1 王女の亡命
これは、わずか十五年前、レイが五歳だった頃のお話です。
あるところに、「クロック」という国がありました。
そこには、大勢の時計が暮らしていました。時計といっても、針を動かすだけの置き時計ではなく、手も足も顔もありました。
ここに住んでいるのは、生きている時計ばかりでした。でも、ほんのちょっぴり、人間も暮らしていました。
この国には、時計の生活にあわせた沢山の小さな家が建ち並んでいるのですが、そこからちょっと離れた場所に、ずばぬけて背の高い、白い時計塔がそびえ立っていました。
塔の主はナサニエルという人でした。彼は人間です。この国では王様と呼ばれていました。
その王様の傍らには、アレクサンドラという、もちろん人間の、美しい王妃様がいつもいました。王様は彼女を「サンディ」と呼び、とても愛していました。時計たちも皆、彼女を慕っていました。しかし、彼女がどこからやってきたのか、時計たちはもちろん、王様も知りませんでした。ただ、国のはずれにある深い森の先に彼女の故郷がある、ということだけは、皆理解していました。
これが、レイの実のお父さんとお母さんでした。つまるところ、レイはこの国の王女だったのです。でも、幼いレイには、その意味がよくわかりませんでした。
レイの名前はレイチェルといいましたが、両親は彼女を「レイ」と呼んでいました。また、レイには、生まれたばかりのハロルドという弟王子がいました。この王子は「ハル」と呼ばれていました。
彼らは確かに王族ではありましたが、何も特別なことはなく、お互いに、仲のよい家族として接していました。何も堅苦しいことはなく、どこにでもいる普通の家族でしかなかったのです。そもそもレイは、他の国がどこにあるのか、他の国がどうしているかなんて知らなかったし、誰も考えたことがありませんでした。
というのも、クロックの周りには他に「国」というものがなかったのです。しかも、クロックにはレイたちを除いて、たった三人しか「人間」がいませんでした。
一人は、イザドラという女中のおばあさんでした。ふっくらしたしわくちゃの顔を歪めながら、毎日、掃除や洗濯をし、レイにマナーの特訓や勉強を教え、ハルの世話をしていました。
もともと口うるさい人でしたが、面倒見はよく、レイは彼女を慕っていました。ときどき、彼女の目を盗んで、サンディがそれらの雑用をすることがありましたが、その度に、イザドラは目をむいて怒りました。
「私は、先王がご存命のころからここに仕えてきましたけれどね、王妃様が食事の支度をするだなんて、聞いたこともありませんよ。 もう少し、立場をわきまえてはいかがです!」
サンディはその都度謝るのですが、反省した様子はまったくなく、また翌日に同じことを繰り返しました。
二人目は、フローという女の子でした。少なくとも、レイにとっては、彼女も「人間」でした。彼女は活発で明るく、口が達者な子で、おとなしいレイを何かと気にかけてくれる、一番の友たちでした。
フローは毎日、朝早くに王様のところへやってきて、お昼をすぎてからレイと遊び、夕方になると必ずどこかへ行くのでした。
彼女の行き先が気になったレイは、一度、フローに、毎晩どこにいるのかを尋ねてみました。返事はこうでした。
「川だよ。私、川にすんでんの。川って、いつでも水が流れているでしょ? だから、川にいると落ち着くんだよね」
あまりにも大雑把でおかしな説明でしたが、当時のレイは、それ以上フローに質問をすることができませんでした。それくらい気が小さかったのです。
それでも、あんまり不思議なので、レイはそのことをイザドラに伝えて説明を求めました。すると、こんな答えが返ってきました。
「そりゃ、あの子は『時の妖精』ですからね。姫様とはものの考え方が違うんです。気にしなくてよろしい」
「妖精」ということは、人間ではないということでしょうか。それとも、イザドラの皮肉でしょうか。もやもやした疑問が残りましたが、とりあえず、レイは納得し、考えるのをやめました。詳しく聞いたところで、理解できないだろうと思ったからです。
最後の一人は、アールというおじいさんです。この人はお城の使用人の部屋に住んでいました。ごくたまに、王様のもとへ訪れますが、それ以外は部屋にこもりきりです。レイと顔を合わせたときも、俯いたまま、会釈しただけでした。イザドラによると、アールもまた、森の向こうからやってきた人間で、本人曰く、「世間が嫌になった」そうです。「世間」がいったいなんなのか、このときのレイには知るよしもありませんでした。
これが、時の国に住む人々のすべてでした。他にいるのは、柱時計に懐中時計、めざまし時計に壁掛け時計と、時計ばかりでした。といっても、これは単なる時計ではなく、言葉を話して歩き回る、「生きた時計」でしたから、レイは、時計というのは生きているものなのだと考えていました。
レイも王様も、他の人たちも、よその国のことなんて、なんにも知らなかったのです。
