7  救助

「これが、レイ……?」
 写真の中のレイは、面影こそあるもののまるで別人のようでした。そういえば、ノアはレイのことを知っていると言っていました。
「友達だったの?」
「ああ」
 ノアは少し沈んだ声で答え、アルバムを閉じました。
「あの扉は、誰も知らない扉だったんだ。そもそも、屋根裏にあんな扉がついていることに気づいていなかった。元々薄暗い場所だしな。扉のことを教えてくれたのはレイだ。今でも、俺以外の人間はあの扉の存在を知らない」
「でも、それじゃどうして、あんなところに扉が?」
 ノアは少し考え、こう切りだしました。
「レイのこと、どこまで知ってるんだ?」
 どこまで、と言われてアリーは答えに窮しました。
「赤い帽子を持っていたことと、クロックっていう国を知っていることと……王女様だってこと」
 それ以上は何も出てこなかったので、アリーは言葉を切りました。あまりの情報の少なさに、なんだか虚しくなりました。そういえば、アリーはこれまでレイとほとんど会話をしたことがありませんでした。あのクロックという国のことだって、教えてくれたのはバートであってレイではありません。アリーは何も知らないのです。もっとレイときちんと話をすればよかった、どうして何も知らないのに自分はこんなところにいるのだろう、とアリーはひとり、唇を噛みしめました。
 ノアはしばらくアリーの様子を伺っていましたが、アリーがこれ以上何も話さないことを察したのか、自分から話しはじめました。
「俺はかつて、レイと一緒にあの国へ行った。あの国にはアールという爺さんがいた。アールのことは知っているか?」
 アリーは首を振りました。知らないものは知りません。ノアは特に気にもとめない様子で話を続けました。
「そうか。俺が行ったときは、あの時計塔にじいさんが住んでいて、俺たちに話をしてくれたんだ。アルバート・ペンバートンの話も聞いた」
「バートの?」
 ノアは座った状態で腰をさらに曲げ、アリーと同じ目線になり、あたりを警戒しながら小声で囁きました。
「これは、今のところ俺しか知らない情報だが……簡単に言うと、アルバートは『クロック』の元王子だったんだ」
「え……?」
 アリーはしばらく、ノアの言っていることが全く理解できませんでした。ハルが王子なのは聞きましたが、バートについては初耳です。いったい何がどうなれば、あの国とバートがそんな関係になるのでしょうか。
「彼はあの国の生まれで、本当は国王になる予定の第一王子だったんだ。だけど家出をして、よその国で勝手に結婚を決めて、国を追いだされたから、名前を変えてこの地に住み着いたらしい。そして、この自分の屋敷に、故郷に繋がる扉を作って置いておいたんだ」
 アリーはだんだん、話についていけなくなってきました。ノアはレイだけでなく、バートのことも知っているようです。
「待って、話がわからないわ。それじゃ、バートはレイとはきょうだいだってこと?」
「違う。レイは今の人間だろ? アルバートが生きていたのは二百年以上昔だ。つまり、アルバートはレイの何代も前の先祖にあたるわけだ。そして、アルバート・ペンバートンというのは彼の本名じゃない。本当の名前は『シーザー』だ」
「『シーザー』……」
 アリーはその名前を繰り返しました。そういえば、時計塔の地下室でそんな名前を見かけたような気がします。
「でも、あの場所に人はいなかったわ。誰もいないのに王様や王子様だと言ったって仕方がないんじゃない?」
「昔はたくさん人がいたんだ。でも色々あって、王族以外の人間はほとんどいなくなってしまったらしい。だけど、間違いなくあの場所は『国』だったんだよ。レイも幼い頃はあそこにいたそうだ」
 アリーは眼を見開きました。
「レイが……?」
 確か、レイが両親の店に来たのは、アリーがまだ3歳のときでした。当時の記憶はほとんどありませんが、のちにパパが、レイは海の向こうのデルンガンと言う国からひとりでやってきたという話をしてくれたのを覚えています。だからアリーも、レイは隣国から来た人なのだと思いこんでいました。
「レイはこの国に、デルンガンに住んでいたんじゃないの? 少なくともパパは、レイのことをそう言ってたわ」
「それは後の話だ。もともと、レイは家族と『クロック』に住んでいたのさ。本人とアールに聞いたんだから間違いない。あの時計塔はレイとその家族の家だったんだよ。でも、五歳の時に、あの場所に軍が立ち入って、母親と弟は行方不明になったらしい」
「お父さんは?」
「ずっと眠らされているんだってさ。恐らくは今でも。だけど、そのあたりはレイもあまり教えてくれなかった」
「そんな。じゃあ、ずっとひとりだったの?」
「知り合いに引き取られて、ここへ引っ越してきたんだ。レイ本人から聞く限り、義理の両親は悪い人ではないらしい。でも正直、あの家にあんまりいい噂は聞かなかったな。あそこの夫婦、仲はよくなかったそうだし」
 アリーは絶句しました。ノアはため息をつきました。
「あいつ、両親がいないのに義理の母親まで亡くしてるんだ。その上、家も親類に売り払われたらしい。俺、その頃は全寮制の学校に入れられていてさ。ようやく帰って会おうとしたときには、すでに家ごと全てがなくなっていた。それきり、ずっと音信不通のままだ」
 そして、膝に抱えたままのアルバムの表紙を撫でました。
「これまで心当たりのある場所は探してみたけど、手がかりはなかった。長年会ってもいない人間なんかを探してどうするんだ、と笑われたこともあったけど、心配だったんだ。レイは元々気弱で世渡り下手だし、どこかでいびられでもしてるんじゃないかって。だけどまさか、国外に行っているとは思わなかった」


