8 宣告の時
突然、兄の名前を愛称で呼ばれたので、ギルはびっくりして固まってしまいました。
「え……はい。ええと、俺の兄です」
「『兄』? それじゃあ、あなたは、あの子の『弟』?」
「兄さんを知っているんですか?」
そのとき、女性の左手が、淡い緑色の光を放ちました。
「うっ……!」
女性は突然、左手首を押さえて呻きはじめました。ギルは仰天して女性に駆けよりました。女性は立っていられなくなったのか、苦悶に満ちた顔で地面に座りこんでしまいました。
「ど、どうしたんですか?」
ふと女性の左手を見ると、ぼんやりと、袖の下で何かが発光しているのがわかりました。ギルは咄嗟に、女性の左腕の袖をまくってみました。
「なんだよ、これ……」
そこには、不気味な緑色の光を放つ、腕輪のようなものがはめこまれていました。その腕輪の光はしばらく、強くなったり弱くなったりと、点滅を繰り返していましたが、やがて、少しずつ弱まり、とうとうただの汚い緑色の腕輪に戻ってしまいました。
「うう……」
腕輪の輝きが消えるのと同時に、女性の表情も少し和らぎました。女性は苦しみから解放されたのか、ぐったりと側の木にもたれかかったまま、動かなくなってしまいました。
「大丈夫ですか?」
女性は荒い呼吸を何度か繰り返すと、弱々しく自分の左手を持ちあげました。
「どうして時計が……何が起こっているのかしら……」
そしてゆっくりと身を起こし、困ったように立ちつくしているギルを見あげました。
「あなたの名前は?」
「ギルバート・ワイズっていいます」
女性は目を見開いてギルを見、そして困惑した表情で目を伏せました。
「そう……それじゃ、あなたがワイズさん家 の子なの……」
「俺の兄さんは、今、この町にいるはずなんです。だから探していて。お姉さんは、兄さんのことを知っているんですよね?」
ギルはそこまで言って、目の前にいる人物の名前を聞いていないことに気がつきました。
「ところで、お姉さんの名前を聞いてもいいですか?」
「レイチェル。私はレイチェル・ワトソン」
「レイチェル・ワトソンだって!?」
ギルは仰天しました。だって、ハルとバートが会いに行ったのは、外でもない「レイチェル・ワトソン」という人物だったからです。ギルは思わず大声でレイチェルに詰め寄りました。
「兄さんは、あんたに会うためにこの町へ来たはずだ。なあ、兄さんがどこにいるか知らないか?」
するとレイチェルは下を向き、声を震わせ、途切れ途切れに言いました。
「確かに会ったわ。会ったところまでは覚えてる。でも、そこから先の記憶がないの。いろんなことが同時に押しよせてきて、わけがわからなくなって、目の前が真っ暗になって……気がついたら建物が壊れていて、周囲には木が生えていて。私にも、何が起こっているのか、さっぱり……」
「時の掟は三度破られた。後継者は潰えた。時の魔法は消滅する」
低くしわがれた声が、レイチェルの方から聞こえました。しかし、レイチェル自身が焦った様子で周囲を見回しているところを見ると、彼女が喋っているわけではなさそうです。
「誰? 誰なの?」
すると、レイチェルの腕輪が再度輝き、すうっと誰かが抜けでてきました。ギルはその人物を見て、あっと声をあげました。
「フローじゃないか!」
出てきたのは、フローにそっくりな少女でした。しかし、その表情は氷のように冷たく、全身は緑色の光に包まれていました。フローらしき少女はギルには目もくれず、まっすぐにレイチェルを見下ろすと、先ほどの低い老人のような声で、淡々と告げました。
「私はクロック王国の時を司る精霊。これよりお前に審判を下す」
「精霊……? あなたは、フローではないの?」
「あれは長い時を生きる中で自然発生した、無駄な人格だ。裁きの時には必要ない。よって、お前が禁忌の術を使うと同時に消滅した」
「禁忌? なんのこと?」
「覚えがないのか。お前はこの土地の時を、強制的に約二百年進めたんだ」
「えっ?」
「ええっ!?」
ギルは慌てて、精霊とレイチェルの間に割って入りました。
「おい待てよ。二百年進めたって、どういうことだよ?」
精霊はちらりとギルを一瞥し、馬鹿にしたように笑いました。
「王族の魔力のことも知らんのか。レイチェル王女は自分の力を制御できなくなり、その結果、巨大なエネルギーが暴発した。その影響で、周囲の時間が強制的に進んだのだ」
