6 プリンセス
翌日、アリーは学校から帰るなり、ジョディおばさんにこう言いました。
「友達と遊ぶ約束をしているから、行ってくるわ」
趣味の水彩画を描いていたジョディおばさんは、目を丸くしてどたばたとやってきたアリーに言いました。
「随分いきなりなのね。遊ぶのはいいけれど、またお母さんたちに会いに行ってはだめよ。この間だって叱られたばかりでしょう。あんまり続くと、私が監督責任を問われてしまうんだから、やめてちょうだいね」
「はーい」
そう素っ気なく返事をしたものの、アリーの心臓はどきどきと早鐘を打っていました。何を隠そう、アリーは今からお母さんのいる店に行く気満々だったからです。
「お待ち、アリー。ちょっとこれをご覧」
そう言ってアリーを呼びとめたのは、おばあさんでした。おばあさんは、持っていた新聞紙をひっくり返してこちらに向けました。
「ほら、デルンガン王国の王女様が、今度うちの国に来るんだってさ。それも、この町を通るらしい。これは大騒ぎになるだろうね」
「へえ、そう」
「面倒なことになるだろうねえ。私はもう、買い物の途中でいかつい兵隊さんに会うのは嫌なんだけどねえ」
おばあさんは、いつもこうです。アリーがどんなに急いでいようと、話したいことを話し終えるまでは、決して解放してくれないのです。
「まったく、ろくなもんじゃないよ。お隣さんなんかは目の色を変えて喜んでいたけれど、よその王女の何がそんなにいいのかねえ」
アリーは鞄を下ろすと、部屋の出口でそわそわと行ったり来たりしました。ジョディおばさんに余計なことを勘づかれる前に、家を出てしまわなければなりません。おばさんは勘がいいので、アリーが何を隠しているかなんて、あっという間に見抜いてしまうのです。
「だいたい、最近の政府ってのはねえ……」
「おばあちゃん、悪いけれど今はそんな話、どうでもいいわ。私、急いでるの」
「おや、そんなに急いで、どこへ行くんだい」
「ちょっとそこまで。行ってきます」
アリーは言うが早いかおばさんの家を飛び出すと、そのまま一目散に逃げました。
そして、あれほど行くなと言われていた店の裏口まで辿り着くと、まずは3センチほどドアを開け、内側に誰もいないことを確認してから、金具が音をたてないように、そうっと中に入りました。これは、アリーが店に潜りこむときの常套手段でした。
店の方からは、お父さんとお母さん、それから販売員の声が聞こえていました。アリーはそれだけ確認すると、抜き足差し足で店の裏側を通り過ぎ、従業員の自室のある建物の東側へと移り、さらにその先、一階の最奥の部屋へと向かいました。この部屋こそが、レイたち服職人見習いが仕事をしている作業部屋でした。
扉の前まで来ると、アリーはまず、扉に耳を押し当てて、中の様子を探りました。中には何人か従業員がいるようで、聞き覚えのある話し声がしています。
「ねえ、知ってる? 隣の国の王女様がこの町を通るって話! 王女様なんて見たことがないから、楽しみだわ。うちの国にも王子様か王女様がいればよかったのに」
この甲高い声は、エミリーでしょう。きっと、アリーのおばあさんと同じ新聞を読んでいたに違いありません。ミーハーな彼女らしい反応です。
「ここはセミラ共和国だ。共和国に王族がいるわけないだろう。ちなみに、王女の移動には汽車を使うそうだから、もしかしたら少しは見られるかもしれないね」
この落ち着いた低音は、ビルです。この人はいつだって穏やかで冷静なので、興奮しがちなエミリーとはウマがあうらしく、よくふたりで話していることが多いのです。
「いいなあ。写真で見たけど、デルンガンの王女様ってすごく綺麗なのよ! 私も王女様に生まれたかったな」
「でも、大変なんじゃない? お行儀とかきちんとしていないといけないし、ずっと笑顔でいないといけないし」
この声の主は、しっかり者のグリニスでしょう。
「ねえレイチェル、あなたも見に行かない?」
エミリーがそう尋ねると、間髪入れずに返事が聞こえました。
「私は結構です」
あの低くて抑揚のない暗い声は、レイに違いありません。やはり彼女はここにいたのです。
「エミリー、レイチェルはそういうのに興味を持たない人なんだよ」
ビルがたしなめると、グリニスが続けて言いました。
「そうよ。外に出かけのは、あんまり好きじゃないそうなの。でも、気が向いたらいつでも声をかけてね、レイチェル」
