かける雨雲とは比べものにならないほど恐ろしい闇色をしていました。そして、雲が空を覆いつくすと同時に空からの明かりは消滅し、あたりは真っ暗になってしまいました。ノアの姿が見えなくなったので、アリーは慌てて辺りを手で探ってみましたが、何もありません。
「ノア、いる?」
「ああ、声のおかげで方向がわかった。今そっちに行く」
 ノアがやってきて、手探りでアリーの腕を掴みました。
「手を離すなよ」
「ええ」
 やがて、トトトト、と軽く何かを打ちつけるような音が地面から聞こえてきました。それが地面に落ちる雨粒の音だと気づいたとき、既にアリーの服はずぶ濡れになっていました。雨は一気に強まり、同時に発生した暴風と絡まって、物凄い勢いでアリーたちを襲います。
 アリーは咄嗟に帽子を押さえました。風で帽子が飛んでいってしまうかもしれないからです。
 そのときでした。
 ぼうっと帽子がランプのように発光すると、ふわりと持ち上がり、器用にアリーの手をすり抜けて浮かびあがりました。
「ついてきて。案内するわ」
 帽子から声がしました。さっきの少女が発していた声ではありません。か細い、透きとおった声でした。
「誰?」
「答えている暇はないの。これは最後の手段、長くはもたないわ。さあ、早く!」
 そう言うと、帽子はふわふわと光りながら裏返り、小さな時計になりました。正確には時計ではなく、針のないただの文字盤が、ぼうっと光りながら浮かんでいました。そしてその文字盤はそのまま、どこかへと向かって飛びはじめました。アリーは急いで文字盤を追いかけました。後ろからノアが来て言いました。
「おい、あの帽子はなんなんだ?」
「わからないわ……この帽子と会ってから、不思議なことばかり」
 雨のせいで地面がぬかるんでいるのか、靴に泥のようなものがまとわりついてきます。文字盤の速度は早く、アリーが全速力で走ってなんとかついていけるくらいでした。アリーは目の前の灯を見失わないように気をつけながら、必死に後を追いました。
 やがて文字盤は、ある大きな建物の前にやってきました。弱々しい文字盤の灯では、その建物がなんなのかはよくわかりません。
「あっ」
 建物の前には、誰か人が立っていました。相手の顔はよく見えません。アリーは息を切らせながら、文字盤を追ってその人物に近づいていきました。
 文字盤はその人物のすぐ手前までやってくると元の帽子に戻り、光の粒を撒き散らしながら力尽きたように、ぽとりと地面に落ちました。アリーは帽子を拾おうとして立ちどまり、相手の顔を見て仰天しました。
「ギル!?」
「アリー!?」
 そこにいたのは、つい昨日会ったばかりのギルだったのです。
 そして、次の瞬間、バン!という音がして、ギルの背後から強い光が漏れだしました。それは建物の扉の音だったようで、建物の中は昼間のように明るくなっていました。そして、アリーはこの扉の向こうの光景に見覚えがありました。
「ここは……時計塔?」
 そう、この建物はつい数時間前に来ていた、あの時計塔だったのです。あの綺麗に並べられていた兵士たちはおらず、代わりにたくさんの軍服と、バラバラになった白い何かが散乱していました。アリーはその白い固形物の形を見てそれが何なのかを察し、ひっと息を呑みました。
「誰だ、こんなときに鬱陶しい」
 散らばった兵士たちの向こうで、誰かが腕を組んでいました。それは、ついさっきアリーたちの前に現れた、あの汚い声の少女でした。
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