6 プリンセス

 アリーの心臓は破裂寸前でした。空気の味もわからなくなり、腹部はキリキリと痛みました。全身のありとあらゆる部分が、もう限界だと悲鳴をあげているのがわかりましたが、アリーは足を止めませんでした。
 いえ、正確には止められなかったのです。止めてしまったが最後、きっともう二度と立ちあがれなくなる気がしていました。頭がくらくらして、目の前の景色は霞んでいましたが、それでもアリーは走りつづけました。


 こうして、どこまでも続く小さな家たちの間を抜けていくと、突然、人間が入れる大きさの扉がついた、こじんまりとした小屋が現れました。バートが言っていた通りです。他に、人間が入れそうな建物はありません。アリーは鍵をポケットにしまうと、目覚まし時計を手に持ったまま、ヨロヨロとその小屋に近づいていきました。ところが、小屋の扉は誰かが閉め忘れたのか、少し開いていました。どうやら鍵はかかっていないようです。
「イザドラ……」
 ドアノブに手をかけたとき、突として、小さな声が聞こえました。アリーは血の気が引きました。ゆっくりと振り返ると、そこにはアリーよりも遥かに小さな、見知らぬ黒髪の子供がいました。けれども、その顔立ちには、どこか見覚えがありました。
「レイ、なの……?」
 しかし、返事はありませんでした。少し丈の長い、白襟の青いワンピースドレスを着たその子は、少し不満そうにこちらに向かって言いました。
「お父様は、お母様は? ハルはどうしているの?」
「えっ?」
 そのときでした。身体中にピリッと静電気のような痛みが走りました。そして、足が異常に重くなり、動きにくくなりました。間違いありません、ここにいるのはレイです。
「あ……あああ……!」
 アリーは無我夢中で足を引きずって小屋に入り、内側の鍵をかけました。そして、近くにあった椅子を扉に立てかけました。幸い、足は思うように動かないものの、自力で歩くことはできました。
 小屋の奥の壁には、とってつけたようなドアノブがありました。扉いうよりは、ノブがついた壁という感じです。まるで騙し絵のようでしたが、この小屋で入口の他に「扉」と呼べそうなのは、ここくらいでしょう。他には窓くらいしかありません。
 バートがわざわざ小屋ではなく「扉」と言っていたのは、こちらの扉を指していたからかもしれません。きっとこれだわ、とアリーは確信し、鍵を取りだし、鍵穴に差しこみました。しかし、鍵は回りません。何度試してもだめでした。鍵と鍵穴が合っていないようです。アリーは大急ぎで小屋中を調べてみましたが、他に扉らしきものはありません。では、やはり小屋の入り口が正解だったのでしょうか。しかし、こんな小屋にいたって、どうにもなりません。だいいち、バートは「誰にも見つからないように」と言っていました。でも、小屋の中にはアリーひとりしかいないのです。


