5 兄の真実

 駅の外では、帰りを急ぐ人々に混じって顔を赤くした男性がちらほらと歩いていました。仕事終わりに飲みに行った帰りでしょう。普段、こんなに遅くなるまで外出することのないギルは、その珍しい光景にしばらく目を奪われていました。
「兄さん、今からどこに行くの?」
「森さ」
 ハルはぽつりと答えました。ギルは仰天しました。
「こんな夜に行くの?冗談じゃないよ」
「夜なら人がいなくて好都合じゃないか。帰る場所もないし、久しぶりに行ってみようと思ってね」
「何を言ってるんだよ。やっぱり今日の兄さん、なんだかおかしいよ」
「そうかな。逆かもしれないよ。おかしいのは昨日までの僕だったんじゃないかな。きっとそう。僕は、ずっと自分自身に嘘をついていたのかもしれない」
 相変わらず、ハルの瞳は虚空を見つめていました。本当に、ついさっきまでとは別人のようです。ギルは逃げだしたくなりました。しかし、こんな状態のハルを置いていくわけにもいきません。
「よう、坊ちゃんじゃないか! こんな所でどうしたんだ」
 背後から飛んできた聞き覚えのある声に、ギルはばっと振りかえ理ました。
 そこにはバートがいました。着ている服も、不潔な髪の毛の具合も、脂ぎった顔も、何もかも昼間と同じでした。
「バート!」
 藁にもすがる思いで、ギルはバートに手を振りました。ハルが怪訝な顔をしました。
「よしな、ギル。浮浪者なんかに手を振るんじゃないよ」
「兄さん、違うよ。この人は俺の知り合いなんだ」
「こいつは意外だな。あれだけ俺のことを嫌っていたくせに。いつの間に知り合いに昇格してくれたんだい」
 バートは面白そうな顔をして、こちらに近寄ってきました。
「どうも、こんばんは。いやあ、まさか晩飯の帰りに君と再会するとは思わなかったよ。こっちの青年は君の友達かい」
「兄さんだよ。ハルっていうんだ」
 すると、ハルが低い声で言いました。
「いいえ、僕は兄ではありません。従兄弟いとこです」
 あまりにも唐突な発言だったために、はじめのうち、ギルはハルの言っていることが理解できませんでした。
「え? な、何を言ってるんだよ、兄さん」
「僕は彼の母方の従兄弟です。僕の実家は、人喰い森の向こうにあります」
 ハルはまばたきひとつせずに、淡々とそう告げました。ギルは慌てて取りつくろいました。
「違う、違うんだよバート。兄さんは俺の実の兄さんなんだ」
「ギル、僕たちは騙されていたんだ。僕たち、兄弟じゃなかったんだよ。僕はサンディおばさんの息子で、父親は森の奥で眠っているらしいんだ」
 バートは目を丸くしてふたりの顔を代わる代わる見ていましたが、険悪な雰囲気を感じとったのか、大袈裟な仕草で頭に手をやると、大笑いをしてみせました。
「ははは! こりゃ、とんでもない現場に居合わせちまったようだな、面白い。その話、この俺にも聞かせてくれ。どうせ、俺は森の側で野宿する予定だしな。時間ならたっぷりとある」
「お断りします。僕、あなたみたいな不潔な人は嫌いなんです」
 ハルは冷たく突き放しました。ところが、バートはひるむどころか、さらに大口を開けて笑ってみせました。
「まあまあ、そう言うなよ。俺は昼間、そこにいるギルくんを助けてやったんだ。大変だったんだぞ? せっかくだから、ここでその借りを返してもらおうじゃないか」
「そう、そうなんだよ。バートはすごく親切な人なんだ。信頼できるよ。だから一緒にいてもいいだろ?」
 ギルはとにかく、ハルとふたりきりになるのだけは嫌でした。バートのことは信用できませんでしたが、悪人でないことだけは知っています。バートがいれば、ハルの態度も和らぐかもしれません。ギルはいつになく必死でした。
「ねえ、兄さん。お願いだよ」
 ハルはしばらく渋い顔をしていましたが、やがて大きくため息をつくと、いいよ、と小さく言いました。
「別にどうでもいいや。誰がついてきたって、気にしないよ」


 三人は、森へと続く寂しい小道を連れだって歩きました。ただでさえ人気のない道です。街灯などあるはずもなく、バートが持っているランタンの灯りだけが頼りでした。
 ギルは黙ってバートの陰に隠れるようにして歩きました。数分歩き続けて完全に周囲から人の気配が消えた頃、おもむろにバートが口を開きました。
「ところで、ええと、君はハロルドくんだったな。どうしてまた、人喰い森なんかに行くんだ? 俺はともかく、君みたいな若者が夜にこんな場所に来ちゃ、危ないじゃないか」
