6 プリンセス



 やがて、草原の中に、ポツポツと小さな家が見えてきました。小さな、といっても、人間が住めるような小ささではありません。まるで模型かおもちゃのような、アリーの腰くらいまでしかない、本当に小さな家ばかりが、ずらりとあちこちに建てられているのです。
 一体これはなんなのだろう、とアリーは不思議に思いました。でも、もう、そんなことを訪ねる気力は微塵もありませんでした。
 すると、不意にアリーの身体が、ガクンと動かなくなりました。バートがそれに驚いて手を離したので、アリーはそのまま、顔から地面に倒れこんでしまいました。なんとか起き上がり、振り返ると、背後にはまた、レイがいました。ただ、さっきとは服装が違います。おそらく、さっきまで、アリーたちと一緒にいたレイです。
 レイは、しっかりとアリーの目を見て言いました。
「私の過去を調べてどうするの? あなたはいつもそう。人のことを知りたがって、余計なことばかりするわね。あんな帽子、捨ててしまえばよかった」
 レイは、ゆっくりとこちらに近づいてきます。アリーは恐怖を感じて逃げだそうとしましたが、身体が思うように動きません。足先が地面に貼りついて取れないのです。
「アリー!」
 バートがやってきて、レイに向かって赤い目覚まし時計を投げました。レイはまた、煙となって消えてしまいました。けれども、アリーの足は治りませんでした。バートは大急ぎでアリーの足を調べはじめました。その間にも、アリーの身体は動かなくなっていきました。先程は足先だったのに、足首、膝と来て、今は腰から下の感覚がなくなってしまいました。これほどの恐怖を感じたのは初めてでした。
「ねえ、バート。私も……ハルみたいになるの?」
 努めて冷静に言ったつもりでしたが、その声は酷く震えていました。バートは黙って目覚まし時計を拾い、アリーに手渡しました。そして、アリーの足に触れ、聞いたことのない言語で、何かをつぶやきはじめました。その姿は、まるで魔法使いが魔法の呪文を唱えているようでした。
 実際、それは魔法だったのかもしれません。アリーの足は、ものの数秒で軽くなり、いつも通りに動くようになりました。しかし、その瞬間、バートはアリーの足に触れていたときと同じ姿勢のまま、どさりと地面に伏してしまいました。アリーはびっくりしてバートを揺さぶりました。
「バート? どうしたの?!」
 見ると、バートの顔は、上手く筋肉が動かないのか、こわばっていました。それでも彼は、無理くり笑顔を作って言いました。
「安心しろ、アリーにかかった魔法を俺が引き受けただけだ。だがもう、これ以上先に進むのは無理だろうな」
「引き受けた、ですって? それじゃあ……」
 バートはアリーを庇ってくれたのでしょうか。あのつぶやきは、やはり呪文だったのでしょうか。やはり彼は、魔法使いだったのでしょうか。けれども、もはや、それを問う時間はなさそうでした。バートは苦しげな顔をして、弱々しく腕を伸ばし、こちらに拳を突きだして何かをアリーに手渡そうとしてきました。アリーがバートの掌を開いてみると、そこには小さな鍵がありました。バートが、途切れ途切れに言いました。
「いいか、この鍵と時計を持って、この道をずっと行け。この小さな家たちが途切れた先に、人間が入れる大きさの扉がある。この鍵で開けられるはずだ。森での彼女の気配は薄いから、扉の向こうなら、きっとレイチェルの魔力も及ばないに違いない。新しい幻影が現れる前に、急ぐんだ」
「何を言っているの? 私ひとりで行くの? バートはどうするの? そんな、そんなの……」
 言いながらアリーは、何かが自分の頬をつたいはじめていることに気がつきました。男の子にホウキで叩かれても、お父さんに本気で叱られても、泣いたことなんてなかったのに。泣くことは恥ずかしいことだと思っていたのに。けれども、駄目でした。アリーは必死に言葉を紡ごうとしましたが、すべて嗚咽に変わってしまいました。
 バートは目を細め、優しく言いました。
「大丈夫だ。アリーは、誰よりも強い心を持っているし、行動力もある。いざというとき逃げてばかりの俺なんかより、ずっと頼れる人間だ。だから、どうか今だけは俺の言葉に従ってくれ。このままふたりとも駄目になってしまったら、十五年前の二の舞だ。俺は、アリーの時間をこんなところで終わらせたくないんだよ」
 なんてことを言うのでしょう。まるでこの世の終わりのようです。アリーはもう、座りこんで泣くことしかできませんでした。そんな彼女を見て、バートは弱々しく首を動かして項垂れました。
「すまなかった。俺が自分の目的を優先したばかりに、こんなことに巻きこんでしまって……全ては俺の責任だ。恨んでくれて構わない」
 きっと項垂れたのは、頭を下げて謝罪をしようとしていたのでしょう。そして、こう続けました。
「頑張れよ、アリー。正直、扉の向こう側がどうなっているかは、俺もはっきりとは知らない。だが、屋敷の中に繋がっているのは確実だ。扉を抜けたら、歩きまわらずに、じっと隠れて様子を伺うんだ。それでも万が一、誰かに捕まったら、こう言うんだぞ。『私はアルバート・ペンバートンに導かれて、この場所にたどり着きました』とな」
「え……?」
 突然出てきた聞きなれない名前を、アリーは声を絞りだして復唱しました。
「アルバート……ペンバートン……? まさか、それがあなたの本名なの……?」
 しかしバートは、それには答えてはくれませんでした。彼の顔を覗きこむと、すでにその顔は、固く茶色い皺だらけの物体と化していました。
 アリーはバートの身に何が起こったのかを理解し、ぎゅうっと手に持った鍵を握りしめました。


 もう、誰もいません。


 この先は、ひとりで進むしかないのです。


 アリーは袖で顔を拭き、立ちあがると、一度だけバートの方を振りかえりました。そして、彼に背を向け、全てを振りきるかのように、全力で地面を蹴って走りだしました。
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