「ここは見張り小屋なの? 小屋というわりに大きいのね……」
「どうして、私はここにいなければならないのかしら……」


 外からは時折幼い声が聞こえてきました。そして、その度に、小屋は大きな音を立てて揺れました。天井や壁からはミシミシと木材が軋む音がしました。どう考えても、この小屋は安全ではなさそうです。ということは、こちらの扉がバートの言っていた扉なのでしょうか。なら、どうして鍵が合わないのでしょう。
「どうして、どうして鍵が合わないの?! ねえ、バート……!」
 その間にも、小屋の外からは謎の声が聞こえ、小屋は大きく揺れました。それどころか、声は段々と大きくなってきています。アリーはもう、パニックでした。小屋の外に出れば、先程のバートのようになってしまうでしょう。けれど、扉は開きません。どういうことなのでしょう。どこで間違えたのでしょうか。
「どうしよう、どうしよう……!」
 とうとう、ドアノブがガチャガチャと音を立てはじめました。レイが扉を開けようとしているのでしょうか。開けられたら、どうなるのでしょうか。
 ──そもそも、どうして私はレイに怯えているのだろう。どうして、こんなことになってしまったんだろう? 
 ふっと、そんな疑問が頭をよぎりました。レイがうちに来たときから、パパとママはレイのことを気に入っていました。アリーだって、レイのことは嫌いではありませんでしたし、レイだって、時々はアリーの話相手をしてくれました。なのに今、レイによって町は変貌し、ハルとバートはいなくなってしまいました。
 ──誰のせい? バートのせい? 違う……
 アリーは、そこで初めて、恐ろしいことに気がつきました。
「私だわ……私が帽子について知りたいと思ったから……森なんかに行ったから……」
 全身の力が抜けました。そうです、元はといえば、アリーがレイの帽子に興味を示したことからはじまったのです。
 帽子のことなんか話さなければ。せめて、帽子を受けとらなければ。受けとったとしても、森に行かなければ。ギルの誘いを断っていれば。余計なことをしなければ……
 ぐっと、喉から何かがせりあがってきました。バートと別れる前に、さんざん泣き尽くしたはずなのに。アリーは悔しくてたまりませんでした。今の今まで、アリーは何も考えず、自分の好奇心にだけ従って行動してきました。そのくせ、ハルを助けることもできず、バートを身代わりにして逃げだし、今は小屋の中でレイに怯えて泣いているのです。こんなに情けない話はありません。
 全ては、自分が撒いた種なのです。
 このまま、諦めるという選択肢もあります。元はアリーのせいなのですから、アリーだけが逃げのびたって仕方がありません。
 だけど、バートたちはどうなるのでしょう。バートはアリーに「頑張れよ」と言っていました。このまま頑張らずに力尽きたら、バートたちを助ける人はいなくなってしまいます。パパたちだって、どうなるかわかりません。今は、頑張らなければいけないのです。
「扉を開けなきゃ……逃げて、バートたちを助けなきゃ……!」
 アリーは顔をあげました。こうなったらやけです。アリーは入口を塞いでいた椅子を取りあげると、大声をあげて、めちゃくちゃに奥の扉を叩きはじめました。椅子を使って叩けば、扉をぶち破れるかもしれません。もちろん、アリーのような小さな少女の力なんてたかがしれていますから、成功する保証は全くありません。この扉が正解とも限りません。それでも、やるしかないのです。
 そうやって、何十回扉を叩いたでしょうか。突然、ピクリともしなかった扉が、ギイっと向こう側に動きました。椅子を振りあげていたアリーはそのまま、勢い余って扉に突進してしまいました。
「きゃあーっ!」
「うわあ!?」
 扉を挟んだ向こう側には誰かがいたようで、扉越しに尻もちをつく音が聞こえました。アリーは椅子と一緒に扉の向こう側に転がりでると、ハッと起きあがり、急いで扉を閉めました。
 ふと見上げると、上の方に小さな窓と斜めの天井が見えました。扉の向こうは、屋根裏部屋だったようです。
「痛ってえ……」
 誰かが、腰をさすりながら起きあがりました。きっと、扉の向こうにいた人でしょう。かなりの勢いで突っ込んでしまったので、相手のダメージも相当なものでしょう。アリーも扉にぶつけてしまった肘や頭がズキズキと痛みました。
「ご、ごめんなさい! 悪気はなかったんです」
 すると、相手は驚いたようにこちらを見ました。暗いのでよく見えませんが、スーツを着た男性のようでした。
「お兄様、ネズミはどうなりましたの? いい加減に降りてきてくださいな」
 床の下から、女の人の声がしました。男性は訝しげにアリーの全身を観察した後、こう尋ねました。
「お前の名前は?」
「わ、私はアリー……です」
「ふーん。まあいいや」
 男性は、そばに置いていたロウソクを持ち、床に空いていた穴の方へと行くと、こちらに向かって手招きしました。
「とりあえず降りるぞ。話は後で聞く」
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