アリーは被っていた赤帽子を脱ぎ、くるりとひっくり返してみました。相変わらず、この帽子の時刻は正確でした。あと五分もすれば、彼らは休憩に入るはずです。アリーは側の階段に隠れて待つことにしました。この家には階段がふたつあるのです。
しばらく息を殺していると、ゆっくりと部屋の扉が開き、ビルたち三人が談笑しながら出てきました。アリーは彼らが通り過ぎるのを待って、さっと作業部屋に入りました。予想通り、部屋にはレイだけが座っていました。
「レイ!」
アリーが話しかけると、レイはぱっと顔を上げました。
「あなたは……」
そこまで言うと、レイはちょっと口の動きを止めました。口の形からして、うっかり「アレックス」と言いかけたのをやめたようでした。
「アリーね」
「そうよ。私、あなたに会いにきたの」
「そう。最近、よく会うわね」
この言葉にアリーはびっくりしました。確かに、帽子を貰ってからは頻繁に会っているかもしれません。しかし、今回、彼女に会ったのは、およそ二週間ぶりです。二週間というのは「よく」なのでしょうか。毎日同じ友達に会い、週に一度は他の従業員と喋るアリーにとって、レイの発言は信じられないことでした。
「最近でも『よく』でもないわ。久しぶりよ。そんなに普段、誰とも合わないの?」
「お店の人にしか会わないわ」
「どうして? そんなの寂しいじゃない」
「私は寂しくないもの」
レイは持っていた本に目を落としました。休憩時間になると、彼女はいつも読書をするのです。本の方を見たまま、レイは静かに言いました。
「今日は日曜日じゃないでしょう。ご両親の許可はとったの?」
「ううん、勝手に来たの。私、あなたに会いに来たのよ。だって、この帽子すごく不思議なんだもの。ねえ、本当に何も知らないの?」
「何の話かしら」
「私、森へ行ったの」
アリーがそう切りだすと、レイは本のページをめくる手を止めました。
「この帽子、森の中で光って、私たちを案内してくれたの。それに従って行ったら、時計塔のある草原に出たの」
「何ですって?」
レイは本から顔を上げました。明らかに動揺しています。やはり、何かを隠しているようです。アリーはすぐに畳みかけました。
「その場所の時間は止まっているのだと教えて貰ったわ。一体、この帽子は何なのかしら? これに出会ってから、不思議なことばかりだわ。私、気になってずっと調べているのよ。ねえレイ、もしかして、何か隠していたりしない?」
レイはきゅっと唇を噛みしめました。質問には答えてくれません。アリーはさらに、尋ねました。
「それに、この帽子の持ち主はアレクサンドラさんっていうんでしょう。なのにどうして……」
するとレイが勢いよく立ち上がりました。膝に置かれていた本は椅子から転がり落ち、大きな音を立てて床に叩きつけられました。
「帰って」
「え?」
「今すぐにここから出ていきなさい。あなたとは話したくない」
いつの間にか、レイは恐ろしい表情でこちらを睨みつけていました。声色こそいつも通りでしたが、その目は血走っていました。両手で握られた拳は震えています。彼女がこれほどに怒りを表しているのを見るのは初めてでした。
そのとき、背後の扉が軽くノックされたかと思うと、勢いよく開きました。
「レイ、来てくれ。さっき言っていたお客さんが来た」
そこにいたのはパパでした。パパは、部屋にいたアリーに気がつくと、みるみるうちに鬼の形相になりました。
「何をやっているんだ、あれほど昨日言い聞かせただろう! 仕事の邪魔をするんじゃない。こうなったら、当分の間は外出禁止だ。すぐにおばさんの家に帰れ!」
「違うの、私はただ、レイに訊きたいことがあるだけなの!」
アリーは弁解しようとしましたが、問答無用で首根っこを掴まれ、部屋の外に引きずりだされました。いつもなら大人しく帰るところですが、今日はそうはいきません。何としても、この帽子のことを聞き出す必要があるのです。
「離して!」
じたばたと抵抗していると、突然、妙に聞きなれた声がしました。
「アリー、ここにいたのか!」
「え?」
「おや、うちの子をご存知なんですか?」
パパはその言葉に驚いたのか、アリーを拘束していた手を離してしまいました。アリーはやっとのことでパパの腕から抜けだすと、声の主の顔を見て仰天しました。
「バート! どうして、あなたがここに?」
それから、バートの隣にいる人にも気がつきました。
「もしかして、ハル?」
「そうだよアレックス、久しぶり。ああ、今はアリーと呼ばなきゃいけないんだったね。ギルに聞いたよ」
