6 プリンセス
突然、ドサッという鈍い音が床に響きました。レイが、手帳とメジャーを取り落とした音でした。レイは両手をだらんと下に伸ばしたまま、穴があくほどハルの顔を見つめました。
「あなたが……」
ハルはどうしていいかわからない様子で、無言のまま、困ったようにレイとバートの顔を交互に見ていました。
「ハル……あなたがハルなの……」
レイは、ひどく動揺した様子でした。アリーが森の話をしたとき以上です。レイは何か恐ろしいものでも見たかのように、顔を真っ青にして後ずさりました。その様は、動揺というよりも怯えに近いものがありました。
「いかがです。これでもまだ、シラを切りますか?」
今にも倒れそうなレイを前にしても、バートはいつもの調子でした。さすが、パパをナイフで脅していただけのことはあります。
それにしても、一体なぜ、レイはハルに対してこんな顔をしているのでしょう。アリーにはわけがわかりませんでした。レイとハルは知り合いだったのでしょうか。それにしては、随分とよそよそしいような気もします。
レイは苦虫を噛みつぶしたような顔で、静かに目を閉じました。何か、大きなことへの覚悟を決めたかのような、えも言われぬ恐ろしい表情でした。そして、声を震わせながら、搾り出すように言いました。
「わかりました……認めましょう。あなたが仰っていることは事実です。けれど、それは過去の話にすぎません。部外者のあなたに蒸し返される覚えはありませんわ」
「どうして俺が部外者だと断定できる?」
「私はあなたのことを知りませんから」
「そうかい。じゃ、これでどうだろう。この子に見覚えはないか?」
バートは、どこからか小さな懐中時計を取り出しました。よく見ると、それは昨日ギルが持っていた時計でした。そして、バートが時計の蓋を開けると、不気味なことに、中から女の子の首が出てきました。アリーは思わず悲鳴をあげそうになりましたが、ぐっと堪えました。
その女の子を見た瞬間、レイの顔からは、ますます血の気が引きました。そしてとうとう立っていられなくなったのか、ふらふらと床に崩れ落ちてしまいました。
「フロー……」
もはや呻きにも近い声で、レイは時計の女の子を見上げました。
「どうしてここにいるの?」
女の子はもじゃもじゃの髪をバートの手にわさわさ当てながら、目を閉じて首を捻りました。
「うーん。ええと、あなたはレイなの? 本当に私の知っているレイ?」
「私よ……池で遊んだり、城の中でかくれんぼしたり、時計たちの村に遊びに行ったりしたでしょう。十五年も経ってしまったけれど、私はレイチェルよ。ねえお願い、私のことを覚えていると言って」
「そっか、レイなんだ! 十五年も経つと、こんなに変わっちゃうんだね」
フローと呼ばれた生首少女は、ぱあっと笑いました。レイは少しだけ、安堵の表情を見せました。
「よかった。会えるとは思わなかったわ……今まで、どこにいたの?」
「王国の時間が止まってからは、強制的に眠らされてたの。で、王子様が国王の証を受け継いでからは、この時計の中にいたの」
「どうして私とは会えなかったの?」
「だって、私の力を発動できるのは王様の時計だけだもん」
「お父様の時計なら、私が持っているわ」
「ダメダメ。前の王様は時が止まってしまったでしょ? で、国王の証は王子様に受け継がれたの。だから、今の王様はこのハロルドなの。王子様……ハロルドが持っていたのはこの懐中時計で、国王の証もこっちの時計についてるでしょ?」
フローはそう言うと、きゅっと首を引っ込めてしまいました。バートは懐中時計の文字盤をレイに見せました。アリーの目からは見えませんが、きっと「国王の証」なるものがそこにあるのでしょう。アリーはだんだん、話についていけなくなってきました。今の少女の話が正しければ、ハルはあの森の向こうの国の王子様ということになります。そんなことがあるのでしょうか。だって、ハルはギルのお兄さんなのです。アリーが知る限り、ギルの家に暮らす、普通の少年だったはずなのです。それがどうして、王子様になってしまうのでしょう。おとぎ話よりもめちゃくちゃです。
しばらくすると、少女はまた、懐中時計から首を出しました。
「ね、証があるでしょう。だからあたしは、こっちの時計からしか出てこれなかったの。なのにハロルドったら、私を気味悪がって会おうとしてくれないし……」
「そのことについては謝るよ」
ハルが気まずそうに言うと、フローはすまして答えました。
「ダメよ。もうしばらくは根に持たせてもらうから」
「う……」
「なんてね。冗談よ」