ギルはレイチェルの方を振り返りました。確か、このレイチェルという人は、ハルの姉にあたる人物のはずです。ハルが王子で、家をめちゃくちゃにする力を持っていたのですから、もしかすると、王女と呼ばれたこの人にも同じことができるのかもしれません。
「つまり、突然木が生えたのも、建物がぼろくなったのも、そのせいなんだな。兄さんの時と同じってことだな」
すると、レイチェルが弱々しく呟きました。
「それじゃあ、旦那様の身体が骨だけになったのも、私のせいなの……?」
ギルはその言葉を聞いて、背筋が凍りました。
「なんだって?」
しかし、レイチェルはひどく動揺した様子で、黙りこくったままです。ギルは思わず、レイチェルの肩を強く揺さぶりました。
「答えてくれよ! 骨だけになるって、なんなんだよ?」
レイチェルは今にも泣きそうな顔で、おずおずとギルを見あげました。
「はじめに見たときは、ただ倒れているだけだと思ったの。でも、よく見たら、全身が黒っぽくなっていて。助け起こそうとしたら、肌がボロボロに崩れ落ちて、洋服と骨だけになってしまって……」
ギルは精霊の方を振り返りました。これ以上レイチェルに聞くよりも、この精霊に尋ねる方が早いような気がしたからです。精霊はギルの意図を察したのか、ギルが口を開く前に「当然だ」と言いました。
「人間の寿命くらいは知っているだろう。生きている人間の時間を二百年進めたらどうなるか、わからないかね?」
ギルは、精霊に掴みかかろうとした手をだらんと下ろし、そのまま地面に膝をつきました。
「そんな……」
頭の中が、真っ白になりました。
ふっと、戸口で見送ったときにハルが見せた、笑顔が脳裏をよぎりました。今までも家族として一緒に過ごしてきましたが、あんな笑顔を見たのははじめてでした。まさか、あれがハルの最後の姿になるなんて……ギルは泣くこともできず、ただただぼんやりと、これまでのハルと過ごしてきた日々を思いかえしていました。
ハルとは長い間、ずっと一緒に暮らしてきました。しかし、ギルにとってずっと、ハルは少し理解しがたい不思議な人でした。
たとえば、ハルは、どんなにいいことがあっても、飛びあがって喜ぶようなことはなく、いつも柔らかく微笑んで受けとめる人でした。ギルの成績が良かったときも、同じ笑顔で道徳の本に出てきそうな、ありがちな言葉で褒めてくれるだけでした。ギルが叱られたときだって、あざ笑うこともなく、馬鹿にすることもなく、黙って助け舟を出してくれました。
とにかく、すべてが教科書通りで型にはまっていて、行動原理が理解できないのです。ですから、これまでギルはハルのことを機械のような人だと思っていました。だからこそ、突然ハルが家を飛びだしたときは、とてつもなく驚きました。森に行く途中で彼が見せた表情は、それまでギルが見たことのないものでした。
そのときになって、ギルはようやく、自分がハルのことを何も知らなかったことを思い知らされました。
でも、途中でバートに会い、とうとうギルは、ハルの本心を聞きだすことができました。そして、本当の意味で仲直りをすることもできました。あの事件を経て、ようやく、ようやく本当にハルのことを知ることができたのです。それなのに……
「なんで、なんでだよ。どうしてそんなことしたんだよ!」
ギルはレイチェルに向かって、思いきり怒鳴りました。精霊が言いました。
「これは『分裂現象』と呼ばれるものだ。本人の意思とは無関係に起こりうる。だが、禁忌であることに変わりはない」
「分裂現象!?」
レイチェルはハッとして左手の腕輪を見つめました。
「ああ、そんな……! アールから、気をつけるように言われていたのに。せっかく、過去のことは考えないようにして、おかしくならないようにしていたのに。じゃあ、あのときに……」
レイチェルは憔悴しきった様子で左手首を握りしめ、そのまま動かなくなってしまいました。
「『分裂現象』……」
精霊が言ったその奇妙な言葉に、ギルは聞き覚えがありました。そう、昨日ハルの身に起きたおかしなできごとは、すべて分裂現象のせいなのだと、バートは言っていました。
──分裂現象というのは、所詮は心の問題だ。単純にトラブルの根源が解決すれば、暴走は収まる。
確かに、バートはそう言っていました。分裂現象は心の問題だと。
「ねえ、レイチェルさん」
