小さな囚人
「は?」
俺は口を半開きにして固まった。「買う」だと? 何をだ?
「会いたい人がいるんでしょう? その方のお名前をどうぞ」
彼女は口だけ動かしてそう告げた。その口ぶりはまるで、俺のすべてを見透かしているかのようだった。
「それは、もちろん……」
俺は言われるがまま、妻と子供たちの名を口にだした。彼女は甲高い相づちを打ちながら、大きく首を縦にふった。
「三名ですか。では、何年ずつ?」
「『何年ずつ』?」
俺がそう繰りかえすと、リンドウはにんまりと口を曲げて笑ったまま、頷いた。そして、その笑顔を一寸も崩さずに続けた。
「あなたの会いたい人に会わせてあげましょう。何時間でも、何年分でも」
そこまで言い終えると、急に真顔になり、声を低くして囁いた。
「ここまで来るということは、どうせその人は死んでいるんでしょう。あなたが四十年と言えば、その方は蘇り、四十年生きる。五十年と言えば五十年生きる。上限はその方が百歳になるまでです。さあ、どうしますか」
まさか。俺は耳を疑った。死んだ人間が蘇るだと。そんなことがこの世でありえたら、科学も歴史も宗教も、この世におけるすべての秩序がひっくり返ってしまう。
これまでの俺ならば、到底そんな怪しい話は信じなかった。しかし、このときの俺にとって、彼女の言葉は救いの神の手に感じられた。
「妻を六十二年、息子を九十年、娘を九十三年。全員百歳になるまで」
そう伝えると、リンドウは黒いバインダーを差しだした。どこにでも売っていそうな安物だったが、そこに挟まれた紙は一風変わっていた。薄い縦長の和紙に、ガリ版で刷ったような掠れた赤茶色の文字が縦向きにずらっと並んでいる。米粒のようなその字を読もうとしたとき、リンドウが口を開いた。
「時間は後払い方式です。買った年数は、あなたの寿命が尽きたあと、あなたが生きることでお支払いいただきます。よろしければ、この紙にサインを」
俺が生きる。それだけで妻子を取りもどせるというのか。その程度で家族に会えるのなら、迷うことなど何もない。
俺はリンドウに言われるがまま、出された黒インクに人差し指をつけ、おずおずと和紙の上に大きく自分の名前を書いた。
はっと気がつくと、俺はかつての自宅の、自分のベッドの上にいた。
「あっ、起きた!」
娘が無邪気に俺の顔を覗きこみ、笑っている。
「ママ、パパ起きたよ!」
夢か。これは、夢なのか?
カレンダーを見ると、その日は家族の命日の翌日だった。聞けば、家は火事になどならず、俺は無事に出張から帰ってきていたらしい。
俺は娘の頭を撫で、息子を抱きあげ、そして妻を抱きしめてようやく、自分が今いる場所が現実であることを実感した。
ああ、本当に会えた。
ただただ泣き崩れる俺を、家族は不思議そうな顔で見ていた。
あの停留所での出来事の記憶は、何年もの時を過ごすうちに薄れていってしまった。
俺は一時、夢を見ていたんだ。家族を失うという最悪の悪夢を。
家族は死んでなどいない。ずっと生きていたのだ。
いつの間にか、俺の中の記憶はそう書きかえられていた。
やがて、俺は年をとり、大病を患った。
余命宣告をされたので治療を打ちきり、自宅で趣味に没頭し、妻に支えられながら仲良く過ごした。
子供たちも、孫を連れて頻繁に会いにきてくれた。
そしてある夜、いつものように床についた。
いつも通り、新しい朝がくることを信じて。
次に目を開けたとき、そこは知らない場所だった。
大勢の喪服を着た人々が、ざわざわと何かを話している。
その中には、妻の姿もあった。
俺は妻の名を呼ぼうとしたが、声がでなかった。
「こんにちは、──さん」
名前を呼ばれて振りかえると、そこには少年がいた。
黒い詰襟に黒い半ズボン。俺はその独特の服装に見覚えがあった。
「お前は……?」
その少年の背丈は、見た目のわりに、やたら高かった。俺は周囲の大人たちを見た。妻を含む大人たちの背丈は、当然みな少年よりも大きい。だが、少年の目線は常に俺と同じだった。
どういうわけか、俺はこの少年と同じ背丈になっているらしい。
慌てて視線を下に落とすと、なぜか俺は彼と同じ黒い詰襟を着て、黒い半ズボンを履いていた。その手も足も、子供のように小さかった。
混乱する俺に、少年はぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、僕はショウイチと申します。寿命が尽きたようですので、お迎えにあがりました」
やけに色白のその少年は、薄い唇でにこりと微笑んだ。
俺は口を半開きにして固まった。「買う」だと? 何をだ?