「なんだ、よかった」
バートたち三人は、おかしそうに笑いました。しかし、レイは笑っていませんでした。バートはそんなレイの様子に気づいていないのか、相変わらずの笑顔でこう言いました。
「フローの存在は、代々クロック王国の時を司る国王によって保たれていたんだ。つまり、フローがどうなるかは、ハロルドくん次第なのさ」
レイは床に座って下を向いたまま、しかし、はっきりと言いました。
「私には関係がないということですか?」
その声には、明らかに怒りがこもっていました。バートはようやくレイが怒っていることに気づいたのか、笑うのをやめて真剣な表情になり、屈んでレイの肩に手を置きました。
「ああ。残酷なようだが、その通りだ。怒りたい気持ちもわかる。だが実際、王女が国王の証を受け継いだためしはない。というより、これまであの国に、王女なんていなかったんだ。クロック王国の王女は、後にも先にも君しかいないんだよ、レイチェル。だからこそ、話を……」
「王女?!」
アリーは思わず叫んでしまいました。部屋にいた、レイ以外の三人は、一斉にこちらを振り返りました。
「アリー!」
とうとう、アリーがいることがバレてしまいました。こうなっては仕方がありません。アリーは思いきりドアを開け、レイのもとに駆け寄りました。
「レイ、王女様だったの?凄いわ、王女様なんて外国にしかいないと思っていたのに。こんなに凄いことを、どうして話してくれなかったの?」
けれども、レイは下を向いたままでした。
「レイ?」
「どうして……」
レイは床に座りこんだまま、両手に拳を握っていました。それも、相当な力で握っているらしく、拳は両方とも小刻みに震えていました。
アリーはハッとしました。つい先程、レイに帽子の話をしようとしたとき、レイはとてつもなく怒っていました。理由はわかりませんが、おそらくレイにとって、帽子や森の向こうに関する話は地雷だったに違いありません。パパとのいざこざのせいで、うっかり忘れていました。
「あ、あの、ごめんなさい」
けれども、アリーの声はレイには届いていないようでした。レイは床を凝視したまま、ギリギリ聞き取れるくらいの声でぶつぶつと呟き始めました。
「どうして、どうしてハルばかりなの。どうして、他人ばかりなの。どうして、どうして、どうして。どうして私には何もないの」
「レイ……?」
アリーは背筋が凍りました。なぜこれほどの恐怖を感じるのか、自分でもわかりませんでした。ただ、とてつもなく恐ろしいことが起こっているのだということだけは、かろうじてわかりました。
やがて、アリーの帽子と、バートが持っていた懐中時計、そして部屋の隅に無造作に置かれていたバートのものであろう麻袋から、煙が出はじめました。それもただの煙ではなく、微量の光が伴った、キラキラと輝く金色の煙でした。それらはまっすぐにレイの方へとのびてゆき、あっという間にレイの周りを取り囲んでしまいました。
「まずい!」
バートは懐中時計をハルに押しつけ、ついで麻袋を掴みとりました。そして、いつかの赤い目覚まし時計を取り出し、アリーの手首を握ってハルを呼びました。
「ハロルドくん、こっちだ!」
その間にも、レイの呟く声はどんどん大きくなっていきました。
「そうだわ、フローもお父様も私がいらないのね。所詮は王女だから。本当はいらないから。本当に大切なのはハルだから!」
そこまで言うと、レイは大きく息を吸い込み、そして、これまで聞いたことのない、恐ろしい、断末魔のような声で絶叫しました。
刹那、レイの身体が光り輝きました。グラグラと地面が揺れ、天井からバキバキと何かが崩れる音がしました。ハッと上を見上げると、崩れた屋根や天井が一気に降ってくるのがわかりました。
「うわあああああ!」
「ふたりとも、ここを動くなよ!」
バートは赤い目覚まし時計を天に掲げました。すると、薄い金色のバリアが出て、落ちてきた柱や屋根を弾いてくれました。
コトンと、アリーの目の前に何かが落ちてきました。それは、懐中時計でした。揺れの中でハルが取り落としてしまったのでしょう。衝撃で、中にいた少女も転がり出てきました。時計の中には、ちゃんと身体があったようで、ちゃんと手も足もありました。
しかし、彼女の全身を見ることができたのは、ほんの一瞬でした。彼女の身体はみるみるうちに金色の煙に取り囲まれてしまいました。
「あ……ああ……」
声を出すまでもなく、少女はそのまま、煙と同時に消えてしまいました。
「レイ!」
アリーは凄まじい粉塵の中で、レイの姿を探しました。が、彼女の姿はどこにも見当たりませんでした。