ギルはできるだけ優しい声で、レイチェルに話しかけました。
「え……はい。ええと、俺の兄です」
「『兄』? それじゃあ、あなたは、あの子の『弟』?」
「兄さんを知っているんですか?」
そのとき、女性の左手が、淡い緑色の光を放ちました。
「うっ……!」
女性は突然、左手首を押さえて呻きはじめました。ギルは仰天して女性に駆けよりました。女性は立っていられなくなったのか、苦悶に満ちた顔で地面に座りこんでしまいました。
「ど、どうしたんですか?」
ふと女性の左手を見ると、ぼんやりと、袖の下で何かが発光しているのがわかりました。ギルは咄嗟に、女性の左腕の袖をまくってみました。
「なんだよ、これ……」
そこには、不気味な緑色の光を放つ、腕輪のようなものがはめこまれていました。その腕輪の光はしばらく、強くなったり弱くなったりと、点滅を繰り返していましたが、やがて、少しずつ弱まり、とうとうただの汚い緑色の腕輪に戻ってしまいました。
「うう……」
腕輪の輝きが消えるのと同時に、女性の表情も少し和らぎました。女性は苦しみから解放されたのか、ぐったりと側の木にもたれかかったまま、動かなくなってしまいました。
「大丈夫ですか?」
女性は荒い呼吸を何度か繰り返すと、弱々しく自分の左手を持ちあげました。
「どうして時計が……何が起こっているのかしら……」
そしてゆっくりと身を起こし、困ったように立ちつくしているギルを見あげました。
「あなたの名前は?」
「ギルバート・ワイズっていいます」
女性は目を見開いてギルを見、そして困惑した表情で目を伏せました。
「そう……それじゃ、あなたがワイズさん
「俺の兄さんは、今、この町にいるはずなんです。だから探していて。お姉さんは、兄さんのことを知っているんですよね?」
ギルはそこまで言って、目の前にいる人物の名前を聞いていないことに気がつきました。
「ところで、お姉さんの名前を聞いてもいいですか?」
「レイチェル。私はレイチェル・ワトソン」
「レイチェル・ワトソンだって!?」
ギルは仰天しました。だって、ハルとバートが会いに行ったのは、外でもない「レイチェル・ワトソン」という人物だったからです。ギルは思わず大声でレイチェルに詰め寄りました。
「兄さんは、あんたに会うためにこの町へ来たはずだ。なあ、兄さんがどこにいるか知らないか?」
するとレイチェルは下を向き、声を震わせ、途切れ途切れに言いました。
「確かに会ったわ。会ったところまでは覚えてる。でも、そこから先の記憶がないの。いろんなことが同時に押しよせてきて、わけがわからなくなって、目の前が真っ暗になって……気がついたら建物が壊れていて、周囲には木が生えていて。私にも、何が起こっているのか、さっぱり……」
「時の掟は三度破られた。後継者は潰えた。時の魔法は消滅する」
低くしわがれた声が、レイチェルの方から聞こえました。しかし、レイチェル自身が焦った様子で周囲を見回しているところを見ると、彼女が喋っているわけではなさそうです。
「誰? 誰なの?」
すると、レイチェルの腕輪が再度輝き、すうっと誰かが抜けでてきました。ギルはその人物を見て、あっと声をあげました。
「フローじゃないか!」
出てきたのは、フローにそっくりな少女でした。しかし、その表情は氷のように冷たく、全身は緑色の光に包まれていました。フローらしき少女はギルには目もくれず、まっすぐにレイチェルを見下ろすと、先ほどの低い老人のような声で、淡々と告げました。
「私はクロック王国の時を司る精霊。これよりお前に審判を下す」
「精霊……? あなたは、フローではないの?」
「あれは長い時を生きる中で自然発生した、無駄な人格だ。裁きの時には必要ない。よって、お前が禁忌の術を使うと同時に消滅した」
「禁忌? なんのこと?」
「覚えがないのか。お前はこの土地の時を、強制的に約二百年進めたんだ」
「えっ?」
「ええっ!?」
ギルは慌てて、精霊とレイチェルの間に割って入りました。
「おい待てよ。二百年進めたって、どういうことだよ?」
精霊はちらりとギルを一瞥し、馬鹿にしたように笑いました。
「王族の魔力のことも知らんのか。レイチェル王女は自分の力を制御できなくなり、その結果、巨大なエネルギーが暴発した。その影響で、周囲の時間が強制的に進んだのだ」