「会いたい人がいるんでしょう? その方のお名前をどうぞ」
彼女は口だけ動かしてそう告げた。その口ぶりはまるで、俺のすべてを見透かしているかのようだった。
「それは、もちろん……」
俺は言われるがまま、妻と子供たちの名を口にだした。彼女は甲高い相づちを打ちながら、大きく首を縦にふった。
「三名ですか。では、何年ずつ?」
「『何年ずつ』?」
俺がそう繰りかえすと、リンドウはにんまりと口を曲げて笑ったまま、頷いた。そして、その笑顔を一寸も崩さずに続けた。
「あなたの会いたい人に会わせてあげましょう。何時間でも、何年分でも」
そこまで言い終えると、急に真顔になり、声を低くして囁いた。
「ここまで来るということは、どうせその人は死んでいるんでしょう。あなたが四十年と言えば、その方は蘇り、四十年生きる。五十年と言えば五十年生きる。上限はその方が百歳になるまでです。さあ、どうしますか」
まさか。俺は耳を疑った。死んだ人間が蘇るだと。そんなことがこの世でありえたら、科学も歴史も宗教も、この世におけるすべての秩序がひっくり返ってしまう。
これまでの俺ならば、到底そんな怪しい話は信じなかった。しかし、このときの俺にとって、彼女の言葉は救いの神の手に感じられた。
「妻を六十二年、息子を九十年、娘を九十三年。全員百歳になるまで」
そう伝えると、リンドウは黒いバインダーを差しだした。どこにでも売っていそうな安物だったが、そこに挟まれた紙は一風変わっていた。薄い縦長の和紙に、ガリ版で刷ったような掠れた赤茶色の文字が縦向きにずらっと並んでいる。米粒のようなその字を読もうとしたとき、リンドウが口を開いた。
「時間は後払い方式です。買った年数は、あなたの寿命が尽きたあと、あなたが生きることでお支払いいただきます。よろしければ、この紙にサインを」
俺が生きる。それだけで妻子を取りもどせるというのか。その程度で家族に会えるのなら、迷うことなど何もない。
俺はリンドウに言われるがまま、出された黒インクに人差し指をつけ、おずおずと和紙の上に大きく自分の名前を書いた。
はっと気がつくと、俺はかつての自宅の、自分のベッドの上にいた。
「あっ、起きた!」
娘が無邪気に俺の顔を覗きこみ、笑っている。
「ママ、パパ起きたよ!」
夢か。これは、夢なのか?
カレンダーを見ると、その日は家族の命日の翌日だった。聞けば、家は火事になどならず、俺は無事に出張から帰ってきていたらしい。
俺は娘の頭を撫で、息子を抱きあげ、そして妻を抱きしめてようやく、自分が今いる場所が現実であることを実感した。
ああ、本当に会えた。
ただただ泣き崩れる俺を、家族は不思議そうな顔で見ていた。
あの停留所での出来事の記憶は、何年もの時を過ごすうちに薄れていってしまった。
俺は一時、夢を見ていたんだ。家族を失うという最悪の悪夢を。
家族は死んでなどいない。ずっと生きていたのだ。
いつの間にか、俺の中の記憶はそう書きかえられていた。
やがて、俺は年をとり、大病を患った。
余命宣告をされたので治療を打ちきり、自宅で趣味に没頭し、妻に支えられながら仲良く過ごした。
子供たちも、孫を連れて頻繁に会いにきてくれた。
そしてある夜、いつものように床についた。
いつも通り、新しい朝がくることを信じて。
次に目を開けたとき、そこは知らない場所だった。
大勢の喪服を着た人々が、ざわざわと何かを話している。
その中には、妻の姿もあった。
俺は妻の名を呼ぼうとしたが、声がでなかった。
「こんにちは、──さん」
名前を呼ばれて振りかえると、そこには少年がいた。
黒い詰襟に黒い半ズボン。俺はその独特の服装に見覚えがあった。
「お前は……?」
その少年の背丈は、見た目のわりに、やたら高かった。俺は周囲の大人たちを見た。妻を含む大人たちの背丈は、当然みな少年よりも大きい。だが、少年の目線は常に俺と同じだった。
どういうわけか、俺はこの少年と同じ背丈になっているらしい。
慌てて視線を下に落とすと、なぜか俺は彼と同じ黒い詰襟を着て、黒い半ズボンを履いていた。その手も足も、子供のように小さかった。
混乱する俺に、少年はぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、僕はショウイチと申します。寿命が尽きたようですので、お迎えにあがりました」
やけに色白のその少年は、薄い唇でにこりと微笑んだ。