そこにいたのは、以前会ったときよりも幾分背の高くなった、ギルのお兄さんのハルでした。
「友達と遊ぶ約束をしているから、行ってくるわ」
趣味の水彩画を描いていたジョディおばさんは、目を丸くしてどたばたとやってきたアリーに言いました。
「随分いきなりなのね。遊ぶのはいいけれど、またお母さんたちに会いに行ってはだめよ。この間だって叱られたばかりでしょう。あんまり続くと、私が監督責任を問われてしまうんだから、やめてちょうだいね」
「はーい」
そう素っ気なく返事をしたものの、アリーの心臓はどきどきと早鐘を打っていました。何を隠そう、アリーは今からお母さんのいる店に行く気満々だったからです。
「お待ち、アリー。ちょっとこれをご覧」
そう言ってアリーを呼びとめたのは、おばあさんでした。おばあさんは、持っていた新聞紙をひっくり返してこちらに向けました。
「ほら、デルンガン王国の王女様が、今度うちの国に来るんだってさ。それも、この町を通るらしい。これは大騒ぎになるだろうね」
「へえ、そう」
「面倒なことになるだろうねえ。私はもう、買い物の途中でいかつい兵隊さんに会うのは嫌なんだけどねえ」
おばあさんは、いつもこうです。アリーがどんなに急いでいようと、話したいことを話し終えるまでは、決して解放してくれないのです。
「まったく、ろくなもんじゃないよ。お隣さんなんかは目の色を変えて喜んでいたけれど、よその王女の何がそんなにいいのかねえ」
アリーは鞄を下ろすと、部屋の出口でそわそわと行ったり来たりしました。ジョディおばさんに余計なことを勘づかれる前に、家を出てしまわなければなりません。おばさんは勘がいいので、アリーが何を隠しているかなんて、あっという間に見抜いてしまうのです。
「だいたい、最近の政府ってのはねえ……」
「おばあちゃん、悪いけれど今はそんな話、どうでもいいわ。私、急いでるの」
「おや、そんなに急いで、どこへ行くんだい」
「ちょっとそこまで。行ってきます」
アリーは言うが早いかおばさんの家を飛び出すと、そのまま一目散に逃げました。
そして、あれほど行くなと言われていた店の裏口まで辿り着くと、まずは3センチほどドアを開け、内側に誰もいないことを確認してから、金具が音をたてないように、そうっと中に入りました。これは、アリーが店に潜りこむときの常套手段でした。
店の方からは、お父さんとお母さん、それから販売員の声が聞こえていました。アリーはそれだけ確認すると、抜き足差し足で店の裏側を通り過ぎ、従業員の自室のある建物の東側へと移り、さらにその先、一階の最奥の部屋へと向かいました。この部屋こそが、レイたち服職人見習いが仕事をしている作業部屋でした。
扉の前まで来ると、アリーはまず、扉に耳を押し当てて、中の様子を探りました。中には何人か従業員がいるようで、聞き覚えのある話し声がしています。
「ねえ、知ってる? 隣の国の王女様がこの町を通るって話! 王女様なんて見たことがないから、楽しみだわ。うちの国にも王子様か王女様がいればよかったのに」
この甲高い声は、エミリーでしょう。きっと、アリーのおばあさんと同じ新聞を読んでいたに違いありません。ミーハーな彼女らしい反応です。
「ここはセミラ共和国だ。共和国に王族がいるわけないだろう。ちなみに、王女の移動には汽車を使うそうだから、もしかしたら少しは見られるかもしれないね」
この落ち着いた低音は、ビルです。この人はいつだって穏やかで冷静なので、興奮しがちなエミリーとはウマがあうらしく、よくふたりで話していることが多いのです。
「いいなあ。写真で見たけど、デルンガンの王女様ってすごく綺麗なのよ! 私も王女様に生まれたかったな」
「でも、大変なんじゃない? お行儀とかきちんとしていないといけないし、ずっと笑顔でいないといけないし」
この声の主は、しっかり者のグリニスでしょう。
「ねえレイチェル、あなたも見に行かない?」
エミリーがそう尋ねると、間髪入れずに返事が聞こえました。
「私は結構です」
あの低くて抑揚のない暗い声は、レイに違いありません。やはり彼女はここにいたのです。
「エミリー、レイチェルはそういうのに興味を持たない人なんだよ」
ビルがたしなめると、グリニスが続けて言いました。
「そうよ。外に出かけのは、あんまり好きじゃないそうなの。でも、気が向いたらいつでも声をかけてね、レイチェル」
アリーは被っていた赤帽子を脱ぎ、くるりとひっくり返してみました。相変わらず、この帽子の時刻は正確でした。あと五分もすれば、彼らは休憩に入るはずです。アリーは側の階段に隠れて待つことにしました。この家には階段がふたつあるのです。