 ──どうして私には何もないの。


 アリーの脳内で、あのときのレイの声が反響しました。
 彼女は今、どうしているのでしょう。あのときは恐ろしくて、ただ逃げることしか考えていませんでした。正気のレイは瓦礫の中にいたかもしれないのに。クロックの中で出会ったレイとだって、きちんと話すチャンスはあったかもしれないのに。全て放置して、自分はここまで来てしまいました。
「私、向こうに戻る。レイのところに行くわ」
 今にも部屋を飛びだそうとするアリーを、ノアは慌てて引きとめました。
「気持ちはわかるが、落ち着け。ドアの向こうでは死人がでているんだろう?」
「でも……」
「それに今は夜だ。クロックはともかく、森の向こうの町は真っ暗だろ」
「じゃあ、朝まで待つの?」
「セミラとこの国に時差はないが、日の出は向こうの方が少し遅い。朝六時くらいに出発すれば、向こうでも夜が明けているはずだ」
「だけど、まだ夜の九時じゃない!」


 そのとき、アリーの手から、目覚まし時計が飛びだしました。しっかり握っていたはずなのに、まるで生き物のようにアリーの指をすり抜け、ノアの足元に転がっていってしまいました。ノアはそれを拾うと、訝しげにそれを観察しました。
「こいつ、ティムにそっくりだな」
「ティムって?」
「俺にもよくわかんないけど、時計だよ。レイの知り合いの時計なんだ」
「時計と知り合い?」
「そうだよ。あの国、時計が生きている国なんだ」
「時計が?」
 アリーはもう、何にも驚きませんでした。ノアがそう言うのなら、そうなのでしょう。
「ああ。でも、これは違うな。『ふたつめ』なんて書いてあるし、アリーの名前が刻まれている」
 ノアは時計をくるくると回して観察しながらそう言いました。アリーはびっくりして駆けより、ノアの手元を覗きこみました。
 すると、時計の「十二」の数字の下に、ある単語が書かれていました。アリーの記憶が正しければ、そこには「ペンバートン」と刻まれているはずでした。しかし、そこには違う単語が書かれていました。
「『ローレンス』? これって……」
「なんで驚いているんだよ。お前のだろ?」
 アリーがその質問に答えようとした瞬間でした。
 けたたましいベルの音が、部屋中にこだましました。音源は、この目覚まし時計のようでしたが、どこから音が鳴っているのかさっぱりわかりません。とはいえ、バートに貰ったものですから叩きつけるわけにもいきません。どうしたものかとアリーがあたふたしていると、時計は突然ぴたりと鳴りやみ、おとなしくなりました。
「何かしら、今の……」
 アリーが呆然としていると、ノアがはっとして時計を持ちあげました。
「この時計、急に狂ったぞ。五時三十分を指してる。さっきまで正確だったのに……」
 そして、室内の時計を見上げて、仰天しました。
「五時三十分? そんな馬鹿な、だって今は……」
 アリーは咄嗟に窓に走り、カーテンを開けてみました。
「ノア、大変よ。まだ日が沈んでいないわ!」
 すると、コンコンとノックの音が聞こえました。入ってきたのは、寝間着姿のネルでした。
「お兄様、大変ですわ。今は夜の九時のはずなのに、外が夕方になっていますの。お帰りになったお客様方も、混乱した様子で次々に戻ってきておりますし、玄関は大騒ぎですわ。じいやが外へ確認しにいったところ、どの大時計も五時三十分を指しているといいますのよ。私、もう頭がおかしくなりそうで……」
 ノアとアリーは顔を見合わせました。
「おい、これってまさか……」
「時間が、巻き戻ってる?」
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