1 王女の亡命

 家を出てすぐの道は狭く、人通りもまばらでした。道はなにか硬いもので舗装されていて、レイは何度も足をとられかけました。この硬い地面はコンクリートでできていましたが、このときのレイは、これを石だと思い込んでいました。
 角をいくつか曲がると、大通りに出ました。角の丸い奇妙な物体が、凄まじい唸り声をあげてレイのすぐ横をすっ飛んで行きました。
「ここは車の通る道だ。気をつけろ」
 そこで、レイは車道側から離れて、建物が並んでいる側を歩くことにしました。何もかもが珍しくて、レイはアーノルドへの恐怖も忘れて街の景色や店のショーウィンドウに夢中になりました。時折、かわいらしい洋服や玩具を見つけては足を止めようとしましたが、アーノルドは止まってくれないので、引きずられるようにして連れて行かれました。
 一方のアーノルドはレイには目もくれずに、レイの手を強く握ったまま延々と一人で喋り続けていました。どうやらレイが止まろうとしていることどころか、引きずっていることにも気づいていないようです。
「アザミの花言葉を知っているか? 独立、厳格、報復に、それから『触るな』なんてのもある。まるで昔の王族のようだな。どういうつもりで付けられた名前か知らないが、もしこの通りの人間になっちまったら、居場所を失うだろうな」
 レイはまるで聞いていませんでしたが、アーノルドはそれにすら気づいていない様子で、前を向いたままお喋りを続けました。
「……というわけで、人は一人では生きていけないのさ。だから、人間というのは皆、お互いを尊重せにゃならん。ところが、あのイザドラといいステイシーといい、いつも自分が喋ることで頭がいっぱいだ。俺はいつも言いくるめられちまう。だから……ああ、ここだ」
 手首をくいと引かれて、レイは慌てて立ち止まりました。
 随分と年季の入った小屋でした。白く濁ったガラス戸をアーノルドが押すと、薄暗い店内がよく見えました。店に入って右手の、棚に並んだ錆びたかごには、これでもかというほどの袋菓子、チューインガム・キャンディなどが押し込まれ、手書きの値札が下げられていました。反対側には厚いガラス張りの冷蔵庫が設置されており、中には色とりどりの瓶が並んでいました。奥の壁は壁紙が色あせて、あちこち剥がれていました。それを隠すかのように、これまた色あせたペナント、おかしなメッセージを記した看板、ポーズを決めた誰かの写真などが、所狭しと貼られていました。汚いながらも興味深い光景にレイが気をとられている間に、アーノルドは商品に埋もれるようにしてカウンターに座っている店の主人に声をかけました。
「ベンソン、いつもの」
「ワトソン。あんたは毎回いつもの、いつものって言うけどさ、たまには他の言葉をよこしてくれてもいいんじゃねえかい?」
「へん、馬鹿らしい。『いつもの』で通じるのに、それ以上の言葉を使う必要があると思うか? そういうのは無駄と言うんだ」
「またそうやって、屁理屈を言う。そういう所がよくないと言うんだ」
 店の主人はぶつぶついいながら、カウンターの奥へと引っ込んでいきました。
 レイはというと、不気味なほど鮮やかな紫色をした包みをしげしげと観察していました。中身が何なのかがわからなかったのです。人差し指指二本分ほどの大きさのそれは、レイの目に魅力的に映りました。
「欲しいか?」
 気づくと、アーノルドが真横にいました。レイは、しばらく迷ってから、頷きました。アーノルドはレイの手から包みを取り上げて、戻ってきた店の主人に見せました。
「こいつも勘定してくれ」
 主人は眼鏡を掛け直して包みを見、次にレイを見て、首をかしげました。
「その子は何だい? あんたとこの娘は、全員もうとっくに年頃のはずだが」
「訳あって一人増えたのさ。で、例のはどうした」
「ここだよ。あんたのご贔屓の銘柄。買うのはあんたくらいのもんだ。二箱入れとくよ」
「そんなにいらん」
「在庫が余ってるんだ。買わないなら、次から仕入れるのをやめるぞ。他に買うやつはいないんだから」
 アーノルドは舌打ちをして紙袋を受け取り、レイによこしました。会計がすんでから、二人は外に出ました。
 紫の包みの中身は、チューインガムでした。とても食べ物だとは思えないほど鮮やかな色でしたが、とてもいい香りがしたので、口に入れてみました。これまで味わったことのない強烈な甘さに、レイは目を輝かせました。そんな彼女を見て、アーノルドは尋ねました。
「ガムを食ったことはあるか?」
「ううん。とても素敵な味ね、これ!」
 興奮気味に答えると、アーノルドはふっと笑いました。
「なら、教えといてやる。ガムは噛んだら吐き出すものだ。間違っても飲むんじゃねえぞ」
「どうして?」
「ガムだからさ」
「それじゃ、わからないわ」
 レイは、すっかりアーノルドに対する警戒を解いていました。二人は仲良くお喋りしながら家まで帰ってきたのです。
「ただいま!」
「あっ! 姫様、どこにいらしたのですか……まあ!」
 そんな二人を見て驚いたのはイザドラでした。
「急に姿が見えなくなったと思ったら、こんなのに連れまわされて! 可哀想に、怖かったでしょう」
 レイは口をもぐもぐさせながら、包み紙を差し出して答えました。
「いいえ、とても楽しかったわ、イザドラ。それに見て! これ、ガムっていうんですって。すごく美味しいのよ」
「まあまあ! こんなもの食べてはいけませんよ。汚らしい」
「美味しいのよ」
「だめです。それとあんた! 何を勝手なことをやってんだい。まったく、きちんと説明してもらうよ!」
 残念ながら、ガムはその場で吐き出さなければなりませんでした。アーノルドはイザドラに連れて行かれ、レイは、元のダイニングルームに戻されました。そこには頬杖をついたステイシーがいました。
「どこいってたの? あんまり勝手なことしないでよね。でないと、ママの血管が切れちゃうから」
 彼女のつっけんどんな口調から察するに、レイはそうとうイザドラを心配させていたようでした。心配させていたというよりも、怒らせてしまったのかもしれません。
「で、どうだったの」
「えっ?」
「パパとタバコ屋にでも行ってたんでしょ?」
 ステイシーは全てお見通しのようでした。レイは、家を出てから帰ってくるまでの話を、たどたどしく伝えました。ステイシーは、面白そうにその話を聞いていました。
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