しばらく息を殺していると、ゆっくりと部屋の扉が開き、ビルたち三人が談笑しながら出てきました。アリーは彼らが通り過ぎるのを待って、さっと作業部屋に入りました。予想通り、部屋にはレイだけが座っていました。
「レイ!」
アリーが話しかけると、レイはぱっと顔を上げました。
「あなたは……」
そこまで言うと、レイはちょっと口の動きを止めました。口の形からして、うっかり「アレックス」と言いかけたのをやめたようでした。
「アリーね」
「そうよ。私、あなたに会いにきたの」
「そう。最近、よく会うわね」
この言葉にアリーはびっくりしました。確かに、帽子を貰ってからは頻繁に会っているかもしれません。しかし、今回、彼女に会ったのは、およそ二週間ぶりです。二週間というのは「よく」なのでしょうか。毎日同じ友達に会い、週に一度は他の従業員と喋るアリーにとって、レイの発言は信じられないことでした。
「最近でも『よく』でもないわ。久しぶりよ。そんなに普段、誰とも合わないの?」
「お店の人にしか会わないわ」
「どうして? そんなの寂しいじゃない」
「私は寂しくないもの」
レイは持っていた本に目を落としました。休憩時間になると、彼女はいつも読書をするのです。本の方を見たまま、レイは静かに言いました。
「今日は日曜日じゃないでしょう。ご両親の許可はとったの?」
「ううん、勝手に来たの。私、あなたに会いに来たのよ。だって、この帽子すごく不思議なんだもの。ねえ、本当に何も知らないの?」
「何の話かしら」
「私、森へ行ったの」
アリーがそう切りだすと、レイは本のページをめくる手を止めました。
「この帽子、森の中で光って、私たちを案内してくれたの。それに従って行ったら、時計塔のある草原に出たの」
「何ですって?」
レイは本から顔を上げました。明らかに動揺しています。やはり、何かを隠しているようです。アリーはすぐに畳みかけました。
「その場所の時間は止まっているのだと教えて貰ったわ。一体、この帽子は何なのかしら? これに出会ってから、不思議なことばかりだわ。私、気になってずっと調べているのよ。ねえレイ、もしかして、何か隠していたりしない?」
レイはきゅっと唇を噛みしめました。質問には答えてくれません。アリーはさらに、尋ねました。
「それに、この帽子の持ち主はアレクサンドラさんっていうんでしょう。なのにどうして……」
するとレイが勢いよく立ち上がりました。膝に置かれていた本は椅子から転がり落ち、大きな音を立てて床に叩きつけられました。
「帰って」
「え?」
「今すぐにここから出ていきなさい。あなたとは話したくない」
いつの間にか、レイは恐ろしい表情でこちらを睨みつけていました。声色こそいつも通りでしたが、その目は血走っていました。両手で握られた拳は震えています。彼女がこれほどに怒りを表しているのを見るのは初めてでした。
そのとき、背後の扉が軽くノックされたかと思うと、勢いよく開きました。
「レイ、来てくれ。さっき言っていたお客さんが来た」
そこにいたのはパパでした。パパは、部屋にいたアリーに気がつくと、みるみるうちに鬼の形相になりました。
「何をやっているんだ、あれほど昨日言い聞かせただろう! 仕事の邪魔をするんじゃない。こうなったら、当分の間は外出禁止だ。すぐにおばさんの家に帰れ!」
「違うの、私はただ、レイに訊きたいことがあるだけなの!」
アリーは弁解しようとしましたが、問答無用で首根っこを掴まれ、部屋の外に引きずりだされました。いつもなら大人しく帰るところですが、今日はそうはいきません。何としても、この帽子のことを聞き出す必要があるのです。
「離して!」
じたばたと抵抗していると、突然、妙に聞きなれた声がしました。
「アリー、ここにいたのか!」
「え?」
「おや、うちの子をご存知なんですか?」
パパはその言葉に驚いたのか、アリーを拘束していた手を離してしまいました。アリーはやっとのことでパパの腕から抜けだすと、声の主の顔を見て仰天しました。
「バート! どうして、あなたがここに?」
それから、バートの隣にいる人にも気がつきました。
「もしかして、ハル?」
「そうだよアレックス、久しぶり。ああ、今はアリーと呼ばなきゃいけないんだったね。ギルに聞いたよ」
そこにいたのは、以前会ったときよりも幾分背の高くなった、ギルのお兄さんのハルでした。