ギルはレイチェルの方を振り返りました。確か、このレイチェルという人は、ハルの姉にあたる人物のはずです。ハルが王子で、家をめちゃくちゃにする力を持っていたのですから、もしかすると、王女と呼ばれたこの人にも同じことができるのかもしれません。
「つまり、突然木が生えたのも、建物がぼろくなったのも、そのせいなんだな。兄さんの時と同じってことだな」
すると、レイチェルが弱々しく呟きました。
「それじゃあ、旦那様の身体が骨だけになったのも、私のせいなの……?」
ギルはその言葉を聞いて、背筋が凍りました。
「なんだって?」
しかし、レイチェルはひどく動揺した様子で、黙りこくったままです。ギルは思わず、レイチェルの肩を強く揺さぶりました。
「答えてくれよ! 骨だけになるって、なんなんだよ?」
レイチェルは今にも泣きそうな顔で、おずおずとギルを見あげました。
「はじめに見たときは、ただ倒れているだけだと思ったの。でも、よく見たら、全身が黒っぽくなっていて。助け起こそうとしたら、肌がボロボロに崩れ落ちて、洋服と骨だけになってしまって……」
ギルは精霊の方を振り返りました。これ以上レイチェルに聞くよりも、この精霊に尋ねる方が早いような気がしたからです。精霊はギルの意図を察したのか、ギルが口を開く前に「当然だ」と言いました。
「人間の寿命くらいは知っているだろう。生きている人間の時間を二百年進めたらどうなるか、わからないかね?」
ギルは、精霊に掴みかかろうとした手をだらんと下ろし、そのまま地面に膝をつきました。
「そんな……」
頭の中が、真っ白になりました。
ふっと、戸口で見送ったときにハルが見せた、笑顔が脳裏をよぎりました。今までも家族として一緒に過ごしてきましたが、あんな笑顔を見たのははじめてでした。まさか、あれがハルの最後の姿になるなんて……ギルは泣くこともできず、ただただぼんやりと、これまでのハルと過ごしてきた日々を思いかえしていました。
ハルとは長い間、ずっと一緒に暮らしてきました。しかし、ギルにとってずっと、ハルは少し理解しがたい不思議な人でした。
たとえば、ハルは、どんなにいいことがあっても、飛びあがって喜ぶようなことはなく、いつも柔らかく微笑んで受けとめる人でした。ギルの成績が良かったときも、同じ笑顔で道徳の本に出てきそうな、ありがちな言葉で褒めてくれるだけでした。ギルが叱られたときだって、あざ笑うこともなく、馬鹿にすることもなく、黙って助け舟を出してくれました。
とにかく、すべてが教科書通りで型にはまっていて、行動原理が理解できないのです。ですから、これまでギルはハルのことを機械のような人だと思っていました。だからこそ、突然ハルが家を飛びだしたときは、とてつもなく驚きました。森に行く途中で彼が見せた表情は、それまでギルが見たことのないものでした。
そのときになって、ギルはようやく、自分がハルのことを何も知らなかったことを思い知らされました。
でも、途中でバートに会い、とうとうギルは、ハルの本心を聞きだすことができました。そして、本当の意味で仲直りをすることもできました。あの事件を経て、ようやく、ようやく本当にハルのことを知ることができたのです。それなのに……
「なんで、なんでだよ。どうしてそんなことしたんだよ!」
ギルはレイチェルに向かって、思いきり怒鳴りました。精霊が言いました。
「これは『分裂現象』と呼ばれるものだ。本人の意思とは無関係に起こりうる。だが、禁忌であることに変わりはない」
「分裂現象!?」
レイチェルはハッとして左手の腕輪を見つめました。
「ああ、そんな……! アールから、気をつけるように言われていたのに。せっかく、過去のことは考えないようにして、おかしくならないようにしていたのに。じゃあ、あのときに……」
レイチェルは憔悴しきった様子で左手首を握りしめ、そのまま動かなくなってしまいました。
「『分裂現象』……」
精霊が言ったその奇妙な言葉に、ギルは聞き覚えがありました。そう、昨日ハルの身に起きたおかしなできごとは、すべて分裂現象のせいなのだと、バートは言っていました。
──分裂現象というのは、所詮は心の問題だ。単純にトラブルの根源が解決すれば、暴走は収まる。
確かに、バートはそう言っていました。分裂現象は心の問題だと。
「ねえ、レイチェルさん」
ギルはできるだけ優しい声で、レイチェルに話しかけました。