1 アリーと赤帽子

 帽子の裏側の淵には、濃い黒でぐるりと十二の数字が書いてありました。縫い付けているのではありません。まるでタイプライターで打ちこんであるかのように、くっきりと浮かび上がっているのです。それはまるで、布でできた時計のようでした。十二の下には、帽子と同じ紅色の糸で「アレクサンドラ」と刺繍されていました。さらに、帽子の中心からは時計の長針と短針を思わせる、二本の長さの違う線が縫いこまれていました。
 こんなの、レイから貰ったときには――いいえ、あのときは裏側なんか見ていませんでしたが、少なくとも、鏡の前で被るときには――なかったはずです。
 ふと、そのとき、アリーは両手に違和感を覚えました。なんだか、誰かに引っ張られているような感じがするのです。というより、何かに押し戻されているような……まさかと思い、アリーは両手の力を緩めてみました。
「あっ」
 その途端、アリーの手から帽子が逃げ出しました。風に攫われたのではありません。地面に転がった帽子は、まるで生き物のように地面を跳ねて行きました。アリーは慌てて追いかけました。
 帽子はボールのように跳ね回り、道行く人を器用に避けて、先へ先へと進んで行きました。アリーは、あっちこっちの人にぶつかりながらも、帽子を見失わないように必死で後を追いました。
 いつの間にか、帽子とアリーは、町外れの食堂の前まで来ていました。アリーはもう息が切れて、一歩も動けない状態でしたが、帽子のほうはまだまだ元気で、食堂の入り口の扉にぺしぺしと体当たりを繰り返していました。
 今にも倒れそうになりながら帽子を取ろうとすると、運悪く扉が開いてしまいました。中から出てきたのは、食事を済ませのたであろう老いた夫婦でした。夫婦は、扉の前で息を荒くしているアリーを見て面食らったようでしたが、帽子には気づかず、そのまま扉を閉めて行ってしまいました。
 それからしばらく、アリーは途方に暮れていました。用もないのに中へ入るのは、なかなか勇気がいります。しかし、せっかくレイがくれた帽子です。このまま諦めるわけにはいきません。しゃがみこんで息を整えた後、アリーは思い切って扉を引きました。
「いらっしゃい。あら、アリー一人?」
 出迎えてくれたのは、顔なじみのおばさんでした。
「こんにちは。ええと、私、赤い帽子を探していて」
 ふと右のほうを見ると、おばさんが寄りかかっているカウンターに、例の帽子が乗っかっているのが目にとまりました。
「帽子、そう、そこにあるやつ。私のなの」
 アリーが指差した先を見て、おばさんは目をぱちくりさせました。
「あら、こんな帽子、さっきまでなかったのに」
 そう言いながら、おばさんはテーブルから帽子を取りました。
「おや? この帽子、裏に時計が描いてあるのねえ。どうも最近は時計に縁があるみたい。一ヶ月前にも、こんな感じの赤い時計の忘れ物があったし」
「赤い時計?」
 アリーが知るかぎり、持ち運べる時計といえば、懐中時計しかありません。しかし、懐中時計は大抵金色や銀色のものが多く、赤色なんて、まず聞いたことがありません。
「そうなのよ。赤い目覚まし時計。こんなもの持って歩く人がいるものなのねえ。気づいた時にはもう、お客さんはとっくにいなくなっていて」
 そう言っておばさんは、アリーに時計を手渡してくれました。アリーが両手でやっと抱えられるくらいの、何の変哲もない目覚まし時計でした。
「こんなの、誰が置いて行ったの?」
「とても変な人だったわ。今でも思い出せる。顔が土色で、しわくちゃで、でも老けているようには見えなかった。服は汚れてぼろぼろで、大きな麻袋を持っていたの」
 おばさんの説明に、アリーはぴんときました。そんな人に、ついさっき遭遇したばかりでした。
「私、その人を知っているわ。いつか、私に会いに来るとも言っていたの。だから、その時計は私が引き取る。いいでしょう?」
 おばさんは困ったようにアリーと時計を見つめました。
「そうね。いつまでもうちで預かっていたって、もう一度来るかどうかもわからないし、余計なものを置いておくと邪魔だし。もしあの男の方がうちに来たら、あなたの家を教えればいいんだものね」
 思ったよりすんなりと、おばさんは時計を譲ってくれました。
「一ヶ月も取りに来ないほうが悪いのよ。あなたにあげるわ」
 こうして、アリーは赤い時計と赤い帽子を受け取りました。
 帰ってきてからよくよく見てみると、まず、この目覚まし時計の裏側には「ふたつめ」という謎の言葉が刻まれていました。ふたつめということは、「ひとつめ」もあるのでしょうか。それから、この時計の文字盤は、帽子の裏側のそれとそっくりでした。ただ一つ違ったのは、アリーの帽子と違って、十二の下に聞き慣れない言葉が刻まれていたことでした。アリーは声に出して読んでみました。
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