「帰ろうと思うんです」
 ハルはぽつりと呟きました。
「育ての両親を罵倒してしまって、帰るところがなくなったんです。だから、森へ行くんです。森の向こうには僕の実家があるらしいので」
「なるほどな。実家というのは」
 バートはそこで一呼吸おくと、疑わしげに尋ねました。
「クロック王国のことかい」
「僕、戸籍上はハロルド・ワイズという名前なんです。でも、聞くところによると、本当の名前はハロルド・シーザー・アワーズというそうなんです。ついでにクロノス・オブ・クロックという称号が付くんだとか」
 すると、それまで陽気に喋っていたバートが、ぴたりと足を止めました。急に止まったので、ギルは危うくバートの臀部にぶつかりそうになりました。
「アワーズ……? クロノスだと!? それは本当かい。どこで誰に聞いたんだ。今までいったいどうやって暮らしていたんだ。その名前は誰に教えられたんだ!?」
「母親のことは、母が危篤状態になったとき、叔母から教えられました。母は長年精神病で、自分の息子のことがわからなくなっていました。結局、死ぬまで僕が息子であるとは知らないままでした。その後、実の姉を名乗る人物から手紙が届きました。本名や実家のことは、そこで初めて知りました」
「姉……その話が本当なら、王女も存在するということか」
 バートは、これまで見たことがないくらい気難しい顔をして考えこんでしまいました。ギルは思わず叫びました。
「なんだよそれ。俺、そんな話、今初めて知ったよ!」
「今まで黙っていたからね。ギルに隠そうと提案したのは、『君の』母さんだ。僕はただ、それに従っていただけさ。覚えているかい、ギル。君の伯母アレクサンドラ・ブラウンは、何度注意しても、君のことを『ハル』と呼んでいたね」
「う、うん」
 そう、サンディおばさんこと、アレクサンドラは昔からおかしな人で、決まってギルのことを「ハル」と呼んで可愛がり、本物のハルにはまるで興味のないそぶりを見せていました。ギルもハルも、再三注意したのですが、結局おばさんは死ぬまでギルのことを「ハル」と呼んでいたのでした。
 ハルは憎々しげに言い放ちました。
「おばさんは僕が一歳のとき、原因不明の高熱を出して、それから精神的にもおかしくなってしまった。その後しばらく入院していて、退院して帰ってきたとき、既に僕は五歳だった。そして、家には生まれたばかりのギルもいた。『赤ん坊のハル』しか知らないアレクサンドラは、そこにいた赤ん坊こそが息子のハルだと勘違いした。で、そのまま自分の息子である『ハル』を可愛がり続けていたというわけさ」
「そんな。それじゃあ……」
「真実を知って、すべて合点がいった。アレクサンドラは僕と勘違いしてギルを可愛がっていた。そして、君の父さんであるアーロンは、自分の実子であるギルにしか興味がなかった。君の父さんが僕に冷たいのは、気のせいじゃなかったんだ。ろくに働くこともできない穀潰しの義姉の息子なんかを養っていただけでも立派だよ。何も知らない僕が愚かだったんだ」
「父さんは、兄さんに冷たくなんかしていないよ。俺なんかより兄さんの方がいい子だって、いつも言っていたよ」
「いい子じゃない僕には興味がないってことさ。父さんが可愛がっていたのは、僕の成績と外面のよさだけだ。僕そのものが大切なんじゃない。父さんは、よくも悪くも正直な人だ。口に出さなくたって、態度に出る。ギルにはわからなくても、僕にはわかる!」
 ギルはもう、何も言えませんでした。
 いつも穏やかで、年不相応に落ちついていて、大人に褒められるハルはいつだって羨望の的でした。ギルはいつもハルを羨ましく思っていました。いつもギルは叱られているのに、ハルはいつだって褒められてばかりでしたから、ハルほど幸福な人はいないと思っていました。
 しかし、目の前にいる彼は、表情にこそ出さないものの、全身から憎しみを放っていました。それはあまりにも凄まじく、ギルひとりがどうにかできるような代物ではないということが、今のギルには嫌というほどわかりました。
「今の話で、大体のことはわかったよ」
 バートが、静かに言いました。
「森へ行こう。そこに、君の目的があるんだろう」
「ええ、そうですね。急ぎましょう」
 冷たく透き通った声で、ハルが答えました。
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