あるところに、「クロック」という国がありました。
そこには、大勢の時計が暮らしていました。時計といっても、針を動かすだけの置き時計ではなく、手も足も顔もありました。
ここに住んでいるのは、生きている時計ばかりでした。でも、ほんのちょっぴり、人間も暮らしていました。
この国には、時計の生活にあわせた沢山の小さな家が建ち並んでいるのですが、そこからちょっと離れた場所に、ずばぬけて背の高い、白い時計塔がそびえ立っていました。
塔の主はナサニエルという人でした。彼は人間です。この国では王様と呼ばれていました。
その王様の傍らには、アレクサンドラという、もちろん人間の、美しい王妃様がいつもいました。王様は彼女を「サンディ」と呼び、とても愛していました。時計たちも皆、彼女を慕っていました。しかし、彼女がどこからやってきたのか、時計たちはもちろん、王様も知りませんでした。ただ、国のはずれにある深い森の先に彼女の故郷がある、ということだけは、皆理解していました。
これが、レイの実のお父さんとお母さんでした。つまるところ、レイはこの国の王女だったのです。でも、幼いレイには、その意味がよくわかりませんでした。
レイの名前はレイチェルといいましたが、両親は彼女を「レイ」と呼んでいました。また、レイには、生まれたばかりのハロルドという弟王子がいました。この王子は「ハル」と呼ばれていました。
彼らは確かに王族ではありましたが、何も特別なことはなく、お互いに、仲のよい家族として接していました。何も堅苦しいことはなく、どこにでもいる普通の家族でしかなかったのです。そもそもレイは、他の国がどこにあるのか、他の国がどうしているかなんて知らなかったし、誰も考えたことがありませんでした。
というのも、クロックの周りには他に「国」というものがなかったのです。しかも、クロックにはレイたちを除いて、たった三人しか「人間」がいませんでした。
一人は、イザドラという女中のおばあさんでした。ふっくらしたしわくちゃの顔を歪めながら、毎日、掃除や洗濯をし、レイにマナーの特訓や勉強を教え、ハルの世話をしていました。
もともと口うるさい人でしたが、面倒見はよく、レイは彼女を慕っていました。ときどき、彼女の目を盗んで、サンディがそれらの雑用をすることがありましたが、その度に、イザドラは目をむいて怒りました。
「私は、先王がご存命のころからここに仕えてきましたけれどね、王妃様が食事の支度をするだなんて、聞いたこともありませんよ。 もう少し、立場をわきまえてはいかがです!」
サンディはその都度謝るのですが、反省した様子はまったくなく、また翌日に同じことを繰り返しました。
二人目は、フローという女の子でした。少なくとも、レイにとっては、彼女も「人間」でした。彼女は活発で明るく、口が達者な子で、おとなしいレイを何かと気にかけてくれる、一番の友たちでした。
フローは毎日、朝早くに王様のところへやってきて、お昼をすぎてからレイと遊び、夕方になると必ずどこかへ行くのでした。
彼女の行き先が気になったレイは、一度、フローに、毎晩どこにいるのかを尋ねてみました。返事はこうでした。
「川だよ。私、川にすんでんの。川って、いつでも水が流れているでしょ? だから、川にいると落ち着くんだよね」
あまりにも大雑把でおかしな説明でしたが、当時のレイは、それ以上フローに質問をすることができませんでした。それくらい気が小さかったのです。
それでも、あんまり不思議なので、レイはそのことをイザドラに伝えて説明を求めました。すると、こんな答えが返ってきました。
「そりゃ、あの子は『時の妖精』ですからね。姫様とはものの考え方が違うんです。気にしなくてよろしい」
「妖精」ということは、人間ではないということでしょうか。それとも、イザドラの皮肉でしょうか。もやもやした疑問が残りましたが、とりあえず、レイは納得し、考えるのをやめました。詳しく聞いたところで、理解できないだろうと思ったからです。
最後の一人は、アールというおじいさんです。この人はお城の使用人の部屋に住んでいました。ごくたまに、王様のもとへ訪れますが、それ以外は部屋にこもりきりです。レイと顔を合わせたときも、俯いたまま、会釈しただけでした。イザドラによると、アールもまた、森の向こうからやってきた人間で、本人曰く、「世間が嫌になった」そうです。「世間」がいったいなんなのか、このときのレイには知るよしもありませんでした。
これが、時の国に住む人々のすべてでした。他にいるのは、柱時計に懐中時計、めざまし時計に壁掛け時計と、時計ばかりでした。といっても、これは単なる時計ではなく、言葉を話して歩き回る、「生きた時計」でしたから、レイは、時計というのは生きているものなのだと考えていました。
レイも王様も、他の人たちも、よその国のことなんて、なんにも知らなかったのです。
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